僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(3/25)初めて映像を見たときのこと

2011年03月25日 01時05分34秒 | 東日本大震災
私の住んでいるところは
駅から歩いて15分くらいのところだ。
非常に便利なところである。
都会の中にいるにも拘らず
路地の奥のせいか
静かな環境である。
昔からの家があり、この路地を砂利道からアスファルトの舗装に
したのも平成に入ってからである。
古い家、庭があるから、カエルたちも生命を繋いできた。
生き延びてきた。
地震の次の日に
実家の母親を連れてきたのは正解だと思っている。
インフラの復旧は
断然都会の方が早い。
岩盤が違うせいか、実家の揺れとこちらの揺れとでは
部屋の中の物の倒れ方、落ち方でも全然違ってくる。
宮城県沖地震のとき
私は自分の部屋にいた。
今、その部屋は父の部屋になっている。
12畳くらいの一番日当たりのいい部屋である。
そこで経験したあの激しい揺れは、本当に死ぬかもしれないと
思わせた。
両親はそのとき、街の中にある、経営していた店にいた。
だから、同じ地震を経験したといっても
場所が違うだけでかなり揺れの違いがあるんだ。
おそらく、父たちは
大きな地震を体験したと思っていたにしても
店での体験と、家での体験の違いはわかっていなかったろう。
近所の方が来て
暗くなるまで、家の中に散乱したガラスをいっしょに片付けてくれた。
大きなゴミバケツいっぱいになった。
食器棚は倒れ、両親の部屋のタンスは倒れ
私の部屋のスピーカーは倒れ、プレーヤーのターンテーブルが吹っ飛ぶのを
目撃しながら階段を必死に下りていった。
夜中に帰宅し
そのありさまを両親は見て、母は泣き、父は呆然としていた。
そして連日の停電。
都会では翌日あたりに、停電は解消されたかと思う。

そういう経験もあったので
今回の地震では
実家の中はひどい状況だろう、と予想していた。
予想通りだった。
父の部屋の、足を踏み入れることのできない倒れた書類の山々、
パソコンが床に落ちていた。
その様子を見ただけでも、今回の地震の強さを父は
旅行から帰ってきてつくづくわかったかと思う。


地震の震源地傍でありながら
停電のために、何も情報を得られなかった。
自分たちの予想で、近いうちにやってくる平成の宮城県沖地震が
これなのかもしれない、と思った。
そして
近所の人のラジオで、
具体的な地名が出て、「荒浜に、2、300人ほどの遺体が道路にある。」
という情報の意味がよくわかっていなかった。
津波の恐ろしさは、誰もがきっとわかっていなかったろう。
そのラジオの情報から、どんな光景を想像したらいいのか、
一体何が起こったのか、道路をまっすぐに逃げ惑う人たちが
津波に巻き込まれたということか、
実感としてわからなかった。

そして。
停電が解消されて
テレビをつけたとき
初めてその映像を見た。
ショックで、地震が起こったあとに初めて泣いた。
これらを
地元の自分たちより先に
他の県の人たち、世界の人たちが観ていたんだ。
自分たちは
てっきり、揺れがどんなに激しくても、建物の崩壊がなかったことに
少し安堵していたのだが
数キロ先で、こんなことになっていたとは夢にも思わなかった。
荒浜、名取、亘理、多賀城、などなど
どの地も、田園と新興住宅地と共存している身近な町だった。
名取はよく、ネコの缶詰を買いに、灯油を買いに、
おいしいものを食べに行く所だった。
私がブログで
「今日は南に、ネコの食糧を買いに行った。」と書いている場所である。
その町が津波に飲み込まれていたなんて。
荒浜の情報が入ったときの
自分の想像したものがどんなにヤワなものだったか、
こんな恐ろしい光景に、一体一体、神様は
私たち、何か悪いことしたか!と問いたかった。
自然に怒ったってしょうがないのだが
あまりに残酷だ。
建物がつぶれようと、いつかは再建できる、再生できると
思ったけれど、人の命だけは奪ってもらいたくなかった。
それ以来
その映像が流れると、テレビから目を背ける。
あとは地元のさまざまな情報を見るのみにしている。
義母も、日中家にいても、テレビは観たくないと言う。
あの
恐ろしい波の足のようなものが、地上にある全てを飲み込んでいく姿が
焼きついてしまった。




地震後
東北は雪が何度も降った。
翌朝には道路が3月でありながら凍った。
それらが全て悲しかった。
被災地に追い討ちをかける自然。
なぜにそんなに、私たちを苦しめる。
3月は芽吹くときじゃなかったか。
一日一日過ぎていけば
暖かさに近づくのではなかったか。

そして
福島の原発の事故。
心が痛い。
どんな思いで福島の人たちは過ごしているのか
自分がその立場にあったら・・・とか
考えると、全身が重くなっていく。
血が脚の方に全部下りていくようだ。

頑張らねば、と思いつつも
まだまだわからない。

そういう中で
アメリカ軍が、仙台空港の復旧に頑張ってくれている。
仙台空港で、がれき除去するアメリカ軍

いったん更新。
コメント (2)
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