僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(8/20)忙しくて、心が落ち着かない。

2013年08月20日 21時00分41秒 | 両親のこと、入院のこと
あと30分ほどで寝なくてはならない。
疲れている証拠に耳鳴りがひどい。

連日猛暑。
仙台は
七夕辺りから暑くなった。
それまでは避暑地として訪れてもいいくらいに
低気温。
お祭りに合わせて、夏が遅れてやってきた。
そして今日
ようやく、朝から雨になり
いっときは強い雨になって湿気が多いとはいえ、少しクールダウン。
そんな中
母の病院に行く。
曇った空、雨の中
大通りのケヤキの木が鬱蒼として、水分補給しているようだった。


その大通りに面した画材屋の幟を発見。

「仙台城下町百景」の絵葉書が販売されている。
私は
絵葉書が好きで
風景の写真よりも、絵で描かれたものを好んでいる。
中に入って、たくさんある中から、10枚を選んだ。
他のはまた買いにこよう。
「また来ます。」と言って店を出た。
その一部。




いろんな通りを自転車でふらふらとまた歩いてみたい。
これまで封印してきた。
仕事をやめたら、少し自分のために時間を使いたい。
仙台には
素敵な通りが幾つもある。

時期をはずしてしまったが
次に
七夕の写真を。



この感じは、七夕飾りの典型。

そして。


これは特別です。

宮城の中学校の生徒たちが作った大きな大きな飾り。
圧巻でした。
この七夕飾りの周りにはたくさんの人々がシャッターを切っていた。
私の写真の腕では表現ができないけれど
裾が広がって、色が単色であるにも拘らず(多少、濃い、薄いあり)、
他の飾りを圧倒させる
これまでにない飾りだった。
皆にぜひ見せたかった。
その日のうちに見せられなくて。
その日には、母に写真を見せたのだが
七夕に関心がなかったようだ。もう、そんな感動もないんだろうなあ。


さて、思うところいっぱいあり。
あと10日余り。
仕事と病院通いなどで毎日心落ち着けず。
夫にまだ言っていない。
いつ言うの?


(8/5)仕事を辞める

2013年08月05日 10時13分49秒 | Weblog
一ヶ月以上も書いていなかった。

仙台は
7月、寒い日、雨の日がずっと続いていた。
暑さが苦手な私には
仕事がしやすかった気温だった。

昨日は
大きな地震が来て、久しぶりに驚いた。
すっかりあの揺れを忘れていたので
大きく揺れ始めたときはオロオロするだけで何もできなかった、相変わらず。
ちょうど家にいたので
ネコたちは一目散にどこかに逃げ隠れてしまった。
大物は、ノリだけである。
携帯も揺れが収まったあとに、ビービー鳴り、
ネコたちの反応は、あの音=大きな地震、とすっかり定着している。


ブログを書かない間の出来事、大きなこと2つ。
1つは
母の再手術。
肝臓への転移。8月2日。
母のそれのため、私は8月1日から今日まで5日間休みを取った。
毎日病院通いである。
先生の説明では
今回の手術は前回よりも簡単で、内視鏡を使っての手術なので
大きくメスを入れない、とのことだった。
9時半に手術室に入ったので、午後4時には終わるであろうとのこと。
手術の中継を見ることになった。

ところがずっと中継を見ていても
4時になっても終わる気配がない。
5時過ぎに先生に呼ばれた。
癒着がひどすぎて、転移箇所になかなかたどり着けない、と言われた。
確かに、慎重に慎重にレーザーで切っている様子だったが
どれがガンなのかわからなかった。
やはり開腹して、大きく開いて切除することにする、と言われた。
母の麻酔、身体が心配だった。
そしてそれがこれから3時間かかる、と言う。
8時過ぎに終わり、ICUに移動して、先生の説明を聞いて
麻酔から覚めない母を残して
ともかく10時ごろそこを出て
ゴハンも食べていなかったのでスーパーで弁当を買って
家に着いたのが11時近かった。

翌日病院に行くと
母は目覚めていた。
長い手術に耐えた強い心臓だったね、と言った。
あとは回復力だね、と。
しかし
昨日は一転、発熱して、顔に赤い斑点ができ、脈拍も速くなっていた。
今日はどうだろうか。



次にもう1つ。
これがあるためにブログを書けなかったのが大きい。
前回のブログに
母の手術のことや介護のことを考えて
自分の体力を鑑みながら
このままハードな仕事を続けられるだろうか、と不安になったことを
書いた。
時間に追われる生活。
まだまだ人々がぐっすり寝ている時刻に起きて
早朝出勤して
そのまままた時間に追われての仕事、濃い仕事。
昼食も儘ならず(大分改善されてはいるけれど)、
昼休みも儘ならず(これも大分改善されているけれど)
濃いままに仕事を終えて
ぐったりして帰宅するだけでも精一杯の自分。
仕事上のやりとりのストレス、自分の耳がよく聞こえないことのストレス、
そこに
母の件がこの暑い夏に入ってくることの恐怖を感じた。
母の頭が正常ならば、少しは軽減されるが
先生の説明がさっぱりわからない彼女、単純な質問に答えられない彼女
(例えば、腹の古傷、卵巣の手術はいつごろしたのか、というのにも答えられない、
看護師さんの指示「Mさん、右手を出して」にもうろたえる母。)には
私がついていないと周りの作業を止めさせることが多々あり。
これからますますこういうことが多くなっていくだろうと。

もちろん
そんなこと誰でもやっていること、と言われればおしまい。
だが私は不器用。頭が不器用。
家庭のこともおろそか。

ほぼ決めた。
7月の末日で、仕事をやめることを。
8月は母に専念して、その間に家のことをやって、自分を取り戻したい、と。
雑草のボウボウとした庭を見て
「うちはお化け屋敷か。」と自虐してみる。
高齢の義母はもう庭仕事には手をつけていない。
それに義母の妹の危篤もあり義母は義母で80歳過ぎて毎日妹のところに
行っていた。(結局、7月末に死亡)
夫は
早朝5時半に出て、県外に行くこともあり。
身体をボロボロにして帰宅する。
私は私で、仕事を優先しなければならない日々。
皆、それぞれに負担がかかって、ギスギスした空気になっていた。
すれ違いの家になっていた。
会話のない生活になっていたから
義母に
私の母が再手術の件もあとから伝えた。
私に
義母の妹が亡くなったこともあとから伝えられた。
よって、通夜、告別式にも参列できなかった。昨日、漸く線香をあげに行った。


前回のブログの後
私は、チーフのIさんに
「今月いっぱいで辞める」と伝えた。

すぐ上の上司に翌週、母の件があるので今月いっぱいで辞めたい、と伝えると。
7月9日、それを上司に伝えるが
「ダメです、辞めないように。手術のときは休みをやりくりして、続けてください。」
と言われた。
IさんもEさんも私を説得する。
私はそれを聞いて、動揺する自分がいやだった。
説得力のあるIさんは力強かった。
特に仕事が忙しくなる8月。私の後任がすぐ決まればいいのだが
早朝の仕事開始のため、なかなか決まるのが難しいだろうと予測はされた。
辞めるな、せめて8月いっぱいは続けてくれ、
の攻防で、8月いっぱいは続けることにした。

7月31日付けの退職届けを破棄してもらい
8月31日付けのそれを再提出した。
それは受理された。

上司の更に上の上司は
こういうことには飛んでくるのだが
なぜか飛んでこなかった。
いつも廊下で会えば
「ごくろうさま」とニコニコして声をかけてくれるのだが
3回ほど会ったが
意識的に無視された。

すぐ上の上司は、更に上の上司にどのように伝えたのかわからないが
残念な空気になった。
しかし、それもいいや、退職金も出ない会社だ、その他不満はあったけれど
淡々とした気持ちで辞めていくことができる。

さて
そのことを夫に伝えていない。
そのまま1ヶ月ほど経つ。
もちろん会話はしているが
いつも
私は小言を言われ
それがよく聞こえない私は
「私に伝えているのか、独り言なのか。」と言う。
とてもこの空気の中
言える状態ではなかった。
夫は
たまにこのブログを見ている。
おそらくブログで先に知るかもしれない。

仕事について
毎日のようにこんな展開があった(大分はしょったが)。
それをおくびにも出さず
家で過ごす自分。
というか、会話らしきものがない。
それぞれ
時間に追われて、自分のことをしているうちに
就寝時刻である。
そんな生活を続けてきている。

とりあえず
ここに報告。
まだまだ書きたいことはたくさんあるのだが。