僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

(3/20)実家のこと、母のこと。

2011年03月20日 09時45分57秒 | 東日本大震災


今朝起きて
鏡を見ると、目の下のクマがくっきりしていた。
昨夜もソファで寝る。
奥の部屋にいるネコたちのために
ストーブをつけるが、余震のたびに消しているので
なかなか温まらない。
風邪を引き始めたネコが数匹いる。
そしてそれはうつるので、蔓延するかもしれない。

私の体調は昨日よりいい。
おそらく昨日は
余震のたびにドキリとするのでその不安感と
酔ったような感覚に身体が疲れていたのだと思う。

私のそれらと、避難所にいる人たちの不安感とかストレスとか諸々のことに
比したら
申し訳ないものだ。

父に何度も連絡して
ようやく1度だけ携帯につながった。
地震当日の夜中である。

父は
福島にいる、という。
彼らの事情がわからない。
母は一人で家にいるということで
翌朝
私たちは実家に出かけた。

実家周辺の家はほとんど無傷である。
中には、ガラス窓が壊れたりしたのもあったが
宮城県沖地震のときのほうが
こちらの町は被害がひどかった。
田圃を造成して新興住宅地として出発した町だった。
当時はポツポツと家が建っていたばかりだ。

実家には母がいなかった。
近所の家に行ってみると
そこに母がいた。
そこは
宮城県沖地震のときにも私がお世話になった家だ。
私が嫁いでから
その家のかたたちとはほとんど会っていなかったが
おばさんも母と同じ病気になっていた。

母は私たちに驚き
すぐに自宅に帰る。

やはり
私の今の家の中よりもひどい状況だった。
二階に上がろうとしても
階段の照明が落ちていてガラスの破片の散らばる階段になっていた。
夫がその大きな破片だけを片付けてくれ、二階に上がってみた。
父の部屋の
足の踏み場もない散乱の仕方、パソコンはどこかに吹っ飛んでいた。
書類が部屋中ひっくりかえっている。
母の部屋も
テレビは倒れ、ベッドが移動し
鍵のかかっていない窓は全開になっていた。

台所の食器棚は倒れ、中身散乱、粉々。
浄水器吹っ飛び。
などなど
どこもかしこも手をつけるには
今急にできることではないと思った。
とりあえず
少し片付けて
今日は街の中にある私たちの家に行こう、と言った。
都会だから
こっちよりも、電気などの復旧も速いはず、と言い。
宮城県沖地震の教訓である。
とにかく、都会とこの実家の町とでは
何もかもが復旧の遅速が違った。

母を連れて車に乗り
数百メートル先、海方面へ向かってみた。
やはり通行止めになっていた。
この先が
津波の被害があった町々である。

母を私たちの家に連れてくる。

母に
なぜ父は福島にいるのか、聞いてみても
よくわかっていなかった。
「お父さんは、友達とゴルフ旅行に出かけた。」とだけ言った。
友人とはどこの誰か
行き先はどこか
なぜ福島にいるのか
何もわからなかった。

後にわかったのだが
父は北海道の友人たちとまた
旅行にでかけ
静岡、神奈川辺りの友人と合流してゴルフを楽しんでいたのだ。
脳梗塞の母にはきっと
冷蔵庫の作り置きの食料を食べるように言っていたのだろう。
母は地震パニックの人で
それは昔からだった。
本当に地震が怖い人だというのは北海道にいたときからわかっている。
十勝沖地震のときは
母は私を家の中に置いたまま、外に逃げた人である。

母は私の家に来て
ようやく落ち着いた。
義母が相手をしてくれて
日の当たるサンルームで二人で話していた。
笑顔があった。
ホッとした。




うちには
七輪がある。炭もある。
こういうとき、便利だ。
あの雪の前日と違って温かくなったので
私はこれで煮炊きをする。
余っている野菜を煮込んで
卓上コンロでご飯を炊く。
とにかく家にあるもので今は過ごさなければならない。
残っていた乾麺、野菜などそれらが役に立った。
母が喜んで食べる。

母が正常だったとき
ずっとお店をやっていて、料理自慢だったのだが
今は包丁すら持てない。
持つことができても
なにがじゃがいもで、どう切り、どう料理するかわからない。
だから今は父が料理を全部やっている。

私は母に
味の事で文句を言われるかもしれないので
「非常時なんだから、味には文句を言わないことね。」と言ったら
母は
「これは私の口に合う。お父さんのは、いつもしょっぱいの。」と言いながら
煮物の汁を私の分まで飲み干す。
母がようやく落ち着いたことに本当にホッとした。

ネコが多いことにいつも
「ネコを捨てよ。」と言っていた母は
一階にいるダイジローに大変興味を持ち
隙さえあれば、声をかけてちょっかい出していた。
もともと北海道にいたとき
ネコを飼っていた私たちだ。
(そのネコを、仙台に引っ越してきたときに、母が大学病院の実験動物として
献体したことは以前書いた。もちろん私は取り戻しに行ったけれど。それらのことも
きっと母は忘れているだろう。それを口にすることは絶対にしたくない。)

母は
こちらに来て
義母との話に笑顔を見せ
私の料理に舌鼓を打ち
ダイジローに癒されていた。

いったん更新。


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2 コメント

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震災お見舞申し上げます (しゃちくん)
2011-03-20 19:15:21
トモロッシさんの無事がわかりホッとしましたが、どんな状況下で生活しているのかがまったくわかりませんでした。

こうして近況をブログで知る事が出来安堵。

こんな時は首都圏から応援に行くべきだと思いますが、こちらも混乱が続いてまして…

地震があってから毎日ブログで訴えておりますので、一日でも早く日本中から支援の手が差しのべられるよう願っております。
返信する
Unknown (しゃちさんへ)
2011-03-20 22:24:04
しゃちさん、コメントありがとう。
そちらのブログで
東京の様子がわかります。
日本中(特に本州東)、いろいろと大変だと
いうことがわかります。

まだまだ、問題が山積。
復興に向けて、のブログには程遠い。
今日だって、お年寄りと孫が助け出されたとのこと。
生きているのです、きっとどこかで。
その人たちを助けなくちゃ、と思います。
あきらめちゃいけない。
もう死んでいるだろう、と思って行動しては
いけない。
まだ生きているかもしれない、と
自衛隊、消防隊などの皆さんが毎日
寒い中、捜索してくださっています。
お互い、頑張ろうね。
返信する

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