僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2/28)長洲未来ちゃんて、すごいんだ。

2010年02月28日 13時55分11秒 | Weblog
もう午後になっていたね。
チリ大地震による津波警報があるので
(こちらの県、大津波警報となっているが)
それらをテレビで観つつ

BSでやっていた
フィギュアスケートのエキシビションを観ていた。
午前はそれで終わってしまった。


さてさて
それを観ていて
思ったのが

長洲未来さんという日本人(アメリカ)が
一番印象に残ったということ。
一昨日の決勝では
彼女のをあまり熱心に観ていず
演技が終わってからのキスクラで
ニッコニコしてウニャウニャウニャ~と可愛い声の英語で
となりのじいちゃんに話していたのが可愛くて
じいちゃん、苦笑い。
可愛い孫を見ているようだった。
そして4位の表示があると
すごく喜んでいる姿も頼もしかった。

彼女の演技、きちんと観ていないのが悔やまれる。
そして
エキシビションでのそれは素晴しかった!
歓声も高い!
もしかして女子シングルで一番歓声が高かったかもしれない。

この子、今後の脅威になるね。
私の目(素人よ)には
誰よりも
スピード感
感情表現
柔軟性
技術面
スケートを楽しむ心
を一番大きく表していたと思う。
上位2人のゴタゴタが
消えてしまうくらい
彼女の伸び伸びとした演技に救われたなあ。

専門家から観れば
まだまだ不十分なところがあるのかもしれないが
こういうのって
今後輝く原石なんでしょうね。
上位3人のお国の思惑があるから
不動だとしても
彼女の4位こそ、本物の評価かもしれないね。

今のように
4年後も楽しく楽しく
観客が心から素晴しいと思えるスケーティングをしてほしい。
プレッシャーから解放されて滑る姿や彼女の笑顔は
こちらもウキウキするような気持ちである。
動画で、過去のものを観てみたけれど
ホント、素晴しいよ。
笑った顔が北陽の一人に似ている。
そして、彼女の星座、4月16日生まれの牡羊座だった。
染まるなよ、伸び伸びとやれよ、と応援したくなる。
意見が2分するようなものじゃなくて
誰もが絶賛する表現力と技術力をもっともっと磨いて
私たちを酔わせてください。
その両方とも備わっているのは強みだものね。
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(2/28)パシュート、銀メダルおめでとう!!

2010年02月28日 08時50分26秒 | Weblog
おはようございます。
朝からここに来ましたよ。

朝、5時に起きて
テレビをつけて
パシュートの準決勝を観る。

準決勝で勝ったので
これで銀以上確定。
ワクワクしてきました。

準決勝での
ドイツの最後の転倒ゴール、思わずこちらもキャーッ
転倒した選手の落胆と狂喜乱舞、興奮しました。

決勝まで1時間ちょっとあるので
急いでネコのゴハン。
夫の朝食作り、後始末。
7時過ぎにはまた2階に上がって
夫と決勝を観る。

相手はドイツ。
さっき転倒した選手はいなかったのかな。
新しい選手を入れてきたのかな。

日本、余裕のタイム差で進んでいきます。
これは、これは
金だ。

金だ!







と、思ったら
0.02秒差で
負けた・・・・



銀メダル・・・・

ああ、ザンネン


でも、最後にこうして
興奮して応援できて良かった!

日本、銀メダルおめでとう!!

オリンピックも最終日に
朝早くから
日本中を興奮させてくれてありがとう!

日本て
こういう
チームでやるのって
いつも模範のスタイルでまとまってやってくれるのよね。

個人では入賞クラスでも
やはり
欧州国などはもっともっと速い人がズラリといるでしょ。
ところが
チームになると
なぜか、日本はうまい。
日本の性質が良く出ていると思う。

これからはこの競技の面白さが浸透して
どんどん強化する国が増えてくるので
次回も気を引き締めて
メダル圏内の常連であって
いつかは金メダルを取ってほしいね。

タイムだけではなく
団結力の賜物だから
日本は幾らでも勝てるチャンスはあると思う。

今回出場できなかった
15歳の高木さんも、目の前で観たのを学習して
4年後、強いチームの一員となって出場してください。
ドイツのように、代わりの控え選手層が厚ければ
絶対勝てるよね。

金を目指せる、という確信を得たのだから
4年間研究して、強いチーム作りをしてほしいね。


それにしても
3人で縦に同じスピードで走る姿は
本当に美しい。
美しい。

感動をありがとう!
希望を持てる、という未来形をありがとう!
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(2/27)パシュート、カッコイイ!

2010年02月27日 23時13分38秒 | Weblog
明朝5時過ぎに
パシュートの準決勝があるので
観てね。

日本女子がメダルの可能性濃厚なので
景気付けに盛り上がればいいなあ、と。

スピードスケートの姿はやはりカッコイイ。
あの姿勢で3000メートルを綺麗に走る。

チーム3人が
一番前の人のスピードに合わせて縦に並び
流れるように走る姿、美しい。
ピッタリ前の人にくっつき
空気の抵抗を無くした状態は
まるでバイクレースのスリップストリームのように
真空になって追い越しそうになるが
そこはチーム。
うまく前後交替してスピードを徐々に上げて
進んでいく。
かっこいいよ、これ。
ショートトラックのすべりも好きだが
でもゴチャゴチャして、転倒や失格が多く
ナンダア、コレ状態のときもあるので
このパシュートは
そういうゴタゴタもなく
純粋にチームでタイムを競うので
スッキリした気持ちで観られるよ。
早く起きて、応援しよう。

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(2/27)カエル、冬眠から醒めた。

2010年02月27日 00時44分12秒 | カエル
世間の喧騒と無縁に
我が家のカエルたちが
冬眠から醒めて
今日
庭に出てきていた。
確認したのは6匹。
6匹も!という気持ち。

南側の巣穴の蓋の隙間から
ピンクちゃんが出てきていた。
お腹はへこみ、冬眠中のエネルギー消耗の跡です。
もう1匹、石の上にいた。

東側の庭のコンクリートの花壇用側溝(ここが巣穴)からは
4匹ゾロゾロ出てきていた。
1匹はまだまだお腹が太っちょで
冬眠から醒めたように見えない。

今日の雨は絶対、カエルたちが起きると思っていたら
自然の法則、ピッタシ。
一応、念のために
車通りに出ていないかと、懐中電灯を持って点検。
いなかったと思う。

まだエサになるような虫たちは目覚めていないので
早く目覚めてください。



世間の喧騒と無縁の
オトメちゃんにも、ブログで毎日楽しみに会いに行っている。

心が和みます。

世間の喧騒とは


冬季オリンピックの花形競技に
喧しいテレビ。
私も生で観たが
なんとも後味のあまり良くないものを観た気持ち。
素直に感動した、と思えない自分。
拮抗しているはずの力(これまでの大会)が
なぜにこの大会ではこんなに開きがあるのかと思うくらいに
しらける。
これじゃ、次に滑って逆転してやろうという
モチベーションが下がってしまう。
残酷。

だから
数字のはっきりしない競技は
半減なのだ、見る気持ちが。
スピードを競うものや
もしかしたらもっと頑張れば追いつく、という競技に
ハラハラして観るほうが、楽しい。

そして私もそう言っておきながら
あちこちのサイトを見過ぎ。
最後に
オトメちゃんの姿に助けられて
寝ることにする。

明日から私は
4日間連続の休み。
でも、仕事をうちでやらなければ。


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(2/25)今日も暖かい

2010年02月25日 22時20分21秒 | Weblog
暖かい日が続いている。
もう真冬の寒さは来ないね。
一度も雪かきをしなかった東北の町。
冬が終わりに近づいている。

風邪がなかなか抜けず
相変わらず
痰をからませての仕事である。

昨日、今日と
職場にて不快な思いをしていて
血圧が上がるのであまりカッカしないようにと
思うのだが
さすがに2日続けてなので、久々にね・・・・こんな感じ。
内容は書けないのだけれど。
私がカッカしているのは周囲にはわかった。
納得いかなくてね、相手のやり方に。
でも、彼女、何回もこちらに来ていたなあ。
ニコニコ笑顔で声をかけてくると
その笑顔、ちょっと私の妹(父親の違う)に似ているのよね。

まあ、忘れよう。
明日には忘れているので、大したことがないのだ。
少し、自分もガス抜きしなくては。
怒ることもガス抜きだったりして。

仕事が終わっても今日は
少し残っていなければならなかった。
その時間は充実していたので
よかったことにしよう。




今日はあと少し勉強して寝ます。
またゆっくりと書こう。
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(2/23)悲しいニュースが続いた

2010年02月23日 20時19分09秒 | Weblog
いやなニュースばかりだった。
立て続けに
悲しいニュース。

今日は
ネコの缶詰を買いに、隣の市のホームセンターに。
月に1、2回ほど行っている。
先々週にも行ったばかりだ。
昨日、その市で悲しい火事の事故があった。
親が買い物に行っている間に
火事になり、幼い子供2人が心肺停止の重体。
いつもそこの前を通ってホームセンターに行く。
あ、ここなんだ・・・と驚いた。
まさかあの火事がここだったなんて。
テレビのニュースで取り上げるたびに夫は
可哀相だ、可哀相だと言っていた。

どこかの市では
老人が年金を差し押さえられて、餓死していた。
こういう
老人の孤独死というのはたまにある。
彼の生き方がまずくて、そうなったのかもしれない。
誰かは、自業自得なんていう言葉を口にするかもしれない。
こういう場合、自業自得という言葉を使うには
その言葉の軽さと死の重みと結びつかない。
私は時折
孤独死というのを考えることがある。
自分たちの環境を見れば
いつかはそれに該当してしまうのかも、と恐れる。
恐れないためにも、何とか今からその先を
考えていかなければなどと
本気で思っている。
私たち夫婦は兄弟がいないし、子供もいない。
社交的でないから、友人たちと連絡を取るとかもない。
親戚との付き合いもほぼ皆無。
親がまだいるから、たまにそれらがあっても、
自分たちの世代になれば、付き合いは切れるような気がする。
夫の従兄弟というのに会ったこともない。
北海道にいる親戚は距離的に遠い。
何十年も顔を合わせていない人たちだ。
死んで、急に親戚としてお骨を持っていっても
戸惑うばかりだろう。

そういえば
以前、夫の叔父にあたる人が
千葉あたりで孤独死だった。
義母の弟で、まだまだ働けるような年齢だった。
いつのまにか離婚していて、関東方面に行っていた。
私は会ったことがない。
夫の話では、自慢できるような頭の良さと自由な空気を持っていた人らしい。
どこでどう亡くなったかはわからないが
あちらで火葬してくれて
その遺骨を、千葉の役所の方がわざわざ
こちらまで親類に届けに来たそうだ。
その話を聞いて
孤独死の悲しさを薄々感じ取っていた私だった。

今回の事件は、生活費である年金も
何かの滞納で、全額差し押さえになったとのこと。
相談するとか、誰かに助けを求めるとかの気持ちは
もう萎えてしまったのだろうか。
そうなれば、絶望の気持ちしかない。
孤独は、人を絶望させる。
生きる気力を失わせてしまう。


私の実父であるが
年に1回ほど突然電話をよこすのだが
彼の生活ぶりは全くわからない。
奥さんと子供もいるが
わけあって、離れて暮らしているとのこと。
子供というと
私と血を分けた兄弟ということになる。
もちろん、会ったことがない。
半分は同じ血が通っている。
しかし、未来永劫と会わない兄弟である。
実父は独り
山梨に住んでいる。
奥さんと子供たちは埼玉にいるとのこと。
もういっしょに暮らすことはないだろう、と言っていた。
それでも子供には連絡をしているとのこと。

あちこちに
孤独の翳りを持つ人たちが点在している。
いずれ私たちもそうなっていくのだろう。






友人のブログが悲しかった。
自分の潜在する悲しみが夢となって現れていた。
でも、頑張ろう。
後悔を、今後の生活に生かすしかない。
今傍にいる可愛いネコたちをどうかいっぱい
抱きしめて、生きていくことを望む。
そうするしかない、と思っている。
私も
後悔の連続だった。
だから、今ここにいるネコたちを
責任持って、命を全うさせようと思っている。


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(2/22)コードブルーの藍沢先生、面白かったよ。

2010年02月22日 23時31分18秒 | 山Pドラマ
なぜか
スナック「すれちがい」がスパイシー。
冒頭の飲み会が面白い。
初めてと言っていいほどに
藍沢先生のプライベートリラックスタイム。
そして山Pお得意の
飄々として笑いを取る姿。
ただ、グラスの氷をカラカラして催促しているだけだけれど
妙な空気を漂わす彼。
役者ね。

やっぱり彼は
シリアスの中にあのような笑いを誘うところが
光っている。
ノブタにしても
クロサギにしても。
あれでマイるのよね。

あの姿、好きよ。

あとは皆
鬱的な話。
山小屋での手術は久しぶりの
神の手に近かったけれど
もっともっと
助かったぁ、という雰囲気が欲しいね。

山に行くヘリコプター、撮影ごくろうさま。
あれがあるから
冬のヘリは大変そうだ。



今日は
若い子に
「山P、映画やるんだよね。」と言われたけれど
本当にそう?
まあ、決まったら喜ぶつもりだが
また微妙な(私にとって)題材だ。

      

風邪がなかなか抜けないね。
夫にあれこれしているうちに
うつってしまったんだなあ。
金曜日の仕事のときは無口になった。
具合が悪いと
無口になってしまうでしょ。
その後悪化して
金土日となるべく休むように心掛けた。
今日も頭痛が少しあったり。
明日は休みだが
休んでもいられない。

もう少し
気分も晴れやかに落ち着いて
過ごしたり
ブログに接したりできる日を待つことにする。







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(2/22)風邪になりました

2010年02月22日 11時55分37秒 | Weblog
あれから
夫の風邪がうつってしまい
土日にかけて
身体を休めた。
熱は出なかった。
夫は発熱したので
オレの風邪の種類とは違う、などと言っていた。
いやいや
あなたの風邪がうつりましたよ。

痰と鼻水が出ている。
横になって寝ると
鼻のつまりがひどくて
口呼吸になってしまう。
せっかく治る方向に行くかと思ったら
仕事で声を出していると
咳き込んで
痰がからむ。

これからしばし多忙の2週間になるので
これ以上悪化しないで
今期最後の仕事に集中したい。
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(2/18)夫、風邪で寝込む

2010年02月18日 21時02分39秒 | Weblog
夫、会社休んだ。
発熱、倦怠、食欲不振。
不思議と咳や鼻水は出ていない。
喉は痛い、と言っていたが。
このところずっと遅かったし
寒さも続いていたし
体力が落ちていたときに菌が入ったのかもしれない。
休むなんて、滅多にないことだから
よほどつらかったに違いない。

一日寝ていた。
病院には行かなかった。
行ける体力もなかった。

朝、おにぎりを作っておいた。
昼は食べたくないといっていた。
夕食は食べさせる。
食べてまたすぐに寝る。
明日は回復してほしいが。




夫が食堂に下りてこなかったから
(いつも朝起きたら、夫は父親の仏壇にお線香を上げる。
それが今日はなかったので、義母は何かを察したようだ)
私が出かけるときに
下から呼び鈴が鳴る。

「事の次第を話してちょうだい。
 風邪でも引いたの?」
となぜか
威張って私に聞いていた。
事の次第、とは大げさな。
あとは畳み掛けるように
「熱はあるのか」
「食べさせなきゃだめだ」
「食べたくないのなら、何か果物でも買って食べさせなくちゃ」
「病院に行かなくてはだめだ」
などなど、威張った口調で私に言う。
なぜだろう。
なぜだろう、と考える。
私がいないときに
寝ている息子のところに来ても
邪険にされるに違いないので
(寝ているときに、あれこれ持ってきたり、声をかけられたりしてもつらい)
私は
大丈夫、寝ていれば治るから、とそっけない態度で答える。
夫は
頑固なので
どんなに病院に行け、と言っても行かない人だ。
それを連れていかない私に責める感じだ。
義母は、ちょっとでも不安だと病院に行く人なので
病院、病院と言う。


夫はこれまで風邪を引いても
お風呂は絶対に欠かさない人、シャンプー命の人なのに
今日の夜、お風呂に入らないと自ら判断したことは
よほどのことだろう。
明日は
遅れてでも出勤するのかもしれない。
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(2/18)ちょっと心がダウン

2010年02月18日 00時15分59秒 | Weblog
夫、夕飯を残すほどに
風邪がひどい。

私にうつされては困るので
気をつけなければ。

頭が煮詰まっています。
仕事も生活も。

楽しみの
コードブルーの時には
涙の場面で
私はうつらうつらしてしまった。
なんで
藍沢先生の神の手はないの?
あんな感じでずっとやられては
なんとも
いやになります。


オトメちゃんが
私の心を救ってくれています。
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(2/14)冬季オリンピック楽しみ

2010年02月14日 18時00分07秒 | Weblog
冬季オリンピックの競技が始まったね。
早速
ショートトラックで面白いものを見せてもらった。
いつのまにやら
ショートトラックって
韓国がいきなり強いのね。
前は結構日本人も活躍していて
面白いな、と思っていたけれど
最近は韓国勢が大活躍で。

競技としては新しいものなんですよね。
いろいろと物議を醸す競技ということで
そこがまた
エキサイティングなんだ。
アメリカのオーノという人、まだまだ
現役で活躍しているのもよかった。
最後は
韓国独占か、と思いきや
ゴール寸前で二人自滅して
見ているほうも悲鳴に近い驚き。
これは私も
血圧上がりそうな競技。
冷静に見ようと思っても
いつどんなハプニングがあるか、とドキドキ。
やっぱり、ありました。

なかなか
日本ではメジャーにならない競技。
出場者も、北海道の人が出てこない。
雪国でも、長野とか。
青森や北海道の人たちがあちこちで
小さいときからショートを遊びでやっているなら
どんどん選手を輩出しそうですが
どうも他の競技に行ってしまう。

スピードスケートも楽しみだ。
日本人、何とか頑張って欲しい。

アイスホッケーに
友人の息子が出場。
でも、これもなかなか、民放のゴールデンでやらないようだ。
フィギュアばっかり注目されている。
メダルに一番近いから、そうなるのもしかたないけれど。

淡々と、他の競技を放映し続ける
NHKBSが安心して楽しめる。

私は
スピードスケートと
スキーのノルディックが楽しみ。
荻原たちがいた頃にハマリました。
スキーのマラソンのようで、普通のマラソンを見るときの気持ちで
見ています。

これから約2週間、テレビを毎日楽しめる。
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(2/14)懐かしき札幌時代⑤ーありがとう

2010年02月14日 00時47分50秒 | 思い出を紐解く
今日も夫は遅く帰宅。
身体がきつそうだ。
8時半ごろに夕食を食べ
お風呂に入り
ネットを少しして
テレビを観ながら
私が彼の足や手をマッサージしてやる。
転んだときの足の腫れがなかなか引けない。
10時半には寝た。




思い出を紐解く


学院に入院していたときには
自分が病気であることの自覚はあまりなかったと思う。
身体のどこかが痛いとか、苦しいとかの症状がなかったので
それに年齢的なこともあって
自覚症状がなかった。
治療として、薬を飲んだり、定期的に痰を検査をしていたと思うのだが
教師の顔はいろいろと覚えてはいるけれど
看護婦さんや病院の先生のことは全く覚えていない。
ただし、それは軽度の自分のことであり
重度の患者はまた別だったと思う。

個室にいた男の子とたまに話した。
漫画の本を借りたりしていたのかもしれない。
小学生は
女の子の本であろうと
男の子の本であろうと
漫画は大好きだった。
その子の部屋に行って遊んでいるうちに
ベッドの傍にあるブザーを押してごらんと言われた。
押しても押しても鳴らないので何回も押した。
だが、その音は看護婦さんが詰めているところには
きちんと届いていた。
看護婦さんが飛んできた。
そして私は怒られた。
男の子はケラケラ笑っていた。
二人でいたずらをして怒られたというより
私だけが怒られた。
男の子はあまり気にしていないようだ。
小さないたずらだ、と彼はわかっていたのかもしれない。
その子はまもなく死んだ。
そんな兆候はなかったので
あれから何ヶ月か経ってのことか。

病院にて
死というものを経験したのは後にも先にも
その子だけだった。
そういう死はいくつもあったのかもしれないが
私には「死」を悼むほどの感情がまだ不十分だった。
そして学院も、1つの死に対して
盛大な別れをすることもなく
ひっそりとしたものだった。





入院生活での
色を浮かべるとすれば
オレンジ色だった。
陶芸の時間があって(カリキュラムの1つなのかはさだかではない)
皆で作ったものを釜で焼いた。
そして色付けをするときに
私は
オレンジ色を選んだ。
その色が焼きついているんだ。
詩的に書けば
夕焼け色だ。
学院の裏山や草原の奥に広がる夕焼けの色
汚く書けば
どぎつい色、陶器にふさわしくない色だった。
なぜかあの陶器に色づけをしていた楽しいひとときが目に浮かぶ。


まだまだ細かい思い出が断片的にあるが
ここでひとまず止めよう。

その病院を退院したのは
翌年の春先だったと思う。
本来ならもっと入院していたはずなのだが

父が転勤となった。
函館だ。
当時の札幌と函館間は
距離は今も同じだが、時間が違った。
お見舞いに来ることも容易でない。
それゆえ
私も半ば、強制的な退院だった。
完治はしていなくても今後、函館の病院に定期的に
通院することを約束し、函館に向かうことになった。
私は泣いた。
ここを離れたくない、と泣いた。
病院での最後の写真は
退院日。
あのベレー帽をかぶった私の顔は泣いたあとで膨れていた。
ちっとも退院が嬉しい、という顔じゃない。
低学年の仲間がいっしょに写っている。
Yちゃんはパジャマのままだ。




札幌にいた期間は1年とちょっと。
丸々1年は病院生活だ。
札幌の記憶は病院そのものだ。

本来なら
養子になって
普通の小学校に入学して
両親との生活に慣れていくべきところが
両親とは離れての生活だった。
そして入院でありながら、快適だった。
周囲の人々は皆優しかった。
いやな思い出は全く記憶に残っていない。
いやなことはあったのかもしれないが
心の傷となって残っているのがないから
楽しかったのだと思う。
自然もよかった。
時間の流れ方もよかった。
私の性格に合っていたんだと思う。
これが10歳とか13歳とかの入院だったら
また別ないやな体験をしたのかもしれない。
デリケートな年齢の大部屋はつらかったろう。
実際、中学生のお姉さんの中には
小学生の私たちがうるさくて閉口していた人もいたろう。
7歳の年齢であったことがありがたい。
人を傷つけるとか、貶めるとか、嫉妬するとか、そんなものとは
無縁の子どもたちだった。
せいぜい、○が多い少ない、の揉め事だった。
30分後にはケロッとして、楽しみの夜のおやつをいっしょに
食べていたはずだ。

純白の心、と書いたのはそういう点だ。
無邪気、無辜(むこ)という言葉があてはまる時代だった。

健康体で普通の小学校に通っていたなら
どうだったろう、と思う。
自分の精神形成の時期に
見るもの、触るものが違っていたら
どんな自分になっていたろう、と思う。
7歳の同学年だけの生活とは違って
同時に高学年の人、中学生のお兄さん、お姉さんが傍に
たくさんいた。
彼らが私に与えてくれたものは
後の自分の精神の柱になっていく。
自然を愛する心や
音楽を愛する心や
文学に通じる「故郷」への思いや
それらを文字にすることのときめきや。

あの時代は夢か幻か架空かと思うほどに
違った世界だった。
それは
理由の1つに
あのあと私は一度もそこを訪れていない。
数年後、北海道から離れることになるのだが
そのあと何度も北海道に帰っていた。
仕事で札幌を訪れることも何度かあったし
プライベートでも何度も札幌に行っている。
函館の町も苫小牧もF市も
北海道に帰るたびに寄っている。
自分の住んだ家まで訪ねては懐かしがってきた。

しかし
あの病院だけは退院して以来一度も
訪れていない。
それが心残りでもあった。
いつか訪れたいと思っても
病院や周囲の環境がガラッと変わっているのを見るのも怖かった。
おそらく
死ぬまできっと訪れることはないだろうという前提で
でも
記憶を文字に残しておきたくて今回書いてみたのである。

あのころのお兄さん、お姉さんたちは
この日本の、北海道のどこかで生きていて
自分の子供や孫に恵まれて過ごしているはずだ。
まだまだ現役で働いていることだろう。
彼らは
あの時代を、あの病院を忘れずにいるだろうか。

幻でもなく、夢の世界でもなく
現実にどこかで暮らしているのだから
この感覚が不思議でしょうがないのだ。

でも私には
もう永遠に戻ることもない
あのオレンジ色に象徴される
ふんわりとした桃源郷のような世界だったのだ。
ありがとう
あのときのお兄さん、お姉さん、先生たち。
豊かな感情を育ててくれてありがとう。
私は
北海道を離れて
心の色もいろんな色に染まり
ここで暮らしています。




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(2/13)GLAY & EXILE - SCREAM [PV]

2010年02月13日 09時58分59秒 | 名曲
GLAY & EXILE - SCREAM [PV]


おはようございます。
オリンピック開会式がまもなく始まるため
ゆったりと待機しています。
こちら東北の空は晴れていて
朝のワイドショーでは
東京では斜めに雪が舞っていましたね。
午前の日差しを受けて
うちのネコたちは寝ています。


私が
GLAYとか
EXILEとかを取り上げるのは凄く珍しいことです。
特に双方のファンとかではないので。
曲も全然知らないし
誰が誰だかがわかっていない。
GLAYは、レコード大賞を受ける以前あたりに
盛り上がっていて
夫もCDを買っていました。

この
SCREAMという曲は
2005年の夏ごろのもの。
テレビで(Mステ?)
最初で最後のコラボとかで演奏したのを観て
鳥肌を立てて見入ったものです。
カッコイイ~!
こんな気持ちで観て
すぐに
DVDを買いました。
そしてこのDVDを観てますます
カッコイイ~!!と思ってしまったのです。
双方の良さがガッチリ出ている。

EXILEって、こういう感じが本当じゃないかって。
本領発揮している、と思って。
伸び伸びとやっている。
今、EXILEを好きな若い子は6年前のこのコラボPVは
知っているのかな、と。
これ、最高です。
一番油の載っているころの2つのグループの曲。
TAKUROさんが作りました。
日本の完成されたエンたーティメントとして
観てください。
特に4分過ぎのダンス、演奏、鳥肌ものです。
私の気持ちとしては
これがもっともっと売れて
世界に発信してもおかしくない、と思っているのですが。
なかなかうまくいかないようで。
ちなみに
このころ、山PもNEWSも知らなかったころだった。
あのころは何を聴いていたんでしょうね、私。


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(2/9)懐かしき札幌時代④体育

2010年02月09日 23時45分24秒 | 思い出を紐解く
暑い。
ストーブをつけているが
消すと寒くなる。
しかも熱いコーヒーなんかも飲んでいる。


思い出を紐解く


入院生活の中の授業で
体育はどんなことをやるのか。
基本的に
激しい運動は禁止であった。
走ったり跳んだりの運動はなかった。
覚えているのは
散歩である。
体育が散歩というのはなかなかオツなものだ。
おいしい空気を吸うことも
治療の一貫だから
それを取りいれていたのかもしれない。
高学年や中学生の体育については知らない。
運動場がなかったので
バスケットをするとか100メートル走とか
外界の小学、中学の体育のようなものはなかったと思う。
山の中の病院、学校だったので
近辺は散策には格好の場所だった。
きっと
現代のベッドスクールはもっともっと
体育の授業は充実しているかと思う。

運動をしない、ということは
後に
私の外界の学校生活では苦痛の対象になっていった。
それはいつか「函館時代」のときに書こうと思う。

一応、学校も併設だから
授業の1つとして体育もきちんと存在した。
持っている写真には
外にて
玉入れに使う紅白の玉をいかに円形に並べるかの競いの写真がある。
それは運動会だったのかな。

冬は
裏山(距離感がちょっとわからない。すぐ裏の山だったのかどうか)に
皆で
大型の橇(そり)を持って
そこで数名ずつ乗って
急な斜面を降りていく。
初めて心臓が止まった(と思った)ような感覚のスピードだった。
子供たちはオーバーなどを着ているが
先生はマフラーをして白衣を着ているだけだから
近くの山に来ていたのだろう。
その写真もお兄さん、お姉さんと笑いあう私だった。

当時はカメラは先生方が写してくれた。
結構、時代の割りにはそのときの写真を所有しているんだ。
今なら入院していても誰もがデジカメ、ケータイを持っていて
簡単に何枚も撮れるが
当時は先生方しかカメラを持っていなかった。
先生方がせっせと思い出作りに
写真を撮ってくれたということだ。
朝の食事の風景は
私がそこに写っていなくても
お姉さんたちが先生たちと談笑しながら食べているのも所有している。
病院敷地内の池の前でお姉さんが写っているのもある。
それらがあるおかげで
私の当時の思い出をなぞることができる。

クリスマス会での
ヒョロヒョロした私の姿。
痩せていた。
でも心は健康だった。
まだまだ
汚染されない、純白に近い心だった。

何かの会で
大人の病棟の人たちがこちらに来て
集会所のステージにて
くだけた日本舞踊を踊ったおばさんがいた。
中年のおじさん、おばさんが楽しみにしていたステージ。
あの踊りしか記憶にないのだが
おばさんが皆に投げキッスをしていて
野太い大人の声援が新鮮だった。
大人ってこういう感じなんだ、と眺めていた。


記憶は断片である。
記憶の先にストーリーはない。
オチもない。
場面が鮮やかに残っているだけで
小説なら、うまく脚色したいところだが
思い出語りなので
唐突に切れる。

ある日
生母がこの病院に見舞いに来るかもしれないということで
私は生母にピアノを披露したいと思った。
ピアノなどはそれまで見たことも弾いたこともないが
集会所のピアノは自由に使えたので
寝る前の自由時間に練習した。
そこでは低学年組がよく遊んでいた。
男の子はチャンバラのような遊びや
女の子はギャアギャア騒いだりしていた。

お姉さんたちはその時刻は
恋の相手と語らったりする貴重な時間だ。
いっしょにテレビを観たり
廊下で話したり。
それらをたびたび見ていた。
あ、この人とこの人は恋をしているんだな、と
7歳なりにわかったものだ。
私の憧れのお姉さんとお兄さんのカップルもあった。
二人とも聡明な感じで、よかったなあ。
今にして思えば
彼らなりの悩みを抱えていたのだなあ。
遠い所から来ていたのかもしれない。
いつかは退院という形で別れてしまうかもしれない。
切ない恋だったのかもしれない。
そう想像すると
つくづく自分は7歳でよかったと思う。

ピアノの練習のところに
先生がやってきた。
事情を知っている先生は一生懸命教えてくれた。
そのうち
先生がピアノを弾き出した。
そこに走り回って遊んでいた男の子も女の子も集まり
先生のピアノに合わせて歌いだした。
私のピアノの練習はグダグダのうちにストップした。
自分もいっしょになって先生のピアノに合わせて歌った。
そして
生母が来ないとわかって
練習はしなくなった。
それでも楽しき思い出である。




コメント (3)
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(2/9)懐かしき札幌時代③お姉さんたちの優しさ

2010年02月09日 21時31分45秒 | 思い出を紐解く
あっという間の休日である。
今日は
夫と焼肉を食べに行った。
久しぶりに外で焼肉。
夫も満足して明日からの仕事のスタミナを補給していた。

今日は最高気温が13℃ということで
暖かい日なのだが
雲が一面に黒くあったので
それほど暖かみを感じなかった。
午後の休息は疲れをほぐし
夜のこの時間はゆったりとネットを楽しもうと思う。
夫は8時半に就寝した。


思い出を紐解く

入院生活が退屈ではなく、一日も早く退院したいと思わせなかったのは
やはり
授業があったからだと思う。
授業は苦痛ではない。
高学年になってくると苦痛も出てくるだろうが
1年生の私たちは授業を楽しんだと思う。
そして
昼食が終わると、「安静の時間」がある。
この安静の時間がゆったり感をもたらしている。
何時間か忘れたが
1時間とか2時間くらいだったと思う。
ただベッドに横たわるのだ。
眠ってもいい。
本を読んでもいい。
トランジスタラジオをイヤホンで聴いてもいい。
とにかく数時間
一斉に、おしゃべりを禁止して
横たわる。
この午後の安静時間が心地よい。
7歳は単純だから、きっと眠ったことであろう。
お姉さんたちは
本を読んだり、瞑想をしていただろう。
そうだ。
クラッシックがよく流れた。
その時間帯だと思うが、クラッシック音楽が流れて
7歳にしてそれらの曲を覚えた。
NHKの「みんなの歌」も流れた。

当時の娯楽といえば
漫画の本とトランジスタラジオ。
漫画の本は回し読み。
長い間ベッド生活をしていると
そのベッドのマットレスの真ん中はへこんでいく。
お姉さんたちは読み終わった本をそのへこみの所に挟んでいく。
そしてそれを私たちが借りて、古い漫画を読んでいくんだ。
トランジスタラジオは
年頃の人たちに流行っていた。
今なら、アイポッドとか?新しい名称もよくわからないが。

もちろん私たちにはそんなものはない。
だからよくお姉さんたちから借りて
当時の音楽を聴いていた。
そう。
私の音楽好きの原点はここなのである。
私はこれを書きたかった。
7歳で、ポップスの曲に目覚めた。
自由時間は、7歳3人組はベッドでお姉さんたちと
踊った。
踊りを教えてもらった。
当時の流行の踊りを。
私の踊り好きもここが発祥。

テレビは別な部屋(集会所ではなかった)にあり
そこに年頃の人たちがよく集まって
音楽番組を観ていた。
お姉さんもお兄さんも、中学生が中心だったと思う。
そこに
どうしても音楽番組が観たくて、7歳の私は
場違いのようにいつもいっしょにいた。

トイレは昔のトイレなので
はずれのほうに
薄暗く、共同便所としてあった。
怖かった。
昔のトイレはどうして怖いのだろう。
特に、汲み取り式の共同便所は一段と怖い。
とてもとても一人では行けない。
先生方のトイレは和式の水洗で、
7歳3人組は好奇心でよくそのトイレを見に行った。
便槽のない、底の見えない、白い陶器の水洗トイレを
一度でいいから使いたかった。

何でも面白かった7歳。
養子縁組をしたことなんか忘れていた。
そこの入院生活が当たり前のようにしてあった。
母を恋うとか
外の生活を想像してみるとかなかった。
お姉さんやお兄さんたちがいて
先生方や看護婦さんたちがいて
皆彼らは普通に優しかった。
決して職業としての優しさではなかった。
それは後から感じたことだ。
そのときは優しい人だ、などと
感慨深く思っていなかった。
それらも普通に、当たり前にあった。

が、こうして何十年も経って
その間に
たくさんの人に出会って
はるか昔の
彼らの普通の優しさを改めて感じた。
なぜ彼らは優しかったのだろう。
もちろん
7歳の狭い視野だったから
見当違いかもしれない。
しかし
私の所有している当時の写真を見ると
笑顔、笑顔の自分、彼らがいるのである。
坂本九さんのリサイタルの時の写真に
中学生のお兄さん、お姉さんに挟まって座って
拍手している私がいるのである。
彼らは
年下の人たちの面倒をよく見ていた。
先生に頼まれたわけでもなく
生活をともにしているから
自覚的に
自発的に私たちの面倒を見ていたのである。

当時の娯楽の1つに
映画鑑賞があった。
そんなにしょっちゅうあったわけでない。
覚えているのは2つだ。
1つは
場面にキスシーンがあるから
小学生の人たちは観てはだめだとか
先生たちが言ったのだが
高学年の人が交渉して皆が観ることができた。
当時は
キスシーンなんて子供に見せられないものだと
大人たちは思っていた。

もう1つは
「路傍の石」だ。
貧しい少年が、奉公先で名前を変えられて
そこのお嬢さんに虐げられる場面があった。
私はそれで大泣きした。
こんな不当な扱い(当時はそんな言葉は知らなかったが、そんな気持ちだった)
があっていいのか、可哀想だ、とワンワン泣いた。
映画が終わっても泣いているので
お姉さんたちが私を洗面所に連れていって
「トモロッシちゃん、これは映画なんだから。」と
何人かで慰めてくれた。
う~ん、いい思い出だ。
これも書きたかった。
お姉さんたちの優しさだった。

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