僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(12/31)今年もありがとう

2012年12月31日 23時34分18秒 | 両親のこと、入院のこと
今の時刻起きています。
仕事のためにいつもなら眠っている時刻。
8時ごろにソファにごろ寝。
美輪明宏の歌になったら起こしてくれ、と言って寝ていた。
その時刻に起こされ
その間、誰一人として歌の記憶がないほど眠っていた。
次は石川さゆりの歌待機。
天城越えを歌うから、楽しみ。
これを観なかったら、また2年ほど見られなくなる。
眠いけれど頑張って起きていよう。
正月1日から仕事が始まる、あと数時間後。


今日は
職場の同僚に
この2ヶ月間の私への配慮と協力への御礼の品を渡す。
彼女たちには本当に感謝している。
年の最後にこうして
心をこめて挨拶できたことは自分自身嬉しい。
思えば
夏の終わりに
この職場を辞めよう、と決めた日に
彼女たちの強い慰留の言葉を受けて
その日以来
私は
チェンジできたと思っている。
そして
予期しなかった両親の入院の件、相続放棄の件で
ずいぶん
彼女たちに激励され、グチを聞いてもらい
アドバイスもいただいた。

素直な気持ちで
彼女たちへの感謝の表意である。



今日も
自分の実家に
おせちと寿司を届けに行った。
30分ほどの滞在。
初めからそのつもりでいた。
長い滞在は無用。
仕事を終えて息つく暇もなく
料理をして
それを届ける。
母の体力が心配なので
なるべく彼女が困らないように
少し手伝って
実家を後にする。
帰宅して
義母と3人で
年越し蕎麦を食べる。




年の最後
疲れて終わりだった。
明日も疲れるけれど
仕事から帰ったら
ぐっすり寝よう。
夜、相棒があるからね。


今年の感動は
なんと
職場の仲間である。
皮肉なものである。
あれほど
彼女たちとは合わない、と思って
選択した辞職。
しかしそれを撤回させたのも彼女たち。
いろいろと毎日あるけれど
いつのまにか
彼女たちとの仕事、会話が生活の一部になっていた。
彼女たちに感謝だ。
私より年下なのに
私は教えられたことがたくさんあった。

そして
佐藤健君の「るろうに剣心」
DVDはとっくに届いている。
忙しくてまだひもといていないんだ。
ポスターもそのまま。パネルにして飾ろうと思っている。
それを披露できるのはもうすぐ。
そういうものに手をつけるということは
心の余裕ができたという証拠。
まもなくです。パネルを買ってこなくちゃ。

ではでは
今年もこのブログを読んでいただいてありがとうございます。
後半は、急いだ感は否めないね。
なかなか成長できない私だけれど
来年もお付き合いください。
よいお年を。
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(12/30)雨の中、墓参

2012年12月30日 21時47分27秒 | 両親のこと、入院のこと
9時を過ぎてしまった。
ようやく、落ち着いてブログを書こうかと思っても
あと30分ほどで寝なくてはならない。
彼らが退院しても
諸々のことに追われる毎日。

一昨日の夜
夫とともに私の実家に行った。
その日は
2人の退院日。
父と母は別々の病院に入院、手術、何日ぶりで
2人は顔を合わしただろうか。
時折、私はそれぞれの入院生活の様子をカメラに収めて
互いに見せ合わした。
携帯での会話も取り持った。

その夜
実印を持って(それを持ってくるように言われた)いく。

父の字で


念書 の内容(遺産相続放棄云々)

私の住所(これは私の字で)
私の名前(これも)  実印

父の名
母の名 宛

つまりは
父の遺産相続放棄だけではなく
母のもである。



なんとも
空しい。

一方的に宣言され
退院したその日に
実印を押され
名前を書かされるなんて。

そんな親子関係。
養子縁組をしたのは6歳。
そしてこれまでの彼らとの繋がりの最後は
こんな結果。
どうして
平静にしていられようか。
母とのつながりも絶たれた思いである。
それを
軽く扱う彼ら。
おそらく
おそらく
私は
彼らの葬式に出ないであろう。
(むろん、これは確定ではないが。今の気持ちである。)

父は
おそらく
自分の葬式の内容についても
考えている人だ。
誰に葬儀委員長をやってもらうとか
誰に弔辞を読んでもらうとか
そして
誰が喪主(妻であるが、母は理路整然と話せる状態ではない)にするかも。
当然
母の代わりに、一人娘の私が代わって挨拶、となるはずだが
父は
又甥にさせるだろう。
そんな葬儀に
私や夫が出られるだろうか。
どれほど
屈辱を味わわせるのだ、という気持ちだ。



昨日も
明日も呼び出しがかかっている。
あれをやってくれ、これをやってくれ、である。
又甥夫婦に頼めよ、と言いたいが
母の姿がかわいそうなので
そこが私のネックだ。
もっともっと
自分自身が冷めた気持ちになりたい。

同僚に話せば
もう、毅然として断れ、と言われている。




そんな
日々です。


そして今日は
仕事を終えたあと
雨の中
舅(しゅうと)の墓参り。

先月末の予定(命日)だったが
あの通り
私の両親の入院のことがあったので
姑に
年内には必ず墓参に行くからねと
延期していた。
今日しかないと思い
夫と姑と3人で出かける。

誰もいない
枯野の墓参。
雨も寂しい。

義父に手を合わせ
「お義母さん、夫、私を守ってください。私は負けません。」と
心の中で言う。

義父は
現金こそ残しはしなかったが
今住んでいる土地(家は私たち夫婦が二世帯として建てた)と
別な土地(これは相続後、売却した)を残してくれた。
夫も一人っ子。
何も何もお金について、遺産について揉めなかった。
それだけでもありがたい、と今つくづく思う。
それが当たり前だと思っていたから。

そして
一人っ子のこの私にも
いずれ遺産相続のことが振りかかっても
揉める要素はないと思っていた。
しかし
結果はこの通り。
父の分、母の分も放棄しろ、である。
それらはどこに行くのか。




もう
書かないか・・・
父のことを書くだけ、むなしさや悔しさが出てくるしね。

かと言って
これからも
関わるたびに
いやな思いをして
それを封じ込めて
明るくブログを書く、なんていうのも
できないかもね。


でも
明日は
今年を振り返って
今年感動したことを書いていこうと思う。

ではおやすみなさい。
あ、そうそう、今夜の雨で
うちのカエルが出てくるのではないかと
巣穴を見てみたんですよ。

ぎっしり詰まって
一番上のカエルの目が開いていました。
ひっさしぶりに
カエルを見た。
冬眠中、ライトを照らしてごめんなさい。


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(12/28)今日両親退院。

2012年12月28日 10時07分59秒 | 両親のこと、入院のこと
慌しいね。
それなのに、ブログブレイク。

今日は28日。
あと3日ほどで今年が終わる。
なんと、慌しい年の瀬。
今日、有休を取った。
これまでの公休は使い切ったのと、それらが
両親の手術日とか病院の通いに使われたので
自分の休みらしい休みがなかった。
自分の休みを取っても、のんびりなんてできなかったね。

両親、今日退院です。
父が午前中、母が午後。
母の退院の早いのが気になる(母も昨日知って、びっくりしていた)。
しかし
担当医は、今週末には退院してよい、と言ったので
今日退院することに父と決定。(父と、というより、父が決定)
自宅に戻れば
どうしても母の体力的な不安が残るが
父は全て自分が基準なため
母の気持ちを考えず、今週末可能なら、いっしょに退院だ、と決定。
母は年明けのつもりでいたのだが
父の言うことを聞く、という姿勢になったため(脳梗塞以来)
それに従うしかないわけだ。

そういう小さなことにも
私はいちいち意見したいが
聞く耳持たない父とは
もう摩擦は避けよう、と思っている。


昨日
母に
私が遺産相続放棄を父から言われたことを話した。
話した結果
話しても無駄だった、と気づいた。
父の考えに従うしかない、と思っている母には
もう
昔のように
自分の意見や考えを父に言う、ということはできなくなっている。
頭が正常なら
え?!と驚くに違いない。

そして出てきた言葉は
夫への
「○○さんは、うちに来てもしゃべらないし、社交的じゃないからね。」だった。
それは父がいつも母や父の友人、又甥にグチのように言っている言葉だ。
それを母も、その通り、と思って言っていた。

夫は
父に関わりたくない、という本音がある。
数年前の出来事や
これまでの結婚生活での父たちの言動に立腹しているのが積もっている。
だが
表立って父と衝突するわけではない。
彼もずいぶん
父の言うことに我慢していただろう。
だから
付き合いは最低限、のつもりでいたのだろう。


一昨日
こんなことがあった。

父の病院で
担当医と最後の話をした。
そのあとに
父が
両親の入院手術に私が頑張ってくれたということで
御礼のお金をよこした。
その名目は
「これは○○さん(夫)に渡してください。トモロッシはあくまでもS家の人間
(嫁ぎ先)なので、○○さんからトモロッシを借りて手伝ってもらったのだから
○○さんに迷惑をかけたので、このお金は○○さんに渡してください。」ということだった。
これだけでも面倒くさい話なんですよ。
自分の娘が嫁いでも、娘は娘、ましてや一人娘だから
私があれこれやるのは自然のこと。
しかし父は
あくまでもそういう名目をつけたがる。

私は
「トモロッシちゃん、ありがとうね。また何かあったらよろしくね。」で
よかった。
そうはいかないのが父。
聞きようによっては
なんて立派な父親、と思う方もいらっしゃるでしょう。
いやいや、そうじゃない。

さて、それを夫に
「だから、父に御礼の電話をしてね。あなたから電話をしないと
父はまた目をむき出して、{常識の知らない人間だ!}と怒鳴るから。」と
言った。

夫はそれこそ
目をまん丸にして、怒り出した。
そんな心にもないことを言えない、と言った。
心にないことを言え、と言っても言えない、言わない、というのが
また頑固な夫の考えだった。

遺産相続放棄の件も
夫は
関わりたくないから、それを受け入れるという考えだし

俺が
お金をもらう御礼を言うのはおかしい。
そんな名目なら
俺に直接、そのセリフ、トモロッシを貸してくれてありがとう、と先に言うべきだ。
それを言ってお金をもらって、俺が御礼を言うならまだしも
おかしいだろう、と言う。

確かにそうだけれど
もうもらって来たから
言ってください、また揉めるのもいやでしょ、と言う。

夫は
じゃ、御礼のセリフを書け、と言う。
俺は心に無いことを言えない。

じゃ、書きます。
「退院おめでとうございます。
お金、ありがとうございます。トモロッシが頑張ってくれたので、このお金は
トモロッシに差し上げますので。」
と私はメモする。

そして
私の携帯からまず私が電話。
「お父さん、さっきはありがとうね。今、○○さんに替わるから。」と
明るく言う。

明るく
「退院おめでとうございます。思ったより早く退院できてよかったですね。以下メモ~」
夫、メモに書いていないことを付け加えて言う。
上出来。
これで父も機嫌良くなるでしょう。

もう疲れた疲れた。
こんなことで
いつもこうして揉めている。




さて
今日、両親退院で
私がさぞ大変だろうと思うかもしれないが
実は
その退院に立ち会わない。
他の方が立ち会ってくれるのと
母のは
父が立ち会って、入院費を払うことになっているので
私は行かないことになった。

しかし
夜、実家に
夫とともに来い、と言われている。
明日早朝仕事があるので
長い滞在ができないが行かねばならない。
おそらく
遺産相続放棄の件を
正式に
夫のいるところで言われるのだろう。
いろいろまた
自分のM家、こちらのS家がどうのこうのと理屈を述べて。

私たちは
それに従うことにしている。
疑問のはさむ余地はない。
それだけ揉める時間が長いだけ。
夫は
私が可哀相だ、実家が無くなる(実家は又甥のものになる)ことが可哀相だ、と
思ってはいるが
縁が薄れる方が私のため、と思ってくれる。

思えば
結婚当初のときも揉めたね。
結婚式前夜
揉めて泣きはらしたね。
結婚して
私は
M家(実家)から解放された気分だった。
だから
それが原点だ。
その思いに立つ。
忘れてはならない。





正月休みなし。
三が日は
Iさんが独占。
Eさんも私も年末年始、働いていますよ。
駅伝も観られないし、紅白も観られない。
相棒は観たい。
正月らしい気分なしの年明けです。



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(12/26)両親退院することになった。

2012年12月26日 21時24分26秒 | 両親のこと、入院のこと
今日は一番の冷え込み。
風が強く、吹き飛ばされそうになりながら
ツルツルになった道路を自転車で走る早朝。

とにかく忙しい。
自分の時間がない。
仕事も忙しくて
休憩もできずに、昼食も食べずに働く。
そして、そのあとぐったりしたいのだが
病院に行く。

父、母の双方の担当医師と話をする。
2人とも
明後日には退院することになった。
母の様子から、退院は早いのではと思ったが
今の時代は、退院をできるだけ早めるんだね。
年末ということもあるので
切った以上は、もう終わり、という感じ。

両親は2人とも
ステージⅢAだった。
抗がん剤は使わない方向。
あとは経過を観察するだけ。
それでよい、と思った。
抗がん剤の副作用についてよく目に、耳にするが
年老いた2人は
抗がん剤は使わない、ということにした。

父に会えば
屁理屈、形式にこだわる人なので
はいはい、と私は抵抗もせずに返事をして
その場を早く切り上げる。
ここに全てを書けばいいのだが
それさえ
面倒になる。

母は
以前の正常なときの厳しさとかヒステリックな状態は軽減され
哀れな部分を垣間見る。
唯一、彼女と血のつながりがあるだけでも
よかったと思っている。

遺産相続放棄の件、
私の中でほぼ受け入れている。
一番は法定相続がよいかと思ったが
父と縁を切れるという(いや、切れるかどうかは定かではないか)のが
ある意味、ホッとするのかもしれないね。
あの口調、あの思考、あの押し付け、
解放されることのほうが大きい。
それも導きだと思えば、受け入れられるだろうに。
自然なこと、と受け止めよう。
与えられたものと受け止めよう。
もう
父とはなるべく揉めたくない。

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(12/23)夜、雪が降り、道路が白くなっている

2012年12月23日 21時45分59秒 | 両親のこと、入院のこと
2日間、病院に行かない予定が
3日間になってしまった。
昨日は行く予定にしていたが
身体がつらくて重くて、結局行かなかった。
今日こそ、と思って
仕事から帰宅するや否や
父から電話があった。
「母さん(父は自分の妻のことをそう呼ぶ)の病院から(自分の携帯へ)電話があって
{トモロッシが来ない、トモロッシが来ない、と言って泣いているそうだ。今日は行けるか?」
とのことだった。
すぐに病院に向かった。
何かあれば、病院から私に直接電話が来ることになっているが(実際今までそうだった)
今回は父に電話が行ったそうだ。

母は私の顔を見るなり
「トモロッシちゃん、来ないから、何か事件でもあったのではないかと心配していたよ。
お父さんとまた喧嘩でもしたのではないかと思ったよ。3日間、来なかったよね。」
と言った。
その数字は正確だった。
「何もないよ。私の電池が切れたの。」と答える。
途中、父の友人夫婦が見舞いに来て、お話。2度目の見舞いらしい。
母が、お腹の違和感を訴えるので、(今日は医師は休み)看護師に腹を見せて
異状を伝え、医師にも伝えるとのこと。
25日の夕刻、医師から私に話しがあるということで、その時刻も拘束される。
あと少しだ、トモロッシ。

「お父さんの腹帯の洗濯を頼まれたのだが、ウン○がついていて、それだけ
漂白剤につけて、手洗い。なんで、腹帯に付くのかなと思いつつ。
そしたらなんとな~くうす~く黄ばんでさ・・・色が落ちないのよ。
いや、ウン○は別に気にしていないのよ、ネコたちのも平気で処理するからね。
色が却って、黄ばんで、どうしよう・・と思ってさ・・・」と言うと
母はまた苦しそうに、笑っていた。思い切り、笑いたいそうだ。

明日は
義母と夫と行く。
これがちょっと悩みね。
父、余計なことを言うなよ、という気持ち。
あのこと(遺産相続放棄の件)はまだ話していないからね。
父は
相手の気持ちを考えることなく、自分が正しい、という考えで
話すからね。
自画自賛
我田引水
の人です。

さあ、寝ましょう。
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(12/22)再び去っていく人々

2012年12月22日 20時35分07秒 | 東日本大震災
あと10日ほどで
今年も終わる。
先日、震災関係の仕事で再来仙した方(長崎の方)が
慌しく今日故郷に帰っていった。
また来るかもしれない、という言葉を残して。
長崎3人組が突如現れて、突如去っていく。
あまり会話ができなかったが
(4ヶ月弱の不在がウソのように、まるで仙台でずっとこれからも働いていくかのような
再会だった)、これからもまた会えるような気がしてならない。

今日から3日間ほとんどの人たちは休みである。これを機に、仙台を離れて
自分の故郷に戻っていく人たちが多い。
更に、年末は仕事の区切りで帰っていく人もいるだろう。
年明け7日前後に、再び姿を現すだろうか。


疲れすぎて
夕寝をしようと思っても寝付けない。
今日は寒い1日で、肩が冷える。
早めに寝ようと思う。

こんな記録ですみません。
頭が働かない。
昨日は、死にそうな気分だったのに、今日立ち直れたので
その気持ちも省略。

こんな優柔不断な自分とお別れしたい。
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(12/20)久々に家にいる。

2012年12月20日 20時55分54秒 | 東日本大震災
久しぶりの休日が
それほど充実することなく終わる。
今頃
冬支度。
奥の部屋にいるミミたちのコタツをセットした。
ストーブは前から点けているが
コタツのほうが夜中はその中で寝るので
ようやくセットしてやった。
タイマーは5時間、3時間の選択。
ミミとナナは喜んでコタツに入る。



先日
実家に泊まったとき
周辺の町並みを早朝に散歩した。
家にて
一服できない自分は携帯灰皿を持って
田園の道を歩いて空の風景を写す。
この辺は
震災の津波は来なかったが
1キロ先は影響があって、近くの道路は封鎖されていたっけ。




今、仙台は光のページェントという冬のイベント真っ盛りである。
まもなく来る
クリスマスが人出のピークだろう。
あまり関心なかったそれだが
街の中で働いている自分はもっともっと
これらを積極的に楽しむべきだと思った。
そういえば
仙台に
アンパンマンのミュージアムがあるのをご存知ですか。
私はつい最近知ったばかり。
しかも
家から自転車で10分も掛からないところにある。
ここもクリスマスはにぎやかになりそうだ。

仙台は
イベントの多い街。
先の日曜日も
実業団の女子駅伝があったばかり。
仙台を訪れる方々の多いこと。


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(12/18)身体が冷え切った日

2012年12月18日 21時59分29秒 | 両親のこと、入院のこと
もう寝なくては、と思いつつも
まだ起きている。
明日仕事を終えて、両親の病院に行かないと思ったら
気が楽になった。
今日も
仕事を終えて
寒い中、2つの病院へ。

母は昨日より
声のハリがあって、元気になっていた。

看護師が
「おつうじはありましたか?」と尋ねると
「おつうじ?」と、何のことかわからないらしい。
もちろん
頭の正常だったときはわかるのだが
今は
すぐにわからなかったようだ。
私は
「そういえば、お父さんに{便は出たの?}と聞いたときに
{便は出ないけれど、屁(へ)は出た。}と言われて
私は屁という言葉がおかしくておかしくて笑ってしまったよ。」と
言った。
屁、という今じゃあまり言わない(こういうとき、ガスとかおならとか
言うよね)言葉の響きがおかしくって、と笑いながら母に言うと
母は
同じく、屁という笑いのツボに嵌って、お腹痛いと言いつつ
苦しみ笑っていた。看護師も笑っていた。
一人で起き上がれるようになったし、明日は行かなくて済みそうだ。

寒い寒い風の夕刻
今度は父のところに。
父は点滴がはずれ、食事も準備されていたが
食欲がないらしい。
痩せた痩せた、と言うが
あれだけ脂肪を取っても、まだまだ腹の肉は分厚い。
父にも
明日は来ないよ、と言って洗濯物を預かる。


父は先日
早くも、退院(快気)祝いに
仙台近郊の温泉に行くからおまえたちも来るように、と計画を練っているようだ。
私は行かないよ。
どうせ、M家の人たち中心でしょ、私は行かない。
今は
最後の親孝行のつもりで
2人の病院に毎日のように通っているけれど
父たちが家に戻ったら
また
疎遠になっていくのだろう、と思っている。
今は
唯一の家族として
2人のところに通うのが当たり前としてやっている。
父たちが
元気になれば
また私は不要の人間になるだろう。

ああ
ゆっくり
ブログを書きたい。
明日か明後日
長々と
とりとめないことを書けるだろうか。

鳩、今日も来た。
また、ずっと頭を突いていた。
これからもっともっと寒くなるのに
卵、育つのか?
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(12/17)鳩、卵関係?

2012年12月17日 21時18分30秒 | 両親のこと、入院のこと
眠いのに
少々無理して起きている。
昨日の今頃は寝ていた。
夜、ゴハンを食べてから眠くて眠くて
9時前に寝る。
おかげで
3時、スッキリ目が覚める。

鳩が3日連続して
あの巣に2羽来ている。
あのときの親なのか、子ども世代なのかわからないが
片方が、片方の頭をずっと20分ぐらい突いている。
いじめかな、と思ったが
そうでもない。
Eさんに
「卵関係?」と聞くと
そうかもね、との返事。
なにしろ、鳩の習性、全くわからない私なので
いちいち、彼らの動作が気になってしかたない。
またあそこで子育てされたら
私の心配の種が増える。
夏の一連のできごとを知っている方なら
私の気持ちも分かっていただけよう。
あの人通りの多いところで
子育てをして、小鳩が無事巣立っていく過程で
アクシデントがあるのはもう御免だ、という気持ち。
気にしながら、仕事をしている。
明日もいるんだろうなあ。



母は
今日
ICUから出て、一般の部屋に移った。
父も母も個室で過ごしている。
母は、ナース室に一番近い部屋に移動ということで
4人部屋にいたが、近いうちにまた引越しだ。

腹に力が入らないせいか
声が弱弱しい。
父もそうだった。
手術前は
元気な声だったが
さすがに
絶食、腹にメス、という状況で
いつもの声量で話せない。
耳の聞こえづらい私は、口元に耳を寄せて聞く。


あと2日仕事をすれば
休みになる。
その日は完全休養にしようと思っている。
それまで頑張れ。

12月も半ば。
あと半月で今年が終わるなんて。
師走感のないここ毎日。
自分の今年の総括もしなくてはね。
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(12/15)鳩がやって来た

2012年12月15日 20時45分50秒 | 両親のこと、入院のこと
鳩が数ヶ月ぶりに
あの巣に姿を見せた。
朝、ほんの少し姿を見せ
お昼ごろには
巣に座っていた。

ブログにずっと鳩の記入がなかったのは
それだけ
ずっと姿を見せていなかったということ。
クリスマスの飾りを先月から飾り付けているし
そのためのコードがたくさん張り巡らされているので
鳩も飛んでくるのが困難なのでは、と思っていたし
別な塒を見つけてそこで暮らしているのだろうと
思っていたのだが
なんと今日、戻ってきたのだ。

そして
不思議なことに
長崎の方(白石ウーメン)も
仙台にまたやってきた。

今日、ひょっこり姿を現した。
2日前から来仙していたとのこと。
私はちょうど2日間休んだので
その時に来たようだ。

鳩とともにやって来た。
なんとも不思議な気分。
夏の終わりのお別れが飛んでいく。
もしも
私、あのあとに仕事をやめていたら・・・・
それにしても
まだまだこの震災復興の仕事
終わっていないんだなあ。



母は無事だった。
その言葉がふさわしいほどに
昨日の夜の姿は、どうにかなってしまうのではないかと
思った。

痛そうだったが
ともかく無事な姿を見て
安心した。

例の
又甥とその母親、父の姉も来た。
何年ぶりに会うだろうか。
久しぶりなのに
久しぶりではない口調で話すということが
私にとってよかった。

一度家に戻って
父の洗濯物を持って
父の病院へ。

父も痛そうだ。
話す声が弱いけれど
いっぱい話したそうだった。
今度いつ来るの?と聞かれる。
明日は母のところに行って帰宅するだけ。
ちょっと疲れているね、私。
昨日の疲れが出てきている。
それに明日は
仕事が超多忙の日。
頑張らねば。
IさんやEさんに負担をかけている分、
明日は頑張らねば。
彼女たちにケーキ買ったんだ。
あまんざ(仙台の老舗のケーキ屋)のケーキ。

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(12/14)母の手術は終わったが・・・

2012年12月14日 21時38分45秒 | 両親のこと、入院のこと
母の手術終わる。
帰宅したのは8時40分。
9時過ぎには明日の仕事のために寝なくてはならない。

術後の容態があまりよくない。
ICUに入ってからかなり待たされての面会だった。
母の手術が最後だったので
私一人でポツンと待っていた。
ようやく
面会が許されて、ICUに入ったとたん
うめき声ともつかず、叫び声ともつかない苦悶の声が
響き渡っていた。
そのために面会が延びたようだ。
痛みのせいで
暴れて(意識はない?)、手は拘束ミットをつけていた。
痛みの苦しさは、母にしかわからない。
担当の医師二人はまだ残っていた。

このような苦しい様子は他の患者にもあるのか、と私は聞いた。
皆が皆、そうではないが、まれにある、との回答。

父の予後が順調だったのを見てきただけに
対照的な母の姿はあまりに可哀相だった。

万が一のことに備えて
いつでも対応できるようにしておく、と伝えた。
どうか今夜でこの苦しみの山を越えてほしい。

明日、落ち着いてブログを書こう。
とにかく
私自身も身体を休めなくては。
夕食、ハンバーガー一個。
コンビニの弁当も買ったが
食べず仕舞い。
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(12/13)母は明日手術。

2012年12月13日 21時34分21秒 | 両親のこと、入院のこと
母の病院へ。
その前に病院から電話があった。
母の腹の2箇所の傷痕の内訳である。
盲腸(腹膜炎寸前)と婦人科系のと。
病院にて、母にその傷は何の手術痕かと聞いたら
「大腸を切った」と答えられたとのこと。
医者が混乱するね、これでは。

私が病院に行って
再度、その手術痕について説明。

病院では
何人もの看護師が入れ替わり来て、誰が何をしていったか
私さえ混乱する。
母もなんの検査なのかわからずに、何度も病室から消えていく。
急遽、血栓のための検査もあったし。

母は
S状結腸癌だった。
進行ガン。
合併症の方が心配だ、と医師。
それと
人工肛門の可能性あり。
そのマーキングもしていた。

家に着いたのが7時半。
食事の前に
父に電話。
医者の話を全部は伝え切れなかったが
明日の手術のことと
今後、人工肛門の可能性、合併症の心配等伝える。
母の前では電話できなかった。


ちょっと
自分自身が疲れているので
事実の列挙のみ。


MTVで
アメリカハリケーンチャリティ「12・12・12」が流れている。
夫が楽しみにしていて
食事を早々切り上げて観ている。
さっき
ロジャーウォーターズが出て
あの名曲
「ウォール」の曲を。
あれは名曲だ。
以前、このブログでも取り上げている。

これからストーンズがいつ出るのか(夜中1時半までの放映)
待っているのだが
私は眠るよ、疲れている。
明日も、母の手術の付き添いだ。

ああ
夫とこうして
ロックを楽しむのが私たちの生活なのに
なんだか
現実の問題がどんと目の前にあって
別の世界にあるようだ、今。
頑張れよ、トモロッシ。
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(12/12)久しぶりに夕刻、家にいる

2012年12月12日 22時56分35秒 | 両親のこと、入院のこと
今日は
両親の病院に行かないことにしていた。

久しぶりの
通常の生活である。

2時前に帰宅して
少し寛いで
眠った。

昨日も今日も
身体がふらつくような感覚があった。
そして
足が痛かった。

自分の身体も大事にしていなければ
両親が退院するまで
持たないような気がした。

一昨日
父の手術の付き添い。
父は
当日の付き添いは
又甥の母親(父にとって、甥の嫁。私の母と仲が良い)と、父の姉(80代)に
頼んでいたようだ。
わざわざ、県北から呼び寄せての付き添いである。
それほどまでして
私に付き添いをさせたくなかったのだろうか。
そんなこととは露知らず、
私は手術日を知った時点で
自分の仕事の休みの交替を頼んでおいた。

身内に娘一人しかいないわけで
自分としては当然だと思っていた。
が、あとから
M家の人たちにそれを頼んでいたと知り、
それはそれで父の希望だから
彼女たちは引き受けるだろうが
彼女たちの気持ちとして
「なぜ、娘のトモロッシさんが付き添わないのかしら?」となるはずだ。

結局、私1人が付き添うことになった。

手術は無事終わり
順調だった。

執刀医から
父の切除した臓物、ガンを見せられた。
脂肪たっぷりで、なかなか腸を探せなかったとのこと。
それらを見て
気持ちが悪いという気分にならなかった。
その辺のスーパーに売っている
鶏の臓物のように思えた。

麻酔から覚めても朦朧としている父に
翌日に読めるように
メモを置いておく。
執刀医からの説明、その他。

こうして1つの山を越えた。

昨日も2つの病院。
移動がつらい。
身体が冷え込む。
足の爪が食い込む。

母の入院先の先生と少し話す。
執刀医ではないが
循環器内科の方。
直接担当しないからだと思うが
心許ない説明だった。
明日
執刀医から手術治療の説明がある。

そして
明後日
母の手術である。

それを越えれば
2人とも
リハビリを次の日から始める。
父は今日やっていたことだろう。



そんなわけで
今日は自分の身体を休める日。
そして
「相棒」を久しぶりに観た日。
夜の食事を久しぶりに家で食べた日。
昨日までは
外食だったり、夫にも外食させたりの日。
疲れたなあ。
これまでの日々。
いろんなこと、考えたなあ。
職場でもずっとこびりついているもの。
疲れて寝ていても
頭は寝ていないような。

あれほど
やめたいと思っていた職場が
逆に
いつもの雰囲気、空気であることに
感謝していた。


その職場であるが
今日
夏に去っていった長崎の方が
突然
現れた。
先日メールを送ってくれた方と同種の仕事の方。
驚いた。
もしかしたら
二度と会えぬかもしれぬ、というお別れを夏にしたのに
ほら
こうして
生きているからこそ
再会できる。
まだまだ震災の後始末がある、ということだ。
愛媛松山から来ている方(ずっと滞在)とお話していた。
今年も終わるのに
いつまで滞在するかわからないが
2,3日という予定ではないらしい。



うちの猫
誰かが血便。
誰なのかわからず。
皆、元気。
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(12/10)雪が積もった

2012年12月10日 09時55分46秒 | 両親のこと、入院のこと
昨日は雪になった。
早朝の自転車は危ない。
寒さをあまり感じない私だが
さすがに、手指の冷たさを感じての出勤。

仕事中、笑顔をふりまきながらも
胸中、いろいろともやもやする。
落ち着け、トモロッシ、と言い聞かせる。

昨日
メールが届いていた。
気づくのが遅れる。

夏に
震災関係の仕事を終えて
北海道に旅行してから
地元長崎に戻っていった方からだ。
北海道の旅のあと、地元に戻ったものだと
思っていたら
そのあと、沖縄に仕事でしばらく滞在していたとのこと。
そして
久しぶりに長崎に戻って
荷物をひもといてみると
私からのお土産が出てきたとのこと。
よかった、腐敗するものをおみやげにしなくて。
とてもおいしい白石ウーメンを持たせたんだ。

今でも
震災関係の仕事で仙台に残っている方々がいる。
人数は少なくなったが
まだまだ処理が残っているようだ。
また、新たに登場する方もいる。
2度目の冬を迎えている。
昨日の雪、一昨日の大きな地震
大変だろうが
皆、頑張っている。

私も
心から笑顔で挨拶をすることを忘れないようにしよう。


さて、両親の入院の件。

毎日のように2箇所の病院に顔を出しているので
時系列がわからなくなってくる。
なるべくなら
自分の備忘録としても
その日にあったことを少しでも記していくべきだが
なにしろ
疲れて帰宅するので
眠ることを優先。
ブログを書きたい、と思っても
他の方のを見ているうちに
PCの前で、眠っている私だ。

父と長く
2人になると
どうしても
父は
あの話を持ち出してくる。

私はじっと黙って聞くしかない。
父は
根本は変わらない。
私を排除したい、という考え方。
又甥を、M家(私の両親の姓)の直系、おまえは出て行った身、と
強調する。
又甥を直系、としているのはいいが
又甥にはきちんと両親もいる(父の甥)わけで、
まるで
又甥が自分の子のように思っている。
それもよかろう。
長年の父の計画として
自分の面倒を見るのは彼(の家族)、として
又甥が学生のころから、父の家の傍に住まわせていた。
おそらくその頃から
「いずれ、あの家は君にやるから。」とでも言っていたのだろう。
急に、ここ数年の話ではない。
それもよかろう。
私はそれは予期していた。
しかし、一人娘を排除する、という想定はなかった。

特に
絶縁してきたわけでもない、私が行方不明になっていたわけでもない
震災前は
ある程度、実家に行っていたし、縁を切ったわけでもない。

これが実の娘だったらどうなのだろう、と思った。
戸籍上、私は6歳からの養子縁組。
母方の血を引いている。
実の娘だったら、
仮にお嫁に行って、M家の後を継がないにしても
相続放棄を宣告しただろうか。

仮の話なので
父にそれをふっても
「実の娘であろうと、対応は変わらない」と言うに違いない。
仮だから
本当のところはわからない。



数年前のブログ記事に
山本博道氏の詩集について書いたことがあった。
そこで
私は
「自分に逃れられないものがある。人生の課題である。」とかなんとか
書いた。
両親のことだ。
そのあと
詩集の話になって
話題がそれているけれど、
私はあのとき
予想したことがついに来た、と思った。

2007年7月13日に書いています。

なぜ、その詩集に飛びついたか
後に説明します。
(と言いながら、いつも先延ばしの私になる)

ではこれから
手術のために行ってくる。



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(12/7)複雑な気持ちである

2012年12月07日 21時04分28秒 | 両親のこと、入院のこと
疲れた。

昨日のことがよく思い出されない。

昨日、父の入院のあれこれをやって
その後実家に母と戻る。
そして泊まる。
何年ぶりに実家に泊まったであろうか。

そして
今日は母の入院に付き添い。
そのあと、すぐにまた父の病院に。

夕方
バスと地下鉄を乗り継ぎ
駅前に出て
デパートの地下にて買い物。
そのときに
地震が来た。
自分のケイタイも含めて、あちこちで警報が鳴っていた。
買い物かご(買おうとしていたものが入ったまま)を置いて
地上に出ようと、その辺のベンチに置いたのだが
様子を見ようと留まった。

急いで買い物を済ませ、家路を急ぐ。
猫たちが心配だ。
地震の怖いうちの猫たち。
もう、あの思いはいやだね。

1日ぶりに見るうちの猫たち。
ごめんね、心配していたでしょ。
あなたたちを守るからね。


父から

遺産相続の放棄をしてくれ、と言われた。
こんなときに・・・

半分、想定の範囲だったが
相続放棄、とはね・・・


金の亡者である父の
考えらしいと思った。

自分の金は、自分のやりたいように使う。
相続も然り。
一人娘の私に、放棄させるという行為。
母に全部相続させ、不動産の自宅は、近所に住む自分の又甥に、とのこと。
私は嫁いだ身であることと、自分の血が入っていないので
相続放棄の方向へ。
おまえの嫁いだS家には一切世話になっていないので、残すものはない、とのこと。

父の持っているお金の金額は全くわからないが
父曰く
かなりあるらしい。
それを語る父の声、言い方、いつもの父である。

頭の正常だったときの母もよく言っていた。
「お父さんはいつも、お金お金、と言っている。」と。

相続のことは私は
勉強したことがないので
はい、はい、と返事をするしかなかったのだが
どこかに相談に行ってこようと思う。

明日も
仕事が終わってから
2つの病院に行ってくる。
いろいろと用事を言いつけられている。

私の身体、持つのでしょうか。

夫よ
頑張って生きていこうね。

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