僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(6/18)母が逝った

2017年06月18日 19時55分51秒 | 両親のこと、入院のこと
「父が泣いた」の記事から一週間後の12日、母が逝った。
2つ目の病院に転院してから2週間も経っていない。
急激な変化だった。
食べなくなってから(元々、前の病院でも食べる量は少なかったが、食べる食べないは別として、毎日3食出ていた。それがこちらの病院に来てからは
食べないとなったら、食事が出なくなった)、急に弱り始めた。

こんなことを今更言ってもしょうがないが、あの病院に対する不信感は結局払拭できなかった私だ。

「死」が軽い。
そうだろう、毎日のように誰かが死に、淡々とその日の当番医師が「死亡宣告」して足早に去っていく。
私の目の前で、呼吸が止まったのは8時少し前。
父に電話をしたのが8時、とケータイに記録されているから、その時刻だ。
が、医師の死亡宣告は8時52分。
これが母の死亡の時刻になった。

親の死に目に会えない、とよく言われるが
神様、
私の目の前で、母、あっちに逝ってしまったよ。
私一人で母の最期を看取ったよ。
もう人事不省に陥っているから、苦しむとか痛いとか、見ていてこちらがつらいとかの感情はなかった。
穏やかな、というのもちょっとふさわしくない。
ドラマチックでもない。
静かに呼吸が止まった、もっともっと揺り動かせば、また再開するような静けさだった。
そしてその直後から
非日常の日々が始まった。
それは記録として、後に気持ちが落ち着いたときに書いておこう。

葬儀が終わって、一日休んで、仕事を始めた。
そして、死んだ時も葬儀の時も涙が出なかったのに
今日はいろんなことが思い出されて、いろんな後悔が押し寄せて
スーパーの中をウロウロしながら泣けてきた。

お母さん、ヨーグルトを毎日食べ続ける私です。
毎日、あなたに、ヨーグルトを買って、この味、あの味、と何種類ものヨーグルトを試して
自分も毎日食べているうちに、昨年から気になっていた腸の張りがすっかり無くなって
ヨーグルト効果だ、と思って食べています。
あなたに、あんなに勧めていた自分だから、これからも毎日食べます。


私は
自分の後悔に苛まれるのが怖いのだ。
後悔。
もっともっと、自分が今年の正月以降に
実家に顔を出すべきだった。
父の手紙が届いたときに飛んではいったが
もっともっと踏み込むべきだった。
台所の椅子に座っていた母の首を振った表情をもっともっと
自分のものにすべきだった。
強引にでも、父から引き離し、すぐに病院に連れていくべきだった。

そんなことを言ったって
もうどうしようもないだろう、とつぶやく。
葬儀期間中は
弔問客の接待に追われて、そんな後悔は押し寄せなかったが
どうして
日常に戻ると、次から次へと、押し寄せるのだろう。
実家に正月以来、久々に帰ったとき
母の表情が変わっていたので
「お母さん、大丈夫か。」と尋ねたら
首を横に振った、あの表情。
あれを忘れないでおこう。
私への戒めとして、あの悲しい表情で(もう、だめだ)という首の振り方をした母を忘れないでおこう。
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(6/7)義母の米研ぎ

2017年06月07日 18時28分14秒 | 日常、仕事、認知症
ここ数日、家の米研ぎは私がやっている。
米研ぎが私の仕事ではないって?とお思いでしょうが
これは義母の仕事だった。
義母の唯一の仕事、
米研ぎと、自分の食べた食器類の洗い。
半分認知症気味の義母に与えられた仕事。
勿論、それまできちんとしていたが
ここ1カ月ほど、
夕食の時のゴハンがやたら柔らかい。
うちは、絶対2合、と決めているので
それを義母はずっとやってきたのだが、
どうも、計っているとき、カップ2回が、適当になっていた。
彼女に、「お義母さん、ちゃんと2合計った?線も2のところにした?」と聞いても
「適当にやった。」と答える。
そのやりとりが繰り返されているので、
とうとう私も「じゃ、次から私がやるから。」と私の方から降参した。
昔から習慣づいていることは本能的に身に着いて、ギリギリまでやらせようと思ってきたのだが
余ったゴハンのタッパーが増えていくばかり。
チャーハンにしたりしても、柔らかすぎて、なんだか塊になってしまう。
私がやる、と言っても
彼女の習慣で、米を研ごうとするから、夫に「朝食べ終わって釜を洗ったら、隠して。」と頼んでおいた。
今日は帰宅したら玄関の上がり框に置いてあった。
夫が、私がわかりやすいように置いたのであろう。
安心して、米を研ごうとした。
すると、キッチンの上に
もう使用していない猫のトイレが置いてあった。
中に、米が入っていた。
義母だ。
研ごうとしても、釜がないのでそれに入れたのだ。
しかも、2合には見えない。計ったら3合あった。
「なんで、猫のトイレに入れるのよ!」と言うと
「私じゃない!」といつもの答えが出てきたので(「あの女だ!」とか「ガキどもがやったんだ」とかそういういつもの返答ね)、
その話はそれで終えた。
米も、移動しなかった私が悪いのだ。
釜さえ隠せば、米研ぎはしないだろう、と思ったのが甘かった。
習慣はそのまま行動に出るけれど、その行動そのものが痛かった。
夫は私を責めるだろう、米も見えない所に置くべきだった、と。

食器洗いにしても、
洗うには洗うけれど、すすぎを流水にして、カゴに収めたかと思ったら
またそれを手にして洗い始める。
なんで、洗い終わったものをまた洗うの?と尋ねると
「あら、何回もすすがないの?」とまるで、自分は丁寧に何度も流水で洗っている、という意味を込めて言う。
いやいや、何回も水の流しっぱなしの無駄だよ、と言っても、それは納得していないようだ。
そのうち、義母の茶碗洗いも私の仕事になる。
そりゃ、後から食べる夫の分と一緒に洗えばいいだろう、と簡単なことだが
敢えてそれをさせている意味がある。
義母は、「私の用は何をしたらいいのでしょう」と聞くときがあるので
「じゃ、自分のトイレのほこりを被った飾り物を処分してください。」と言うと、絶対しない。
中身の空になった、消臭剤やら、人形やら、飾るのは大好きだが、それらを捨てることをしないために
トイレの足元には消臭剤が積まれている。
義母のトイレ掃除をしなければ、と思いつつ、腰の重い自分である。立腹しながらやるのが目に見えている。
飾るだけ飾って、後始末をしてくれないのはトイレばかりじゃない。
毎日、義母におやつを置いていくのだが(以前は袋の状態で置いて、それを好きな時に食べればいいと思っていたのだが
残したものをあちこちに隠して、とんでもない所から出てきたりするので、今日はこのくらいの量、と決めて配給制にした)、
残したおやつやパンが仏壇から幾つも幾つも出てくる。カビの生えた状態で。
お供えするのはよいが、なぜ、古いものを捨ててから、新しいものをお供えしない?と聞いても
ガキどもがいたずらしていったんだ、といつもの答え。
毎日毎日、言い訳だけは冴えている。

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(6/5)父が泣いた。

2017年06月05日 21時34分41秒 | 両親のこと、入院のこと
昨日は夫と義母と病院で待ち合わせをして、帰りは
私は地下鉄で帰ろうとしたが(会社に自転車を置いているので)
車に乗って、スーパーに寄ってそのまま自分も帰宅した。
よって、今日の朝は、歩きでの出勤。
ちょっと寒かったかな。

仕事を終えて
また地下鉄に乗り、母の元へ。
父と父の友人がいた。
母は
口を開けて呼吸し、髪は上部で結ばれ
目は混濁した状態で、まるで今にもあっちに逝きそうな顔で
深い眠りの中にいた。
その傍で
父と父の友人は諦めた表情で話していた。
昨日の母の様子を父にメールをしておいたのだが
今日はその、良い兆候は見られなかった。
そして、父の友人は帰っていった。

その後、私のあれこれが始まった。
「お母さーん!」「〇〇〇〇さーん!」とフルネームで何度も呼んで、
色々と話しかけた。
腕、手、額、あちこちをマッサージして
話しかけた。
ベッドも少し上部を持ち上げて目が覚ましやすいようにした。
父には、前日の私の友人のIさんの話をした。
「いっぱい話しかけて。奇跡は起こるから。」と。
現実主義の父には、半信半疑の言葉であったろう。

そして。
母は目覚めた。
深い眠りから、こちら側に来た。
混濁した目に輝きが出てきた。
「お父さん!ホラ、お母さんが目を覚ましたよ!」
「良かった!良かった!お父さんだよ!」と
父は手を握って感激の余り、泣き出した。
「お父さん、もう諦めていたでしょ!」と私。
「うん、もうだめだと思っていた。」
「諦めちゃだめなんだよ。」
そして、父は一生懸命に母に話しかけていた。
母の頭は段々開いてきて(この表現、わかるかなあ)、父や私の言う事を理解できるほどに目が輝いていた。
これは、奇跡じゃない、実は、眠りが深くて、表情があまりに死相っぽく見えるから
目が覚めたことが奇跡のように思えるのかもしれない、コツがあるのだと思った。
前の病院で、母の向かいのベッドのおばあちゃんもそんな感じだった。
どんなに呼びかけてもビクともしない。
私も見ていて、このまま死んでいくのか?と思ったくらいだ。
そこへ、看護師さんが、「〇〇さーん!」と野太い声で起こしていた。
このぐらい、大きい声にしなければ、頭の芯に届かないのだ。
これが参考になっていた。
そしてIさんの「いっぱい話しかけて」も参考になった。
看護師さんがあのくらい大きな声で呼びかけるのが通常なら、
私達だって、そのくらい声を出して呼び覚まそうと思った。
父や私の話に
母の口角が上がった。笑っているんだ。
それを見てまた父が
「母さんが笑った、笑った。」と泣き出した。
よっぽど、諦めていたんだ、父。
相変わらず、父の性急さが出ている。
だって、つい数日前まで、普通に会話をして、食べていたのに、
幾ら「いつ急変してもおかしくない」と医師に言われていても
人間の生命力は未知だ。
検査の数値が客観的に物語っていても、母が苦しい、苦しい、痛い、痛いと苦悶の表情にならない限り
私は可能性を信じている。

そして漸く、看護師長との話になった。
父に、「お母さんに話しかけておいて。私が聞いてくるから。言いたいこともあるから。」と言って談話室で話した。
とにかく、然るべき人から、これまでの説明をしてもらいたかった。
これはメモとして残していたものだ。
疑問だった。
食事はもうできないのか。死ぬまでできないのか。
その説明もこれまでなかった。
誤嚥の問題もあろう。
点滴のみに切り替えた日付、その理由、今後の検査によって、食事を再開することもある、と言われた。
私は自分の考えを言った。
「担当の看護師が誰なのかわからない。自分が病室にいても、母の様子を見に来る看護師に会ったことがない。
この病院は最長3カ月の入院で、それ以降は別な病院にまた転院ということも最初に聞いたが、
転院ということはそれだけ長く生きていられるということだから、3カ月本望。自分としては諦めていない。
3カ月退院を目指したい。こちらも頑張るので、そちらも最善を尽くしてほしい。諦めてはいない。」と
何度も念押しした。
しゃちさんの言うように、あるいは、現場に勤めている友人のIさんの言うように
患者が置き去りにされているような、見舞客も少なくなっている空気の療養病院。
退院とは、良くなってのそれじゃない。
しかし、逆に考えれば、看取りのための入院が、生き延びて転院するというのは喜ばしいことじゃないか。
そう、考えるようになった。

病室に戻って、父がこれから銀行に行く、というので先に帰った。
私は母と話した。
日常の話だ。私の一方的な話であるけれど、母は何度も相槌を打ち、笑い、
か細く「会社終わってきたの?」といつも尋ねることを聞いてくれた。
母が点滴を指さすので
「これはね、今ゴハンが食べられないから、これで栄養を摂っているの。これが血液の流れに乗って、全身に栄養が届くようになっているの。
またゴハンが食べられるように、お母さんもね、頑張ろうね。」と言うと頷いていた。
そして
はっきりと「ありがとう」と言った。
「明日もそれを言ってね~」と答えた。
これはきっと、いつものありがとう、だ。前の病院でもよく言っていたので、それだ。
決して最期の言葉じゃないよ。
明日も来るのを約束するということ、母の「生きる希望」に繋がればいい。
死に至る病、それは絶望。キルケゴール。(読んではいないけれど)

地下鉄までの道のり。
川沿いのベンチに座り、母の残した牛乳を飲む。一服。
トモロッシよ、頑張れ。
おまえは、今、母を救っている、父を救っている、同僚の新人を救っている、大した人間じゃないのに、
おまえは、今、大した人間だ。
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(6/4)母、今日は小さく言葉を話す。

2017年06月04日 20時26分22秒 | 両親のこと、入院のこと
あのショックの気持ちから翌日(昨日)、家から病院へ直行。
父と親類の人家族(父が頼りにしている人たち。父は自分の遺産を彼らに譲る約束をしている。私は相続放棄をさせられている)が来ていた。
母はどんな呼びかけにも反応がなく、ほんの少し目が開いたような気がしたが、ほとんど無反応。
親族が帰り、父は葬儀の話をする。
誰に連絡をするか、葬儀に幾らかけるかなど、これはこれで現実的に練っていかねばならない話だ。
それは父に任せることにした。

病院を出て、地下鉄に乗り、前日の夜に約束を交わした友人と会うことになっている。
この友人とは
度々、ブログに登場してくる、今の職場にいた元同僚、Iさんだ。
彼女は今、療養病院で働いている。
あのショックからどうやって、やがて近々やってくる現実に向き合っていけばいいのか、
日頃、そんな患者や家族を観ている彼女の客観的な言葉を聞きたく、前の日の夜に急遽メールをした。
休みがちょうど一緒だったので、別な日を待たずに会うことができた。

昨年の11月15日以来の再会。
私には、母のことや義母のこと、仕事のことなど伝えることが多くて
前日のショックが大きくてつい、何かにすがりたい気持ちが抑えられなくてメールをしたのだが、
会ってみれば
この会っていない期間に、彼女にも失うものがたくさんあったことを知った。
誰もが、平穏に暮らしているわけじゃない。
年月を重ねていけば、いろんなことが起こる。
彼女なりの傷心が手に取るようにわかる表情だった。
だから、ちょうど昨日会えて話したことも彼女にとって良かったことなのだ。

彼女の言葉の中に
「奇跡は起こるから。」とあり、心に残った。
「もう、あと少しで死ぬとわかっていながらも、家族の献身的な愛情で、奇跡的に復活した人がいた。」と具体例を挙げてくれた。
その言葉が力強かった。
療養病院に行けば、あとは死を待つばかり、なんて患者以外の人間(家族や病院側)はそのムードであるが
そんなことはない、退院するつもりで頑張ろう、と思う。
そんな精神的なことを言うと、いつものように「非現実的な私」を嘲笑する父たちかもしれないが
私は、逆境こそ真の境地なり、という気持ちは変わらない。
死は必ずやってくるけれども、ギリギリまで抵抗したい。
母を励まして、一緒に頑張りたい。
母は、ガンの痛みはあまり見られない。
まだそこまでいっていない。
断末魔の痛みがやってくるのかどうかはわからないが(義母の妹のガンの壮絶な苦しみを見てきたので末期はそうなのだろうと、漠然と思っていた)、
ただ、肺や足に水が溜まり浮腫が見え、身体も歪になり、身体を動かすときの痛みがある程度だ。
そして呼吸が苦しくなっている。
そして昨日の様子は昏睡状態だった(ように見えた)ので、もうこのまま目を覚まさないのか、と落胆していた。


今日は日曜日。
仕事の後に地下鉄に乗る。
夫と義母が車で病院に来るので現地で待ち合わせ。

病室に入って「お母さん!」と声をかけた。
眠っていた目がパッと開いた。
喜んだ。
昨日は呼びかけに対して無反応だったのに。
頭も動いた。
手も動いた。
お昼に行ったのに、食事の用意がされていない。
もう、食事をする段階じゃない、ということか。
朝食はどうだったのだろう。
何もわからない、説明もないので
看護師を探して(病室の隣はナースステーションだが誰もいない)、
ようやく聞くことができた。
医師が日曜で休みなので、食事についてはわからない、と言った。
今後、食事を出さないのか、それが方針なのか、いろいろ聞きたかった。
確かに、母の食は細い。出されたものの1口、2口でやめる。
しかし、物によっては全部食べたものがあった(前の病院で)。
だから可能性のあるものなら、無駄になってもやっていきたいのだ。
母の好きなヤクルトやヨーグルトをやっていいかと聞いたらOKが出たので、
それを口にさせた。
口を開けた。
食べた。
口の中を見せて、と言うと
口をアーンと開けた。
つまり、私の声が届いている。
昨日より、調子が良いのだ。
そんな可能性があるのだから、それに乗っかるしかない。
明日、もっと病院に聞こう。
個室になったら、全然ナースが来ない。
耳元で
「ウンチがしたい」と言った。
それが聞こえたし、
母が弱弱しい声で伝えてくれたのが嬉しかった。
看護師にそれを伝えると、担当の看護師に後で取り換えるように伝えておく、とのことだった。
担当の看護師って誰だ。
それさえもわからない。
なんだか不信感でいっぱいだ。

一応、看護師にメッセージを書いておいた。
それは、覚書として保存したいので残しておくようにとも書いた。
食事をさせてほしい、と。
オムツも取り換えてほしい、と。
明日、直接言うことにしている。
うるさい家族だ、と思われてもいい。
悔いのない状態でありたいのだ。

今日は父が来なかったので
メールをした。
色々と反応があった、と。
明日父も来る。
父からも言ってもらおう。

病室を出るとき
「明日も来るからね。バイバイ。」と手を振ると
いつものように
母も手を振ろうと、手を動かす。
こんなに、意思表示ができるなんて、昨日の姿から想像できない。
でも、
私、病院に行く前にチラッと思ったんだ。
必ずしも、昏睡状態では終わらない、一進一退という言葉があるのだから
良い時もある、今日はそうかもしれない、と。
やっぱりそうだった。


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(6/2)母、転院。そして急激な変化。

2017年06月02日 17時42分04秒 | 両親のこと、入院のこと
一昨日、5月31日に母は転院した。
前の病院には最大3週間までと入院当初から言われており、
その間、最期の看取りの病院を探しておく、とも。
そして当日
母には事前に転院のことを知らせてはいたが、
どれほど理解できたかわからず、表情は戸惑っていた。

車いすつきの介護タクシーに乗り、
更に南の病院に移動した。
前の病院が新しかったせいか今回の病院は
古く、騒々しいイメージだった。
一日それにかかり(多くの関係者との話など)
どっと疲れ、更に、前の病院から借りたものをそのまま持ってきてしまったので
それを返しに、地下鉄を途中で降りる。
これからまた地下鉄を利用することになるのだが
今度の病院は降りてから少々歩く。
帰り、父は車で前の病院まで送ると言ったが
現病院と地下鉄駅の距離感をつかみたいために
私は地下鉄駅を探しつつ歩いていくと言った。
洗濯物なども持っていたため、重くて疲れてしまった。
もう転院することはないだろう、しばらくここを通うのだろうと思い、
昨日は仕事後に病院に行かず、久しぶりに会社の近くのスーパーに寄って
食料を買い込んだ。
前の病院の時は、専らその町の小さなスーパーで買って帰宅していた。
その町は地震で道路や建物も随分と被害に遭ったが
古いものが残っていたり、小さな商店街が活気づいていて
結構、好きな場所になっていた。

会社に提出するレポートも書かねばならなかった。
夜は雨が降っていた。
病院通いと仕事と、義母の粗相の件とか
私の頭も身体も煮詰まっていた。
職場では耳鳴りがひどかった。
それでも
夜、雨の中、懐中電灯を照らしながら
南の庭の草取りをした。
カエルたちの足の踏み場所もないくらいに
どこから種が飛んできたのか、昨年まで生えたことのないわけのわからない雑草が
生い茂っていた。
カエルにごめんね、ごめんね、と謝りながら、
長く伸びた雑草を引っこ抜いた。
そう、母の病院通いを1日休んだ。

そして
今日、仕事が休みであるが、会社に寄り、レポート提出、自転車を置き
地下鉄に乗った。
最終地点で降りて
一昨日の道のりをおさらいしつつ病院を目指した。
これから暑くなる季節、仕事後通うんだなあ、と川沿いを歩いた。
そんなものもこれから自分の頭に焼き付けられるんだろうなあと。

父から昨日メールをもらっていた。
病室が替わった、と。
なぜかわからない。
4人部屋から個室に替わっていた。

そして。
病室に入ったとたん。
一昨日とは別人の母がそこにいた。
これが激しくショックだった。
たった1日来なかったことを後悔した。
看護助手が母に食事をさせていた。
その食べ物を口に運んでいる母の横顔が
急激に痩せこけていて
私が入っていっても、無反応になっていた。
「お母さん、私だよ、トモロッシだよ。」と言っても
全く無表情だった。
給餌を私に替わって、食べさせたが(もちろん、食が細くなっているのは前の病院にいたときと変わらない)
いつも、私の指示(口を開けて、とか飲み込んでとか、伝達がスムーズだったし、反応もよかった)に
従ってくれたのだが、全てにおいて無反応だった。
たった1日で、何が彼女を変化させたのか。
環境が変わったことに戸惑ったではあろうが、馴れていくものと思っていた。
可哀想なことをした、と思った。
いつも、入れ歯をした状態で食べ、そのあと入れ歯をはずし、口を漱ぎ、自分で爪楊枝で口の中のカスもとっていたのに。
入れ歯は外されていた。
「お母さん、いつものように入れ歯をしようか?」といつもと変わりないように声をかけたが無反応。
目が澱み、焦点も合っていないように見えた。
あれほど、会話もできていたのに、義母ともついこの間の日曜日に話し込んでいたのに、
義母には「うちの母の方が、ちゃんとトイレ行きたいって言うよ」なんて言ったばかりなのに。
「たった1日で、たった1日で・・・」という言葉が渦巻いた。
無味な病院食を拒絶して、持っていったヤクルトやヨーグルトを
「これなら味が着いていて飲める、食べられる。」って一昨日まで言っていたのに。
「また明日ね。」と手を振ってテレビを観始めていたのに。

環境を変える、ということが悪化させたのだろうか。
もしも、あのまま前の病院にいたのなら、
いつものように、会話も成り立ち、目も合わせていられたのか。

「お母さんは、2回も大きな手術を乗り越える心臓を持っているんだし、もっと頑張ってよ」なんて
言ったけれど、いつもなら「そうかあ?」と反応するのに
今日は目も私を見ていない、今にも消えそうな生命に見えた。
そしてそのまま眠りについた。
病院を後にして、会社に戻る。
そのまま自転車で帰ろうと思ったが、同僚がまだ仕事をしていたので
母の様子を伝え(誰かに話したかった)、今日の仕事のことを聞き
帰宅する。

家には
義母が薄暗い部屋にポツンといる。
彼女のことも気にかかる。
彼女の食欲だけが救いだ。

明日も仕事は休みだ。
何カ月ぶりかに、2日続けての休みだ。
当初の予定として
休日2日のうち今日病院に行き、明日は家の事(草取りなど)をしようと思っていたが
1日行かないだけでこんな状態では、明日も勿論病院に行く。
明日、母、落ち着いているだろうか。
いいよ、目の焦点が合わなくても、あの心臓で元気でいてほしい。
いっぱい話しかけるよ。
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