僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(3/21)実家のこと、父のこと

2011年03月21日 16時43分20秒 | 東日本大震災

地震に怯えるトチ。

今日は曇りだ。日差しがないと寒い。
お彼岸であるが
墓参は延期した。墓のことが心配であるが
少し距離があるので、ガソリンを温存したいために
義母には、延期を伝える。

明日
職場に行くことにした。
もう私の契約は期限が切れたが
仕事の途中の地震だったために、どうなっているのか
非常に心配。
引継ぎをするにしても、書類がバラバラになっているし
私物もあることだし
まだ完全に、契約切れということになっていない。

いろいろと不安だ。
生活のこと。


地震当日から思い出して
少しずつ書いているのだが
個人的なブログのために
地震の状況を伝えるものではない。
自分の周りのこと、母のこと、父のことなど
記録も兼ねて書いている。

前回の続きである。
前回は
母がこちらに避難してきて
母が安心していたところまで書いた。

母のパニックに対して、義母が落ち着いていたので
母は逆に安心したようだ。
余震のたびに、奇声を発する母をなだめていた。

母の面倒、相手をしてもらっている間に
私は
早めの夕食を作ることができた。
明るいうちに済ませてしまわないと
行動ができない。
早めに食べて
義母の隣の部屋に、母の布団を敷く。
注意点を伝えた。
トイレに行くときは懐中電灯をつけるようにと言ったが
パニックになると
どこに置き忘れたかわからなくなる母なので
義母に懐中電灯を預ける。
母、
トイレのレバーもわからない人だ。
7時には寝せた。
あったかい布団になっていた。
熱湯をペットボトルに入れて、湯たんぽ代わりにしておいたので。
地震当日の夜は、近所の家でお世話になったが
ほとんど寝ていないという。


私たち夫婦は
8時ごろに外に出る。
なぜかというと
街のほうが明るく見えたからだ。
これは電気が来た、と思った。
どこまで来ているのか確かめに行った。
一部分だけだったが
明るい灯りがあちこちに見えて
心強かった。
もちろん、いったん道をはずれれば真っ暗だ。
家に戻っても真っ暗だ。
だが
私は、まだ浅い眠りの母たちに
「街のほうに電気が来たから、きっとまもなくこっちもつくよ。」
と伝えた。


そして私たちも早くに寝床に就く。
私はソファ。
夫は布団。

そんなとき、9時ごろだったか
夫が
「何か、叫んでいる。」と起きた。
私は聞こえなかった。

家の外で誰かが叫んでいる。
男の声。
それは父だった。
そしてその横に
隣の奥さんがいた。

何度もうちに呼びかけていたらしいが
全く応答がないので
隣の奥さんが台所でそれを聞き、
出てきて
「奥の方にいるから聞こえないかもしれないので
もっと呼ぶといいですよ。」ということで
わざわざ付き添ってくれたのだ。


ここで
一度だけつながった電話のことを思い出してみよう。
福島にいる、というだけで
なぜそこにいるのかわからない私は
まず
自分たちの命は大丈夫、と伝え
父にも
どんなに時間がかかってもいいから
生命に危険のないようにこちらに帰ってきてくださいと
伝えた。
だから、福島から交通手段がないはずの父は
もっと遅くにこちらに戻ってくるものと思っていた。
必死で帰宅したのだろうか。


父は
玄関に入るなり
わめきちらしていた。
私は
今でもあの有様を
「ああ、この人とは暮らせないな・・・」と
つくづく思ってしまうのである。
誰に向かって言っているのか
玄関に誰もいない状態でも
言いたいことを大きな声でどなりまくっているのである。
私の実家に貼った張り紙にまで文句をつけている。

「鍵をなぜ持っていくんだ。」を何度もどなって繰り返している。
鍵を持ってきたことが彼の逆鱗に触れたらしい。
これもよくわからない。

「鍵をよこせ。母さんはどうした!鍵はどうなっているんだ!
こっちはお客さんを連れてきたのに、家に帰ったら
鍵がないじゃないか!」
「鍵を持っていったなら、なんで電話しないんだ!」
それらを繰り返してどなっている。

母を起こして
「お父さんが、鍵をよこせって言っているよ。」と言ったが
母はぐっすり寝ていて
よくわからない。
それを受け取って父に渡す。

確かにこちらに連れてくるとき
「私の家にいる。携帯は電池切れ。自宅の電話番号。」
を書いておいた。
鍵のことは
当然、母が持ってくるものだと思っていた。
しかし
彼らには決まりがあるらしく
鍵は、物置のどこかに置くことになっているらしい。
父はスペアキーを持っていないのだ。
たった1個の鍵である。
娘ながら、はじめて知った。
私も実家の鍵などは持っていない。

父は
お客さんを車に待たせている(実家の隣の方に送られてこちらに来たのこと)ことで
カッカッとなっている。
お客さんを泊めるんだ、何か食べさせなくてはならないんだ、と
これもどなって言う。

私は
「あの家に入るの?無理だよ。ひどいよ。
どこに泊めるの?」
「母さんのベッドに寝てもらうから。」
「え、お母さんの部屋も、テレビとか倒れて危ないよ。」
と言ったあと、私は
「わかった。とにかく見てきて。見ないとわからないでしょうから。
真っ暗だから、これを持っていって。ガラスが廊下や階段に落ちているから。
もしも、ダメだったら、お客さんを連れてこっちに来てください。」
と、持っていた懐中電灯を渡した。
真っ暗な玄関での会話である。

父は
鍵、鍵、鍵、お客、お客、お客を何度も繰り返しどなりつつ
帰宅した。

ハア~、参った。
父の偏執狂的な言い方、一方的な言い方に参ってしまった。

そのうち、1時間くらいして
こちらも電気がついた。
母はあきれている。私も、義母も。
夫は出てこなかった。仲が悪いので。


翌朝、
私は
朝食前に夫とともに家を出た。
こっちは電気がついたことによって
ヒーターも、コタツもつけられるし
何よりもテレビも観られる。
だから、こっちに父とお客さんを連れてこようと思った。
母には、そう伝える。
「ありがとうね、心配かけるね。」と言われた。

そして
実家に行ってみると
父の車がなかった。
お客さんをどこに送ったのだろう。
どこから来たお客さんかわからないし
空港も、鉄道もダメなはず。

一応、また玄関の前に置手紙。
「電気が通ったのでこちらのほうが暖かいはず。お客さんとともに
来てください。」と。

そして
自分の家に帰ると
今度は
義母が
「今、お父さんがお母さんを連れて帰ったよ。お母さんは、帰りたくないと
言っていたけれど、『おれが迎えに来たのに、なんで帰らないんだ』と言って
連れていったよ。でも、お母さん、あわてていたので、大事な薬を忘れていったよ。」

私たちはまた、その薬を持って実家に向かった。
夫に申し訳なかった。

両親は居た。
掃除をしていた。
そして
昨夜の父の姿ではなく、しおらしい父になっていた。
母は
「私は、怒ったからね、お父さんに。」と私に伝えた。
おそらくは
家に戻って
あのひどい状態をはじめて見て、どれほど大変な地震だったかを
わかったのでしょう。
あの寒い中、どのように過ごしたのか。


父よ
わかったか、この地震がどれほどひどいものだったか。

そのあと
私の家に
何本かの電話が入った。
父の友人の奥さん(9月に北海道に3人で帰ったときに、数十年ぶりに会った人)から
も安否を気遣う電話があった。
そこで
ようやくわかった。
やはりいつものメンバー(北海道時代の友人たち)といっしょに
ゴルフ旅行に出かけたとのこと。
小田原の友人のところで、地震を知ったらしい。
そして北海道の友人は羽田から北海道に帰り
父は新幹線で仙台に向かい
おそらくは福島までで止まったのだろう。
もう一人の友人というのがどこの誰かは結局わからなかったが
父は、仙台の自分の家に泊まれと言ったのだろう。

父は
この地震の凄さを知らない。
だから
鍵のことをなぜ電話しないんだ、なんて
私にしてみれば
のんきなことを言っていたわけだ。
何度も何度も電話しても通じない、ということが実感として
なかったのだ。
私が父につながった唯一の電話で
命がどうのこうのって言ったのが、何を言っているんだか、という
思いで聞いていたのかもしれない。

もうあちらも電気が通ったと思うが
テレビで観た映像に
この地震が世界をも巻き込むほどに凄かったことを
遅ればせながら知ったことだろう。
何が
鍵だ。何が、お客さんだ。

あれから私は
父に連絡していない。

いったん更新。



コメント (6)
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