僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(3/23)3匹の猫

2017年03月23日 17時13分35秒 | ネコ
うちに通ってくる猫が3匹いた。

それぞれバラバラにうちの庭を通っていったり、サンルームで休んでいったり。

茶色と白の猫を、チャイロ
白とブチの猫を、シロ
黒の猫を、クロと名付けた。

シロの顔は面白い。頭がおかっぱのようで、鼻の下の模様も鼻くそが伸びているように見えて
剽軽顔だ。
首輪をつけているので飼い猫だ。

チャイロは、うちのシンノスケと同じ模様で、シンノスケよりは痩せている。
首輪をつけていないので、ノラかと思ったが非常に懐っこい。見たら、去勢をしている。
これも飼い猫か。
1階の食堂に躊躇なく入ってきて甘えるほどだ。

クロはおとなしい。これはノラかも。
チャイロによく追いかけられていた。

昨年の秋ごろ
毎日のようにその3匹が入れ代わり立ち代わりやってくる。
クロは黒いので、台所のすりガラスの向こうに座って待っているのが見えるのでよく餌をやっていた。

11月末にサンルームの大掃除をした。
私の頭の中では、クロを迎えようと思っていた。
他の2匹は飼い猫のようなので、クロが、うちを望んで住み着くならそうしてもらおうと思った。
だが、なかなか思うようにはいかない。
チャイロがクロをいつも威嚇追いかけていくうちに、クロは来なくなった。
そのうち、シロがサンルームで休むようになった。
チャイロとシロがいっしょに寝ている姿も1回だけ目撃している。
同じ飼い主なのだろうか。
そんなに飼い猫を外に自由に出している家があるだろうか。
毎日姿を見せていたチャイロが来なくなった。
最後に目撃したのは1月の半ば?
サンルームの籐椅子に座っていた姿は、薄汚れて元気のない姿。
今度はシロが毎日来るようになった。
ご飯を食べて、少し寝て、かと言って懐くようなことはなく。


クロもいないし
チャイロも姿を消したし
思惑通りに行かないなあと思っている。

そして今日。
午前9時ごろ、自転車でコンビニに行くとき
うちから数分のアパートの駐車場でチャイロを見た。
そこは前から何度かチャイロを目撃していた所だったので
今日もそこを横目で見ながら通ったんだ。
私は自転車から降りて、声をかけた。
チャイロは相変わらず、ニャアと言ってすり寄ってきた。
チャイロは私のことを認識しているかどうかはわからない。
他の方がマンションなどの入り口にいたチャイロに声をかけて、それに甘えた声で応じた姿も目撃していたから。
駐車場でゴロンゴロンとしたけれど
以前見たような薄汚れた状態じゃなかったので、
飼い主がもう外に出さないようにしていたのかもしれない。

コンビニの帰りに見てみるともういなかった。

毎日のように姿を見せていながら
こうして別な場所で会いながら

どこの猫なのか一切わからない。
シロもチャイロも、このアパート付近で目撃していたことから
車の往来の激しい道路を隔てて渡ってくることは確かだ。
できれば放し飼いはやめてほしい。
チャイロの姿をずっと見なくなった今日まで
いろいろといやな想像までしていたのだ。

さて、クロ。
もしかしたらあの猫も飼い猫なのでは、と根拠なく思い始めた。
生粋のノラなら、餌を求めて、うちに来るはず。
見た目、コロコロと太っていたような気がする。
どうかあの猫も飼い猫であってほしい。
そうでないなら、うちに来てほしい。
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(3/21)雨になったのでカエル探し

2017年03月21日 20時10分04秒 | カエル
今日は朝から雨で
夜も降り続く。
雨、となれば

カエルです。
気温が肌寒いので、交尾の声はなく
冬眠から覚めて、とにかく外に出てきた、という感じ。
路地を出た車通り
道路の真ん中にひとかたまりが遠くに見える。
もう轢かれてしまったか、と恐る恐る傍へ。
雨に濡れたコンクリート好きのカエルはへばりついていた。
すぐに拾って戻ろうとすると
脇に2匹。
そして民家の塀の隙間から出ようとしていたのを1匹保護。
計4匹、どれもこれもデカい。
ずっとずっと生きてきた証拠の大きさ。
それがあっという間に轢かれるのだから、不審者姿の私は
なりふり構わず拾う。
遠目で見れば
何かを拾ってビニール袋に入れている、と明らかに見えるが
まさかカエル、とは思っていないかも。
じゃ、何か。
犬のフン?
いちいち、カエルを拾っていますよ、怪しい者じゃありませんよ、なんて言えない。

そして
うちに庭に放つ。
うちの庭のカエルも出てきて(今日は大きいのばかり)
全部で15匹くらいか。
カエル同士会えば、重なるのだが、今日は今一つ気分が乗らないらしい。
やはり気温が低いからかも。
もっと温かい気温の雨模様であれば
鳴き声があちこちに響いて交尾が始まるのだが、
もう少し先の雨の時かもしれない。
さあ、これからカエルの姿に一喜一憂する季節が始まる。
生まれてきた以上は、全ての生き物天寿を全うしてほしいな。
そして
変人の私の後継者がほしい。
老人になっても、懐中電灯を照らしてカエルを保護する姿は
「老人の徘徊」に見えるかもしれない。
一回り若くしたもう一人の私が欲しい。
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(3/20)お墓参りで思い出したこと

2017年03月20日 22時14分45秒 | 日常、仕事、認知症
早朝と昼の寒暖の差が大きくなってきた。
が、明日は朝は気温がいつもより高いがその後はそれほど上がらないようだ。
連休は天気が良かった。
昨日は休みで今日は仕事だった。
仕事から帰って
夕刻の食事の準備のために夫に起こしてね、と頼んだが
起こしてくれたのに、起きなかった私だ。
ちょっと疲れていた。
その分、夜は少し起きていられそうか。
仕事モードの日は義母と諍いがないようにしていたが
そうもいかなかった。


昨日はお墓参り。
義母には数日前から毎日、予告しておいた。
毎日言わないと忘れるから。
その2日前には
義母の髪を洗い、カットしてやった。
お墓参りに行くのに、その「鬼婆」みたいな頭では恥ずかしいであろう、と。
スッキリして行こう、と。
機嫌が良かった。

当日のために、お供えのお花やお菓子、お茶、ジュース類、線香、バケツなど一式を用意しておいた。
いつ、「行かない!」となるかもしれないので、私達夫婦だけでも行ける用意はしておく。
義母にとって
正月の私の実家に行って以来の外出なので
墓参りの後は買い物で刺激されたら、と思っていた。

当日の朝から、事あるごとに
「出発は9時ね。」と
3回言った。
そして
9時、着替えも何も準備していなかった。
やはり忘れていた。
「9時だよ、準備して。」と言うと
上着を着ても、何かを探している。
何を探しているのかわからない、「何を探しているの?」と聞くと
あっさり
「じゃ、行かない!」となった。
もう、彼女の頭の中は
自分の夫の墓参りは面倒の対象になっていた。
いろいろ準備しなければならないから、とこれまで自分でお茶の準備などしたりしたが
おそらくそれもできなくなったであろうとこちらで準備したが
しておいてよかった。
強引に連れていくことはしなかった。
喧嘩になるのはいやだった。
逆に義母はホッとしていただろう。

そして
夫と共にお墓に。
2か所。
最初は、義母の本家の墓。
義母には兄弟がたくさんいるが、もう見捨てられた墓だ。
その墓をいつもお参りしているのが
私達3人だった。
そしてとうとう、私達2人だけになった。
私は義母の本家の人たちとは全く顔を合わせていない。
合わせていたのだろうが、覚えていない。
義母の姉妹とはよくうちに遊びに来て話をしていたが
その妹も数年前に亡くなった。
もう一人の妹も今は県外で娘(夫の従妹、唯一仲良く話していた人だ)の所にいるらしい。
しかし、義母とその妹とは仲違いをして、おそらくは死ぬまでその関係であろう。
あれだけ、仲良し美人三姉妹だったのに(私も彼女たちには好感を持っており、今でももし会えば、ニコニコとして挨拶できるであろう)
義母の頑固な性格がまるで信念のように、頑ななのである。
兄弟のいない私達夫婦。
兄弟の仲違いというものを知らない私達。
あんなにたくさん兄弟がありながら、孫もたくさんありながら
もう、誰も訪れなくなった義母本家の墓。
お花、もっと豪華なものを持ってくればよかった、とちょっと後悔。
次回の墓参りはもっと派手な華やかな花を、と思った。

そして
夫の父の墓へ。
ちょうど今年は亡くなって20年目である。
先日亡くなった渡瀬恒彦さんと同じ年齢で亡くなった。
若い年齢である。
どうしても夫の父親であるから、あの時は老けて見えたけれど
年齢を聞けばまだまだ現役バリバリの年である。
声のでかい義父だった。
仕事人間だった。
職人気質の頑固親父の典型だった。
器用な人だったので家のあれこれは彼がやった。
だから、彼女義母は何もしなかった。考えなくてよかった。
それが今の姿に反映されている。
近所の人たちから義父は作り物や修理をよく頼まれ、感謝されていた。
近所の小さい子供たちがよく遊びに来ていた。
それを受け入れる義父、義母だった。

ただ一つ、義父の諦めた事があった。
私道の権利問題である。
器用で、何でもやり遂げなければならない性格の義父があれこれやってみたが
どうしてもたどり着けなかった私道の件。
それを知ったのは義父が死んでから10年近くのこと。
戦後の問題が残っていたことに衝撃だった私だ。
そこから一念発起、私は動いた。
義父の残した資料やら法務局やら文系の私の苦手とする分野に
不動産の方と司法書士と3人で何カ月もかけてやった。
その間
夫や義母は何をやっていたか、彼らに期待することは何もなかった。
ただ、彼らのハンコをもらうのみ。
私がどんなに動いても、私の名はない、
彼らの権利である。
義父がたどり着けなかったそれらを漸く成し遂げたときのあの気持ち。
この問題は、戦前の私道の持ち主から始まる。
そして勿論、それらの人はこの世にもういない。
年数が長引けば長引くほど、厄介になる。
それでなくても、時は平成、本当に驚いた、知った時。

その子孫に辿り着くまで時間がかかったし、子孫にとって私道の権利があったとは、と寝耳に水であった。
そこを更に説明説得することの難儀さ。
中には、都会の私道なので、金額を吹っ掛けてくる人もいるかもしれない。
そんな不安があったが、接した方々は皆良い方たちだった。
すべてが解決したとき、
御礼の言葉を述べに、
夫に
「あなたとお義母さんが本来は行くべきでしょ。」と私は言った。
しかし、当然義母は行かなかった、面倒は嫌いな人だから。
夫と私とで挨拶をしに。
かかった費用、司法書士などへの謝礼金は私達夫婦から払った。
あの時
まだ私は義母への請求もできない人間だった。
考えてみれば、義父の残した別な土地の相続金も入っていたころだから
義母にもお金はあったのだが
夫は
「おふくろは金がないだろ。」と言っていたので、私は請求するのもためらっていた。
いやいや、彼女はそのお金、贅沢な服、贅沢な食品に自由に使える身を謳歌していたころだった。
あの気の弱い自分を後悔する。
お墓の費用も義母と夫の名で建てたにも拘らず(費用は折半)、
義母は自分で建てた、と思っている。
自分好みのお墓にした、と自慢している。
そしていつの間にか夫も、こちらでお金を出したことを忘れている。
「お墓って、おふくろが建てたんだっけか。」
「何、言っているのよ。ちゃんとこちらでも払ったでしょ。お墓にもあなたとお義母さんの連名で建立したとなっているでしょ。」
お墓の連名を見るたびにあの会話を思い出す。


お義父さん、こんなことを思い出しましたよ。
私道の件、我ながらあっぱれ、と思っていますよ。
あの、お義父さんの解決できなかったことが果たして自分にできるだろうか、と不安でしょうがなかった出発点。
もし、私達離婚したら、私、疲れ損ですよ。
今年のお盆の時にまたお義母さんを連れていきますからね。


夕食のあと
義母はいつも自分の食べたあとの食器を洗い、戸棚に仕舞うことになっている。
たまに、1つ2つ洗い忘れたり、仕舞い忘れたりするがそれは飲みこむことにしている。
しかし今日初めて
食べたあとにそのまま食器をテーブルに載せたまま、部屋に引っ込んだ。
どういう意味かわからなかった。
部屋に行って
「食器は洗ってね。」と言った。
が、義母の顔は険しく、「息子に頼んだ。」とあからさまな嘘を言う。
「とにかく洗ってください。」と言ったら
「自分は何もしないくせに!」と私の作った料理を食べたあとのこのセリフ。
切れた私はそのセリフは私が言いたいくらいだ、言った、と思う。
夫が「いいからそのままにしておけ。」と言った。
というわけで、義母の茶碗類はそのままです。

「情けない。こんな親だと思った?あの人のプライド、ってあるでしょ。
自分のできることは、お米研ぎと自分の食べた食器洗いだと他の人たちに自慢できるようになっているでしょ。
それは昔からの習慣で、本能に近いものでしょ。できなくなったのではなくて、やらない、やる人がいるからやらない、
なんて情けないでしょ。」と誰に言い聞かせるわけじゃなく、家事をしながら口にでる私だ。
夫は傍でご飯を食べていたけれど、夫に言い聞かせているつもりでもあるし、独り言でもある。
義父に対する畏敬の念を持つ気持ちはあったが、義母には何一つ、尊敬の気持ちが持てないでいる私である。









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(3/11)みやぎ鎮魂の日

2017年03月11日 21時15分20秒 | 東日本大震災
今年からなのか
今日この日を「みやぎ鎮魂の日」と県が定め
各地に献花、記帳、黙祷と、追悼の場を設けた。
勿論昨年もそうであったが
6年目を迎えて
あの日の悲しみを風化させないためにも
そう呼称するようにしたのであろう。

午前中から雪が舞っていた。
午後2時に家を出る。
目的地(県庁)はうちから自転車で6、7分の所だ。
いつもは職場の帰りに寄る年が多く
お昼過ぎには到着する。
今日は自宅から向かい
外であの時刻(2時46分)を迎えようと思った。
土曜日の県庁。
大勢の方々が記帳、献花をしに。
そしてあの時刻に合わせて追悼式があるからか
喪服の方々がたくさん来ていた。
私は
県庁を出て、そこから自転車で3分ほどの市民広場へ。
ここで追悼をしようと思った。
                   




この写真は6年前の地震の数日後の市民広場の様子です。
神戸市の車、人々。
あの時は嬉しかった、心強かった。
阪神淡路大震災を乗り越えてきた人たちが
東北の町にこの車に分乗してやってきた。
私は思わず立ち止まって頭を下げた。
あちらの方も黙礼した。


その市民広場に今日は我が町の人々がたくさん
献花(ここにも献花台が設置されている)し、追悼しようと集まってきた。
国歌斉唱、そして2時46分、東の方向に向いて、皆で追悼。
目を閉じて、心から祈る。
そして私の耳から、車の音が消えた。
車が激しく往来する音が消えた。
なにゆえに?
車も止まっているのか?
目を閉じているから様子を見ることができない。
何百人もいるにも拘らず、車も何台も往来するにも拘らず
都会は静寂の中に在った。
まさに
鎮魂の日であった。
泣けてしまった。
隣の方も泣いていた。
あれから6年なのに
ついこの間のような悲しみの涙だった。

あの
車の音が消えた不思議。
雪がちらつく。
あの日の象徴的な大粒の雪ではないが
あの日と同じように寒空の雪である。







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(3/10)明日のことはわからない

2017年03月10日 09時29分15秒 | 東日本大震災
今日の気温の最高気温は
お昼頃で8℃くらい。
外は晩冬の冷たい風。
洗濯物をベランダに干していた時
珍しくダイジローがベランダに出て
走っていた。
ダイジローはずっと1階にいたので
よく私が玄関から外に出れば
いっしょについてきて
ゴロンゴロンとし、雑草を食んだり、草花の匂いを嗅いだり
庭を走ったり、とそれが習慣だった。
2階に上げてからは、それもできなくなった。
で、ベランダである。
寒いから早々に部屋に入れたけれど、これから暖かくなってきたら
また玄関から庭に出してやろうと思う。

今日は休日。
早朝、ゴミ出しに行くとき
庭の石の下の小さなカエルの姿を確認したり
大きくなってきた樹木をしばし眺めたり
草花の蕾を見たり
明るい太陽の光を浴びたりと
一時(いっとき)、平穏さを喜んだ。
そしてすぐ思った。
明日のことはわからない、と。
明日もこの平穏を確実に感じられるとは限らないと。

誰もが予想できない、明日のこと。
しかし
今日は今日で
このダイジローのゴロンゴロンや
カエルたちを驚かしてしまったことや
名前のわからない樹木に心の中で挨拶したことなどささやかな平穏を
愛そうと思う。

明日
震災6年目。
県庁に献花に行く。
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(3/7)今年のカエルと義母の様子

2017年03月07日 13時55分28秒 | 日常、仕事、認知症
今日は普通に寒い。
まだまだ「春」とは言いがたい風の冷たさ。
だが日差しは強い。
昨日の夕方、雨が降りそうな雲になった。
そして気温は少し温かめ。
私の頭、ピコーン。
カエルが出てくるかもしれない、と。
夜、懐中電灯を照らして
庭を見れば
やっぱりカエルたちがモソモソと出てきていた。
南の庭の巣穴は
目が覚めたカエルが順番待ち。
懐中電灯の明かりに、出るのを躊躇していた。
東側の庭のカエルは小、中のカエルが4匹ほど出てきた。
うちのカエルたちがこうなので
路地を一応チェック。
が、1匹もいなかった。
「明日からまた寒くなるからもう少し待っていてね。」とうちのカエルたちに声をかける。
まだまだ、春の雨が降る時期じゃない。
春の雨が降れば、カエルたちはすぐ交尾期になる。
路地や庭のあちこちで重なる。
それを私が拾って安全な場所に移す。
そして6月ごろ、小さな小さなカエルたちが庭に出てくるのである。
そんな季節になろうとしている。
またカエル救済の日課が始まる。
その前に
庭の片づけにも手をつけなくては、ね。
義母の捨てたあれこれが南の庭に散らばっている。
寒くてそれらを拾う気のない私。
温かくなったら、やります。

その義母
先日の夜
私と夫が食事をしていたら
義母の部屋でドーンと音がして
覗いてみると

ベッドの横に倒れていた。
真っ暗な部屋から廊下に出ようとして
ふすまにぶつかって(ふすまは開いているものと思っていたらしい)
そのはずみで尻もちをついていた。
ふすまに額をぶつけたらしい。
そのまま起き上がり、大事に至らなかった。
しかし
それから2、3日して
その額が青くなっていた。
ふすまにぶつかったことは忘れていた。
日頃
豆電球もつけないで真っ暗にして寝る習慣がある義母なので
明かりをつけて寝よ、と言っても
絶対に言う事をきかない。
廊下の明かりをつけておいて、と言っても
「夜中にトイレに行かないから大丈夫。」
「トイレに行かなくても、例えば地震があった時や急なことがあったとき
慌てるから、つけといて。」と強制的に洗面所の電灯をつけて寝させたが
早朝、出勤するときに廊下を見ると
いつのまにかその電灯を消していた。
消したことすら忘れる。
前夜のそれについての会話すら忘れている。

今度は腰の痛みだ。
尻もちをついたところだ。
痛くて動くのがつらいので、コタツに入ったままの姿勢。
その場で湿布薬を貼ってやる。
寒いから、何枚も重ね着である。
服を脱ぐときも、着ているものは前閉じのものではなく
頭からかぶり着るものばかり。
なぜ、そんな脱ぎにくいものを着るのか、前開きのほうが動きやすいし、脱ぐのも簡単だろう、と言っても
全く聞く耳なし。
タイツもピッタリしたものを穿いている。
若いときの習慣はなかなか直せない。
股引のような緩やかなもののほうが温かいし、脱ぎやすいと言ってもダメ。
それらを脱ぐときのあの姿態。
30分近くかかった。
その割に
動いて外に出たりしているのだ。
痛くて動けない、と言っていながら
外に出て洗濯物を干している。
仕事から帰宅すると、テレビがついたまま、部屋にいない。
トイレかと思い、声をかけたがいない。
外から台所のドアを開けて中に入ってきた。
「洗濯物を干していたの。手洗いしたの。」と言いつつ。
しかし私の目の前では
這うようにしてコタツから出てくる。
そんな時
世の介護をする人たちは手を差し伸べるだろう。
夫に何か言いがかりをつけるために
自分の部屋からスタスタと駆け寄って
何か言う。
「なんだ、動けるんじゃないか。」と夫。

彼女は
手を差し伸べられるのを期待している。
まだまだ
私の心は抵抗感がある。

老人のあれこれに基準はない、それはわかっている。
90歳過ぎても元気で社交ダンスをしている人もいる(父の姉)。
86歳の父が毎日、料理をしている。
83歳になる母が料理はできなくなっても、掃除をしたり洗濯機をかけたりとしている。
義母の姿を見ていると
急に何もできなくなった、ということではない。
若い時から、することが限定してきた。
たいていは、義父がやっていた。
義母が拭き掃除をしているところを見たことがない。
掃除機を使っているところを見たことがない。
(掃除機があっても、部屋は掃くのみ)
庭の草取りを見たことがない。
せいぜい、花を植えたり、ごちゃごちゃと可愛いものをずらっと棚に並べるくらいだ。
それが自慢である。
小言を言う私に不満があるだろう。
飾ることだけは一人前で
捨てることをしないから(不要な物や腐ったもの)
私に言われる。
義父の仏壇を見ればそれはわかる。
お菓子やお茶が干からびている。
飾るのが愛情なら、捨てて綺麗にするのも愛情だろうに。
庭に、着ないものやサイズの合わなくなった下着を捨てて、それでおしまいである。
片付ける人(私)がいるので、気にしない。
自分のものじゃない、と言えばそれで彼女は済む。


言う事だけは一人前、立派だ。
そんな彼女に
私はまだまだ、心から
「お義母さん、大丈夫ですか」なんて手を差し伸べることはできないのである。
生き方の違い、愛情のかけ方の違い、これは仕方ないだろう。
そこまでいっしょになることはない。
お互い選び合った者同士ではないのだから。
同居した当時は嫁姑問題は抱えてこなかった。生活費の問題はあったが。
お互い、干渉なしの同居生活だったから。
二世帯にして(台所はいっしょだが、食事も別。風呂、トイレ、洗濯も分かれている)、彼女たちの生活分野に入ることはなかった。
そしていよいよ、彼女の域に入らねばならなくなったとたん、
仏壇のお供え、トイレ、納戸の状態などなど、干渉しなくてはならないことが増えた。
そう、ここから我が家は嫁姑の問題になってきているのだ。
こうしてね、ああしてね、とその都度言わなければならないし、見届けなければならない。
ゴミはプラと一般ごみに分けてゴミ箱に捨てるように、と言ってそれをするまで見届けなければならない。
後でやる、と言われたら、今やれ、となる。
なぜなら、次の日にはそれを忘れているから。
急に干渉が多くなれば、私のことを恨むのは大きいだろう。
それをテレビの画面に向かって言っている。

私の知人に
介護が終わったとたん、離婚問題が出てきている人がいる。
他人事ではないね。
まあ、まだまだ「介護」というには抵抗があるが、今の自分。
干渉している時は口うるさくても、問題は解決していくから。
言ったことを覚えていない、何を食べたか忘れる、これは自分にとって
さほど気にならない。
対処は幾らでもある。







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(3/1)老舗デパート破産閉店

2017年03月01日 19時54分34秒 | 日常、仕事、認知症
今日から3月。
早朝の出勤はまだ寒いけれど
日中は日差しがあれば
部屋の中は暖かい。
3月らしい日差しだ。
クロッカスも蕾が見える。
ヒヤシンスもそう。
この冬はとうとう大雪にならなかった。
雪は降ったが
雪かきを一度もせずに冬が終わっていく。
仮にこれから降ったとしても
陽の光にすぐに融けてしまうだろう。
凍り付いた道路をそろそろと自転車で出勤せずにすんだ。
冬よ
雪よ
また来期。


衝撃的なことがあった。
地元の老舗デパートがつい2日ほど前
突如として閉店した。
ここは職場に近いので
よく仕事帰りに
地下食品売り場に行って
野菜やら
パンやら
1週間には2,3回寄っては買ってくる。
ついこの間も
夫はバタール、私はガーッリクパンがお気に入りで
「ここのガーリックパンが一番おいしい。」と売り子に伝えたばかり。
「〇〇月〇〇日に閉店します」などの予告はなく
突然の破産宣告らしい。
なんかショックだ。
駅前のデパートとして70年くらいの歴史があるらしい。
確かに古い。
名前が3度ほど変わっているが
内装はそのまま。
リニューアルとは言っても
建物自体が古いから
客も離れていくのだろう。
私は混んだところがいやなので
お中元やお歳暮はいつもここにしていた。
重宝していた。
最近食品売り場は結構客が多かったし
活気が出てよかったなあ、と思っていた矢先。
あれ、取り壊すのだろうか。
ホントに駅前なんですよ。
ダイエーはなくなるし(イオンになった)、
ああ~、へこむ。
他の店のガーリックパンと食べ比べしてもやっぱり
私にはあの店のが口に合う。
一辺に2本も食べてしまう。
ポイントカードなど、無駄になってしまった。
なんとか
維持してもらいたいね。
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