僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(9/30)山下君、落ち着きましたね。

2008年09月30日 12時08分29秒 | 山P
記事を書いて更新しても
どうもアップされません。

今日、急遽ここへ。
結構落ち着きますね。

昨日のヘイヘイヘイで
久しぶりにニュースを見て
皆大人になったなあと
感じていました。

山下君、落ち着きましたよね。
大学も卒業できて
本人もホッとして
またはポッカリ穴が開いたような
気持ちとか。

新曲は
私にとっては今ひとつなのですが
どうでしょう。
哀愁の歌を歌ってほしいですよ。
次回に期待したいと思います。


そうそう、
友人がファンクラブに入ったことによって
いっしょに
コンサートに行けるかも。
子供が
「トモロッシさんもいっしょに」と
言っているとのこと。
私の山P好きをよくわかっています。
友人も山Pが好きだし、子供も
山Pが好き。
皆で、盛り上がることを楽しみにしています。


今日で
9月も終わり。
秋本格的です。
それにしても日々、秋晴れがなく
寒いですよ。
今日も曇り空。
猫も
動きが鈍くて可哀想。
そこで
ブラッシングをしたり
遊んでやったりして
血の巡りを良くさせています。
いよいよ
コタツを出さなければならない季節に
なりましたね。

明日は母のリハビリ付き添いに行ってきます。
退院しても
これでは心配事が絶えませんものね。

(9/27)もう秋になりました。

2008年09月27日 12時32分26秒 | Weblog
こんにちは。
もう9月は終わりに近づきました。
そして
こちら東北、寒いですよ。
あれほど数日前まで暑かったのに
中間がなく、急に寒くなった。
それでも
私は素足にサンダルを履いて出勤しています。

自分の生活が落ち着きません。
自分のこと、仕事のこと
家庭のことをきちんとやっていかなければ
ならないのに
それらより優先させなくてはならないもの。

母のことね。

北海道から母の兄弟、甥が見舞いに
訪れて
空港までの送迎、見舞いの付き添い等
今週も多忙。
自分の仕事も多忙だったし。


母がリハビリを拒否するんですよ。
その態度は
リハビリ担当の人を困らせています。
頑固だった母がますます
この点について頑固に拒否。
それを聞いて父が
リハビリに付き添い。
そして昨日は私も加わり
リハビリ参加を説得。

自分はどこも悪くない、治っている、と
大きく勘違いしているので
その心を改めるのに必死です。

そして
付き添ってみて
わかったことは
見た目よりも全然悪いということ。

リハビリといっても
言語リハビリ。
手足は動くようになったし
普段の言葉も多弁だし
正確なことを言うことも多くなったので
安心していたけれど
やはり甘かった。

文字の認識
物の認識がさっぱりわからない。

ねこという文字を見て
猫の絵を探すけれど
どれかな、どれかなと迷う。
はさみとかペンとか
それらの認識がない。
まざまざとわからせられました。

これでは
日常の生活に戻っても
包丁とか使えませんよね。
自分は使うつもりでいるようだけれど。

リハビリの途中で
長々と言い訳のような、講釈のようなことを
またも並べて
汗をびっしょりかいて
「ああ、心臓がこわい。」と言います。
こわい、というのは北海道弁です。
疲れる、という意味です。
そんな言葉を出すのも久しぶり。

リハビリを終えて意気消沈して
病室へ。
あとで担当者が私に
母の症状を伝えてくださいました。

重度の失語症ですって。
多弁。
脈絡のないことをさも、話が続いているように
しゃべりまくる。

リハビリ担当者が病室に来ると
ガラッと表情が変わり
「私は疲れているので、明後日来て!」などと
言う。
あさってって、どうしてあさってなのかと
思いつつも
リハビリをしなくては駄目だと
説得します。

それでも
リハビリ室から病室への道順は
きちんと覚えていて
その点は良いとのこと。

正常なときに
頑固だった母は
ますます頑固になって
てこずらせています。

みちのりは長いぞ。


明日から
秋冬の準備です。
灯油の値段が高い。
厳しい冬になりそうです。

(9/15)山下君のこと/母のこと

2008年09月15日 12時51分27秒 | Weblog
こんにちは。
しばらくネットを離れていると
山下君の情報も全く
わからず。
来月、こちらにコンサートで
来るとか。
結構、来るのですね。
私の友人はとうとう
ファンクラブに入りました。
うらやましい。
子連れで入れるから、
それが楽しみとのこと。

それらも静観しています。
今の自分は
心の余裕がないし。

コードブルー
終わりましたね。
あれから何日か経っていて
すぐに書き込めませんでしたが
実は
医者役、彼、すっかり板についたというか
はじめのころの
若すぎる医者、というイメージを
払拭されて
彼の手術の場面には
目を見張りました。
やっぱり
彼はやってくれる。
本当によかった。
これでまた
新しいファンがついたような気もします。
実際にそんな声を聞かれたし。
すぐにSPが作られるなんて
最高です。

そもそも私がブログを始めたきっかけは
山下君のことを書きたくて、だったから
しばらく
彼について書いていなかったけれど
毎日
彼のことを想っていましたよ。
職場で
唯一彼のことを話せる人もいて
憂鬱な日々の中の
一筋の光です。

ところで
彼、大学の卒業のメドは?
これも情報不足の私です。
今月ですよね。
ワイドショーはなるべく朝
見るようにしていますけれど
今のところ
それらしき話はないから
今月末ですかね。

そして
彼の次回のドラマは
また違った役に挑戦してほしい。
できれば
誰かベテランのおもしろい人との
掛け合い。
大泉洋さんとかね。
明るいドラマを期待しています。
恋愛ものは
私のいつもの気持ちのように
いらないです。



昨日
母の所へ。
お昼をどのようにして食べているか
見たかった。
先日は
検査のあとで
ベッドに寝たままの食事だったので
それが続いていたら
一人では可哀想と思って
行ってみると
ちゃんと
ベッドから降りて
テーブルと椅子で食べていました。
そしてなんと
右手で箸を使っていたのです。
私は喜びました。
最初は
右手が利かなくて
もう駄目かと思いましたが
少しずつ身体の機能が回復しているようです。
見た目だけですけれど。
でもそういう小さなことでも
喜んであげたほうが
彼女の気持ちも弾みが出るかと思って。

相変わらず
独り言に付き合っています。
やはり
頭の中は
お店のことがこびりついている。
私の夫のことを
お客さん、と言うしね。
たまに正常に戻って
だんなさん、という認識をしてくれるけれど。

「今日はお客がいっぱいなの。昨日は
そうでもなかったけれど。」
なんて
かつての店の状況を
現在だと思って私に伝えるんですよ。
私もそれに合わせて。

母は
冷蔵庫命の人。
いつも
店の冷蔵庫の点検をしていたので
そのクセがまだこびりついていて
病室の冷蔵庫の中を点検しています。
古い果物がまだ収まっています。
私が
「もう、古いから捨てなよ。」と言うと
「どうして?まだ大丈夫。」
「この冷蔵庫、あまり冷えていないから
だめだよ。」とまともなことを言うと
怒った顔で
「何、言っているの。この冷蔵庫は
一番性能がいいんだから。」
と答えます。
ああ、店の冷蔵庫とすっかり思ってしまっている、と
気づき、
「そうだね、じゃもっと入れておこうね。」と
言いました。

彼女の頭の中は
店のことでいっぱいです。
「お父さんに怒られて、怒られて。」とも
つぶやきます。
そのようなことは現在なくても
いつのことを思い出して言っているのでしょう。

母は
店に囚われてしまった人間。
もう解放されているはずなのに
正常でなくなった頭にあるのは
囚われたもの、
よくある話です。
まるでドラマを見ているようにね。
だからこそ
哀れに思えます。
でも
その母の脈絡のない
つぶやきを
じーっと聞いてやります。
私の夫も
「勘違いでも何でもいいから
聞いてやれ。言葉の練習にもなるし。」
と言ってくれます。


父と私は
顔をあわせていません。
一応、書き込みのできるカレンダーを
置いてきて
付き添っておいた様子をメモしておきます。
店のことを書いてきました。
そう、
父が自分のわがままで延期してきた店の閉鎖。
その犠牲者が母。

いつか
言っていた母の言葉。
「私は絶対、復讐してやるんだ。」
店に手伝いに行っていたときに聞いた言葉。
あれを
思い出したんですよ、この間。
だから
先日のブログにも
母は復讐をしているのかもしれない、と
書いたのですよ。
私の見方ではなく、母が過去に言っていた言葉です。

足や手をマッサージしてやると
気持ちがよいと言っていました。

冷蔵庫、悲しや、です。
母の冷蔵庫です。

(9/13)生きるもの、死ぬもの。

2008年09月13日 15時21分52秒 | Weblog
いつ以来だろう。
すっかりPCを離れてしまって
今日に至る。

9月も中旬。
8月はずっと曇りか雨。
湿度が高く、仕事をするうえで
しんどかった。
職場は昔のように、風の通る職場ではなかった。
廊下の窓は閉めっぱなし。
湿度が高いからジメジメとした空気が漂い
建物そのものが死んでいるようだった。
私は廊下を歩くとき
できるだけ窓を開けるようにしていた。

今の子供は
エアコン無しでは過ごせないらしい。
通り抜ける風の恩恵を好まないらしい。
何日も
私は憂鬱だった。

ようやく晴れて、空気はサラッとしたかと思えば
気温が上昇。
しんどい毎日だ。


さて、
このブログを書かない間
いやなことが連続していた。

以前、書いたが
職場の上司が闘病の末亡くなった。
皆は行く行くはそうなるのだろうと
思っていたが、それは早くに来た。
3日間、泣いた。
お顔を見に自宅に行き、泣けた。
身体を焼く前に
車で職場に来たとき、お見送りの時に泣けた。
葬儀で泣けた。
まだ50代半ば、働き盛りの年齢。
早過ぎる死。
悲しかった。
私が在職のころ、同じ部にいた人。
そしてこの10年のうちに、上司になり
私が10年ぶりにここに来たときには
親切に応対してくれた。
思想的に違っても同じ部として働いた同志である。


そんな折
今度は
私の母が倒れた。
葬儀に出かけるころに
父から連絡があった。
脳梗塞とのこと。


両親がやっていたお店を閉めたのが
今年の3月。
母は数年前から
店を閉めることを提案していた。
「私をこれ以上、働かせる気か。」と
いつも父に言っていた。
働かなくても、年金と蓄えで夫婦二人
もう大丈夫な時期。
それでも父は店を閉めなかった。
この店は母が切り盛りしていた。
市場への買出しも一人でやっていた。

集中治療室には
見舞いは1人ずつであった。
父が先に
母のベッドに行き、
寝ている母を起こそうとしたのだが
それはそれはしつこいくらいに
起こそうとしたのだが
身体をゆすったり
頬をたたいてみたり
手をたたいてみたり
まったく起きなかった。
父は困って
近くの看護士に聞いてみた。
看護士は
母に呼びかけると
母はすぐに起きた。

その様子を離れたところで
見ていた私は
母の復讐が始まったのかと
思った。
父が呼びかけても起きないというのは
演技にさえ見えた。
むろんそんな演技などする余裕が
あるはずもないが。
母の抵抗に見えた。

父は父で
足を骨折していた。
ゲートボールをしていて
そのボールに足を載せてしまい、骨折したというのだ。
母がまだ正常なとき。
あの湿度の高い日々の中で
母は父を病院に毎日連れていき
お風呂に入れ
身の回りを介助して
母自身が倒れてしまったのだろうか。

店を閉めて
ようやく母が解放され
これから自分の時間を生きよう
楽しみを見つけていこうと
していた矢先に
父が骨折して再び
父のために気苦労をしているうちに
自分が脳梗塞で倒れてしまう。
店を閉じてわずか半年。
母がこれから正常な判断をして
以前と同じように健康体で
あちこちに旅行に出かけることは
できるのだろうか。

昨日の夜
母の食事の付き添いをしたとき
この一週間で
麻痺していた右手は動き
言葉も少し明瞭になってきた。
まだ予断許せぬ状況であるが
食事を以前より
ひとつひとつこれは何かを
認識して、おいしいと言って食べたとき
安心した。

しかし
頭の中はまだ混乱している。
「お父さんは店に行ったよ。」と
私に言う。
私は
「お店は3月に閉まったでしょ。」と言っても
「え?」と
理解できていなかった。
そして
私が病室を去る間際に
「灯油、入れた?」とたずねる。
30℃近い暑い日だった。
私はその言葉を受け入れて
「今日はまだ暑いから、まだ入れなくていいよ。」と
答えた。
お店のストーブの灯油のことだろう、と思った。
その言葉のやりとりをしていて
涙が出た。

独り言のように
つぶやいている言葉をずっと聞いてやった。
それでいい、と思った。
言葉をどんどん発して
記憶、言葉を取り戻してほしい。


父と私の確執についてはいつか書こう。


カエルの赤ポッチがいなくなった。
やせガエルを2ヶ月ぶりで発見した先月。
もう既に亡くなっていたと思ったが
雨の日
姿を現した。
以前より一回り大きくなっていたが
逆に、痩せているのが目立ち、
腹のふくらみはなく
浮きのようなものがぺしゃんこだった。
そして苦しいのか
口を開けての呼吸だった。
哀れだった。
2日姿を現して、それ以来見ていない。
私には
「あれから少し生きていたよ。姉さん、ありがとう。」
と挨拶に姿を現したと解釈した。
死を静かに迎えてほしい、と雨の中
寂しく祈った。


生きているものの死、生きようとする姿。
それらを
感じたこの1ヶ月だった。


また、来ます。
精神的にもいろんな面で
神に試されている日々です。
それでも私は
生きていきます。