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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2/18)オトメちゃんやzooさんはどうしているのだろうか。

2012年02月18日 20時43分25秒 | オトメちゃん
オトメちゃんはどうしているのだろう。

TVで
動物と人間の感動物語というのをやっているが
(途中で消した)
母親を亡くした小猿の姿は
悲しい。

高崎山の野生のサルの話だ。
動物園と違って
人間に半分管理されていても
野生を無くさないために
過酷な運命にも、人の手を貸さないという。
それなら
TVで映すことはしないでほしい。
結果的に助かり、現在のたくましい姿を映していたが
たまたま奇跡であって
本来はもっとたくさんの残酷な生き死にがあるのだろう。
あの姿は、観ているほうは
つらくてはがゆい。
エサもさることながら、
一番欲しいのは母親の愛情、ぬくもり。
オトメちゃんを通して
そのことは十分わかっている。
だから
オトメちゃんの住む市川動植物園では
何とかしようと、
リラックマのぬいぐるみをあてがった。
そして、いつも飼育員さんの温かい目があった。
 
タクマというその猿の
現在の姿が映された。
群れの中に入って
エサを食べている。
よかった。
がんばれ、タクマ。


そして
オトメちゃん。
zooさんのブログの更新が止まって7ヶ月。
彼が
今どうしているのかわからない。
オトメちゃんがどうしているのか、というより
zooさんがどうしているのかが
知りたい。
ブログを更新しなくても
元気に
たまに動植物園に通っているだろうか。
きっと
きっと
いつか再開してくれることを待ち望んでいる。

もう
私のブログを読むこともなくなったのかな。
zooさん・・・




(2/17)怖い夢を見る

2012年02月17日 21時52分30秒 | Weblog
昨夜は
いやな夢を見る。
恐怖で目が覚める。

同僚が殺人鬼になってしまった。
何かの行き違い、誤解で
どんなに彼女が弁明しても
彼女が悪い、となり
彼女の中で狂気が生まれた。
自暴自棄となった彼女は
あの津山事件のように
武装して
殺す相手を物色し始めた。
説得するとか擁護するとか
私はもう、そんな問題じゃない、
これは逃げるしかない、と
雑踏に紛れる。
ここにいれば見つからないか、
いやいずれここも襲撃される、
逃げる、空中を泳ぐように逃げる。
そのうち
誰かの首を刎ねた、と聞き
彼女自身が自殺したのか、寧ろそれで解決だ、と
一瞬安堵しそうになったが
いや、誰かのそれだ、と聞いて
更に逃げる。
怖くて、そこで目が覚めた。
夜中1時だった。
まだ起きるには数時間ある。
これから寝るにも
夢の続きを見そうで
灯りをつけて
ネコ漫画を見始める。
夜中に何やっているんだ。

その彼女と今日は二人で仕事をした。
まさか
そんな夢を見た、なんて
言えるはずがない。
チーフがいなかったので
平穏に仕事をし終えた。

いや、
普段の我慢に我慢を重ねていたのが
普通の人々が
プツンと何かが切れて
狂気に駆り立てる、というのは
ありそうなこと。

昔は
そんな読み物ばかり読んでいた。




今日は
寒さの逆戻り。
4時半、外に出たら
雪になっていた。
更に降って
7時前の外は
柔らかい雪が積もっていた。

午後は晴れていたが
明日も雪になるとのこと。
では
これから寝ます。
良い夢を見るように。

(2/14)名曲 Fleetwood Mac -  Sara

2012年02月15日 20時06分26秒 | 名曲
Fleetwood Mac - Sara


私たち夫婦が
まだ恋愛していないときに
音楽仲間として
夫の友人たちといっしょに
Fleetwood Macのコンサートに行った。
それが2月14日。
仙台に来たんだね、Fleetwood Mac。
よく彼らの音楽がどんなものかわからなかった自分だが
夫によって
彼らの曲も聴くようになった。
その中で
この美しい曲。
この曲を聴くと
あの日のことを思い出す。
今じゃ
節電、節電とうるさいオヤジになった夫。
この曲を聴いて
夫よ
若い時を思い出してください。


今日は体調すこぶる良し。
気分も良し。
しっかり寝たからかなあ。
こんなに気分が穏やかな日はいつ以来だろう。
また明日から
いつもの気分に戻るのかしら。
たまに
こんな日をください、神様。

(2/14)今朝見た雲の形、ウソみたい。

2012年02月14日 10時40分51秒 | 東日本大震災








今朝7時過ぎに
洗濯物を干そうとベランダに出ると
芸術的な雲に出会ったので
カメラを久しぶりに出して撮った。

南の空一面に
この模様が広がっていた。
もしも
人間がこの雲の通り
絵に描いたとしても

こんな幾何学的な雲があるはずない、と一蹴されそうだけれど
写真は
真実ね。

雲が
自ら
ちょっと悪戯をしたみたい。
冬の朝
人間が誰も見ていないかもしれないから
ちょっと
イタズラしてみようって。

30分後には
綺麗にこの姿はなく
通常の雲の姿になりました。


(2/11)思い出を紐解く  函館編 ① A先生のこと。

2012年02月11日 16時07分31秒 | 思い出を紐解く
今日は休みだ。
昨日も疲れた仕事だった。
相変わらず、チーフのヒステリー的な声に
翻弄されて
心の中で
「我慢できなくなったらやめるのだから、今我慢できているということは
まだまだ序の口なんだ。」と言い聞かせ
笑顔の無い私が黙々と働いていた。

こういう経験は貴重だ。
今までになかった経験をしているので
別の私はむしろ、ほくそ笑んでいる。
何かを書くにしても、おいしい材料だ、と思えば何ということもない。
もっともっと過酷な体験があってもいいか、と思うときさえある。
でも現実には、どっと疲れるんだけどね。


さて
ずっと中断していた
「思い出を紐解く」というカテゴリーで
過去のことを書いていこうと思う。
こういう時間を望んでいた。
ずっとずっと、こういう時間が取られていなかったからね。
掃除も洗濯もあるけれど
少し、文を書きたいと今思っているので
それに乗ろうと思う。



思い出を紐解く  函館編


前回は
札幌の、学校と併設された病院時代のことを書いた。
あの1年間は
小さな私にとって、これから生きる人生にたくさんのヒントをくれた時代だったと
成長してから思う貴重な体験だった。
長期の病気でありながら
半分は普通の小学生と同じような生活をさせてくれた。
普通の小学一年と異なっている部分はたくさんある。
自分より年上の人たちとの共同生活は
精神的に豊かな経験をさせてくれた。
それも、後から思うこと。

その私が
父の転勤の都合で
8歳の4月中旬
函館に住むことになった。
いよいよ
普通の小学2年生だ。

函館の温泉街の小学校に転校である。
ちなみに
住んだ家(このことは以前にも書いてある。ただし、「思い出を紐解く」の
カテゴリーに入っていないので、どこに書いたかわからない。)
は、大家と繋がった長屋の家だった。
長屋。
今なら死語か。
そこは父の会社が借りていた一軒で、私たちがそこを去ってからも
父の会社の人が入っていた。


(「思い出を紐解く」は自分の7歳からのを書いているが、それ以前の思い出、
私が今の両親と養子縁組をする前のことは別枠でいつか書こうと思っている。
これは小さいながらも、実母との暮らしが悲惨なものだったので、別枠。いつになるか
わからないが、いつかは絶対に書きとめておきたいと思っている。)

いよいよ普通の学校に通う自分。
これまで、少人数のクラス、上級生との併学級だったのが
単独で2年生として生活するのだ。
転校はその後何回もしているが、段々大きくなるにつれて
転校のストレスも大きくなっていく、というのも後から知ること。

大人の言われるがままに
学校に、学級に入っていく自分。
担任は、頭の毛のない眼鏡をかけた男の先生だった。
そして振り返ると
この先生は、本当に生徒のことを考えていた先生だったとしみじみ思う。
今でも健在であろうか。
当時、年齢のことは知らなかったので、もしかしたらもう亡くなっているのかもしれない。
A先生としておこう。
A先生に促されて、席についたのは
一番前。先生の目の前。
当時の学校は古い木造校舎、机も二つ繋がっている木製の頑丈な机。
今のような軽い机ではなかった。
その座席は、他の人より一回り大きな男の子が座っていた。
彼は、今で言う・・・・何と言うのだろう・・・忘れた。
おそらく、他者によく迷惑をかけるということで
先生の目の届く一番前に座らせ、その隣は空席にしていたのだと思う。
もちろん
そんなことは全く知らない私だ。

病院にも定期的に通わなければならなかった私は
体育の見学(これがつらい)、
ハーモニカ(肺に負担をかけるからか。私は理由を知らずに、大人からそう言われていた)の禁止、
遠足等の長時間歩くことの禁止
と、母から担任に伝わったのであろう、
普通の学校でのそれらは
他者と違うことの恥ずかしさは、8歳なりにあった。
好奇の目というのもあった。
札幌の学校時代は
皆同じ病気であることが大前提なので
体育の授業内容も同じで、苦痛というのは無縁だった。
近場のところに散歩、軽い運動、これが体育だった。

勉強の遅れ、というのも気になるところだが
まだまだ小学2年生、そんなことは気にしていなかった。
すぐに
誰が頭が良いか、というのはわかったが。

A先生は、生徒によく作文や詩を書かせた。
それらを溜めて
3年生になる直前に
手作りの文集を作って、皆に配るというわけだ。
その文集は今でも私は持っている。
何十年も前のもの。
A先生は
作文には、その出来事の絵も描くようにと言い、
皆はそれに従った。
だから、隣の席のY君の、拙い文章と一生懸命描いた絵がちゃんと載っている。
Y君の隣にいたが、特に危害を加えられるという記憶はない。
A先生曰く
「トモロッシさんが隣に座ったことによって、Y君は大変おとなしくなりましたよ。」と
私の母に伝えた。
そのY君、その後しばらく、登校の際
「○○さん(私の名字)、学校に行きましょう。」とよく長屋に来ていた。
長屋の前は広い公道だったのだが、まだ車の通りは少なく
その道の真ん中で立小便をしていたことがあった。
道の真ん中ですよ。
このことは過去に函館の思い出か何かで書いたことがある。
お金持ちのお坊ちゃんだった。


A先生は
生徒の誕生日に、給食の時間に折り鶴のレイを掛けてお祝いをし、必ず詩を書かせた。
私はご存知のとおり、4月9日なので
既に誕生日を過ぎての転入生。
しかし
A先生は、誕生日を過ぎた私でも
給食の時間に、折鶴のレイをかけて、皆に祝ってもらうことを
忘れずにしてくれた。
その詩は
あの文集の表表紙の次のページに載っている。
頭の良いD君の下に載っている。
あとから書いた詩なので
自分の折鶴の色が何色だったか忘れ、
「金、銀、赤」と語呂合わせの良い文字を入れた。
あとから
A先生は「訂正しなくてよいか。」と尋ねてきた。
私は「そのままでよいです。」と答えた。
「桃色、橙色、黄色」と、D君はきちんと自分の折鶴の色を覚えていて
小学2年生の詩は
必ずといっていいほど、折鶴の色まで書いている、と後で気づく。

そのD君は
全ての教科に優れていた。
頭の良い子は文系理系問わず、音楽や美術、体育にも秀でている。
私のような部分的な得意を持っているのは頭が良い、とは言われない。
あるとき
国語の時間に
D君が指名朗読させられた。
普通に文章を読んでいき、
突然
会話体のところで
女の子の声色でその会話文を読んだ。
皆、一斉に笑った。
私も笑った。
そしてA先生は
こう言った。
「D君はエライね。女の子の会話のところはきちんと女の子の声にして
読んだね。」と。
笑われることの恥ずかしさの見事なフォローだ。
それにしても
女の子の声色にするD君の頭の切れの良さ、咄嗟の判断に、後に感心する私である。

そのD君が
「うちで顕微鏡、買ったんだ。見においでよ。」と
私を誘ってくれた。
理科の嫌いな私は
顕微鏡には興味がないはずだが
D君の家に遊びに行った。
D君のお母さんがお菓子を用意してくれ
D君のお姉さんは、オルガンを弾いて聴かせてくれた。
見るからに
お坊ちゃま、お嬢様の世界だった。
顕微鏡で
何を見たか忘れたが、
8歳にして顕微鏡を買ってもらって喜んでいるD君の先の大物さが見えてくる。
これが
普通の家庭だったのかもしれない。
うちのような
まだ養子縁組をして2年(1年間病院にいたから、実質1年)の
俄か家庭のギクシャクさは寧ろ特異だったのかもしれない。
顕微鏡やオルガン、全く別世界のものだった。

学級に
B君という男の子がいた。
あまり話したことがない子であるが
母親同士が仲良かった。
母親同士が仲が良いと、自分も母に連れられてその子の家に行く。
でも会話は弾まない。
犬がいた。
スピッツ犬で、ユキコと言った。
(なぜ、ここまで犬の名前を覚えているかというと、例の文集に犬の絵付きで
彼が作文しているからだ。)
今ではスピッツって見かけないが
よく吠えていた。
ある日
母と銭湯に行くと
その子とお母さんが入っていた。
8歳はどうなのか?
当時は、8歳は男も女もなかったのかもしれないね。
母親同士、また話が始まり、
裸同士で私たちは風呂場にいたわけだが
やはり彼は恥ずかしいのか
足の脛を掻くようにずっと前かがみになっていた。
私は
まだ8歳だから、恥ずかしくない、と自分に言い聞かせていたような気がする。
母親同士、少しは8歳の子どもの気持ちも考えてよ、と今なら言いたい。
このことは非常によく覚えている。

H子ちゃんという、聡明な感じがする女子がいた。
特に仲が良かったというわけではないが
成績表を受け取ったときに
「トモロッシちゃん、5が幾つあったの?」と聞かれたりした。
「トモロッシちゃん、私とシンユウだよね。」と言われた。
「シンユウ?」
当時の私は意味が分からなかった。
漢字も分からなかった。
どう答えたかも分からない。
そんな言葉を知っている彼女はやはり頭の良い子という印象があった。
そんなに遊んだ記憶がない、ただ勉強についてはよく
どうだった?と聞かれた。
ある日の授業で
漢字のテストがあった。
テストが終わって
ストーブのところで
H子ちゃんが
私に
「○○という漢字、どうだったっけ。」と聞いた。
「こういう漢字だった。」と私は答えた。
その会話を
C君が聞いていて
「ああ、漢字教えてる!先生に言ってやろう!!言ってやろう!」と脅しかと
思ったが
本当に先生に言いに行った。
これがカンニングという意識が全然なくて
テストが終わったからいいものとして思っていたのだが
どうだったのだろう。
C君の告発で
A先生は教室に入ってきた。
そして私は
皆の前で先生に叱られた。
どういう叱りの内容だったか覚えていない。
まだテストが続くのかどうか覚えていない。
終わったと思ったから教えたのだろうが
先生が叱るということは
まだ正式に終わっていなかったのか。
でも、とても悪いことをしたような気がした。
正義(?)のC君は未だに
私の口から出てくる。

夫がイヤミな言い方や子どもっぽい言い方をしたときに
「あ、A太郎焼き屋のC君にそっくりだ、その言い方。」と。

お正月に
A先生は
お楽しみ会というのを開いてくれた。
薪ストーブの上で餅を焼き、
歌留多とかいろいろな正月遊びを企画して
負けた子には、墨で目の周りに丸を描いたり、ひげをつけたり、
先生もひげを自分で墨で描いた。
私の隣にいた大きな身体のあの子もニコニコ顔している。
皆揃って撮った大きな写真。
それが当たり前のようにして
目の前にあるが
今思うと
先生の自費負担はどれだけだったのだろう、と。
当時は50人近く生徒がいたに違いない。


友人の一人でN子ちゃんがいた。
母親のお手伝いをよくする、きっと今は料理に裁縫に
女性らしいたしなみをきちんと持っている母親になっているかと思う。

転入して1年経たないうちに
そのクラスとはお別れになる。
大きな学校、1つの大人数のクラスでの生活を
他の子より遅くし始めた私は
担任のA先生によってずいぶん救われた。
いよいよ最後の日。
私はN子ちゃんの横にいた。

そしてA先生が最後のお話をしているときに
初めて先生とお別れする実感がこみ上げてきて
泣いてしまった。
N子ちゃんの膝に突っ伏して泣いてしまった。
N子ちゃんがなだめていると
先生はそれに気づき、N子ちゃんに聞いた。
彼女はこう言った。
「トモロッシちゃん、私とお別れするから寂しくて泣いているんです。」と。
A先生は言った。
「トモロッシさんは優しい子ですね。友だちとお別れすることに
寂しさを感じて泣いているとは。」
いいえ、先生、
「先生とお別れするのが悲しくて悲しくて、泣いていたんですよ。」

今の私なら言えるが
あのとき、言えなかった。
言えなかったから、今どうしてもここで書きたかった。

おもしろくて、
厳しくて、
分け隔てなく、生徒と接して
生徒のすることを褒めて、叱って、
いつも皆のために何かを考えていた。
あのY君が伸び伸びと、クラスの皆に溶け込んで笑顔でいられたのも
今思うと
本当に先生の尽力だと思っている。
道の真ん中で、おちんちん出しながら立小便をしていたら
今なら、問題になっていたかもしれない。
そんな子に迎えに来てもらいたくない、と親は言うかもしれない。
だが
それが笑い話になるくらいに
明るい小学2年だった。
私は
この普通の小学校生活を皆より遅れてし始めたが
A先生によって
溶け込むことができた。
体育見学とか、遠足不参加とか
いじめになりそうな空気を作らず
軽い運動のときはなるべく
私も参加させてくれて、その参加態度を
体育の評価としてつけてくれた。

普通の小学校のスタート
A先生によって、少し自信をつけてのスタートだった。
先生、ありがとう。
生きていらっしゃるだろうか。

大好きな先生の一人である。

(2/9)再び、真冬に。明朝はマイナス4℃か。

2012年02月09日 20時29分41秒 | 思い出を紐解く
再び
雪が降る。
まだまだ冬の真っ只中。
もう少し
私の好きな冬を秘かに満喫していよう。
確かに早朝の通勤には雪は不便だと実感しているが。
それでも
貴重な雪、と思ってしまう。

雪といえば
いつも思い出すのは



苫小牧にいたとき
クリスマスプレゼントとして
母から
レコードを買ってもらった日のことを
思い出す。
大好きだったタイガースのシングル盤のレコードだ。
あのとき夢中だった。
つい先日、新聞の三面記事に載るほどに、コンサートで復活した彼らの姿があった。
それほど
彼らは当時、今のジャニーズ以上の人気者だったんだ。
その彼らのレコードを
母と買いに行った日
万年雪のように、夕暮れの道路はテカテカに光っていた。
土やコンクリートなど全く見えないのが当たり前だった。
当時の値段は、今の煙草代より安かったが
小学生の私には、高価なプレゼントだった。
嬉しくて、はしゃぎながら、寒さも忘れて歩いて帰ってきた日。
今の母にその話をしたって
覚えているはずがない。
小学生の私のときめきは、自分だけのもの。
あの夕暮れの青白い雪道と、照らされる車のライト、
心躍る笑顔の小学生の私。
数少ない、母と心通わせた思い出は、私だけのもの。

一昨年
両親と北海道に帰省したが
当時の父の会社同僚たちは
「トモロッシちゃんといえば、タイガース、タイガースだったな。」
と誰もが口にするほどに
有名だったのである。
今、山Pが好きだ、と言っている私だが
これは、人生の突然変異。
まさかの山P。

その山Pのドラマをこれから観るのだが
頑張って起きて観る、唯一のドラマ。



今日は
1つの大きな出来事を終えた。
これから大変なのだが
昨年から抱えていた問題で
ようやく解決。
何のことかは割愛。


さあ、頑張りましょう。

(2/8)昨日の雨は素敵だった。

2012年02月08日 21時26分34秒 | Weblog
金曜日休みの予定が
再び午後の仕事が入り、ボツ。
翌日休みになった。

昨日の雨は
すっかり雪を溶かしてくれたが
(雨に煙る空が素敵だった。雲っていても暖かさを感じた日だった)
また今日から雪になっている。

まもなく就寝。
夕刻
元の職場の同僚から
元気ですか、と電話がある。
それだけで
日ごろのストレスが吹っ飛ぶ。
不義理を果たしている自分を詫びる。
「今、教材はね、『こころ』をやっているのよ。
一年生は相変わらず、『城の崎にて』をやっているよ。」
と言われた。
懐かしいね。
すっかり読書と離れている生活をする私だ。
しかし、今日はアマゾンから、注文した本が届く。
少し活字を追いたい。
小説の類は今、休止。
ノンフィクション等を好んで読んでいる。
就寝前のわずかな読書である。

もう目がショボショボだ。
疲れが取れないうちに明日がやってくる。
頑張れ、トモロッシ。

(2/4)今日も雪は降り続く。

2012年02月04日 21時16分53秒 | Weblog
今日も雪が降り続いている。
ずっと雪だ。
日本海側のように、積もるわけじゃないが
雪の少ない仙台にしては
今年に入って雪の日の多いこと。

今日は4時半に家を出るのが、4時半に起きてしまった。
どうにもならない。
歯も磨かずに家を出る。
職場について、歯磨き洗顔。
飛び起きて、クラクラする。

今日も忙しい日。
チーフも疲れて、椅子に座ること多し。
仕事も省略していた。
しかし下っ端の私は座ることもできず
やらなければならない仕事のノルマを真面目にこなす。
あなたが手抜きしても誰も怒らないが
私が手抜きすれば、怒るだろうチーフ。
だからどんなに偉そうなことを言われても
心に響かないよ、チーフ。
天網恢恢疎にして漏らさず。
きっと誰かが見ているよ、チーフ。

そんな日々の連続です。

笑顔の足りない私です。
作り笑い、愛想笑いはもうごめんです。

夜8時半帰宅。
無理して夜の食事をして、風呂も入らずにこれから寝ます。
明日は4時に家を出る。
3時半にしっかりと起きなければ。

(2/3)時間が無い。

2012年02月03日 21時36分56秒 | Weblog
今朝は
4時半に出勤するのに、4時15分に起きてしまった。
洗顔と歯磨きだけで出勤する。
昨日降った雪に足(自転車)を捕られながら
出勤である。

夜も仕事があるので
午後に2時間ほど暇を戴いて、一時帰宅。
何もできやしない。
悶々とした気持ちの置き場に困るだけ。
今日もそれ。
明日もそれだろう。

独り言を言う。
奥の部屋のミミたちの相手をしながら
書棚の本を眺めつつ
「こんなん(こんな生活)ではダメだ。どうする?どうする?」と呟く。
考えたいのに時間がない。
寝ることに追われる。
仕事に追われる。

だが、今夜は、触った。
私のネコたちの背中を頭を触った。
彼女たちは喜んで、私に甘えた。
もっともっと触ってほしいとゴロンゴロンとする。
それなのに、
もう時間が無いから、と部屋を立ち去る。
明日また、彼女たちの相手をしてやろう。
たとい五分でも。

(2/1)寒い日が続いています。

2012年02月01日 20時40分00秒 | Weblog
1月のブログはとうとうたった2日だけの記録になっていた。
そんなつもりは毛頭なかったけれど
悶々と過ごす日々の記録はできなかった。

風邪をこじらせて一ヶ月強。
年末に風邪を引き、ズルズルと伸びている。
1月中旬にはそろそろ治るころだろうと思っていたら
ぶり返し、1月22日の日曜は朦朧として仕事をしていた。
チーフ(年下)にイヤミ、怒鳴られっぱなしだったが
頭に入ってこなかった。

それ以来、チーフとは怪しい空気が漂っている。
風邪を治す暇もなく
またも今朝から、クシャミと鼻水が出て3回目のぶり返しである。
明日からまた忙しくなるんだ。
通常、朝の仕事が中心で、夜は早く寝る生活だが
明日から3日間、夜も仕事が入るので
夫の食事の準備もできず、夫に自分で作るように伝えた。
その仕事の手当もつかず
結局、時間調整という形の残業である。
段々、疑問に思い始めた私である。
同僚は、仕方ない、これがこの会社のシステム、と諦めているが。
募集すれば、代わりは幾らでもいるのだろう、合わなければやめてよし、という
職場なのだろう。

何よりもチーフのワンマンに付き合うことが精神的によろしくない。
グチばかりになるので割愛。

毎日寒い。
こんなに寒い日が続くのも久しぶり。
朝早く出勤するのでますます寒さが身にしみる。
雪の好きな私が
寒い、と連発するのだから
よほど寒いのだろう。

乏しい日記でごめんなさい。