僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(1/14)SALLY バージンブルーそしてボーカル 加藤喜一さん

2019年01月14日 06時41分10秒 | 名曲
SALLY バージンブルー



先日1月9日は、私のかつての青春の人、サリーの誕生日だった。
もう70代になっていた。
サリーって誰?となるかもね。
岸部一徳さんてわかりますか。

正月に実家に行って知人たちに会った時
「そういえば、トモロッシちゃんて、ジュリー、ジュリーだったよな。
今でもジュリー好きなの?」と聞かれた。
「え、私、ジュリーじゃなくて、サリーだよ。サリーが好きだったのよ。」
と答える。
「サリー?って誰?」
「岸部一徳さん。ホラ、ドラマ相棒の官房長官。」
「???」
「ウ~ン、米倉涼子のドクターXのメロンを持ってくる人。」
「??ああ~!わかった。え、あの人が好きだったの?」
サリーのあの軽い演技から、かつてアイドルだったというのがピンと来ないようだった。

コンサートの時、「傷だらけのアイドル」(カバー曲)の始めの「アアアアアア~」の低音の声は
サリーで、私はそれに悶絶していたのです。
「ドックオブザベイ」(カバー曲)を歌うサリーに悶絶していた私なのです。
そのサリーが「修三」から「一徳」の芸名に替えて役者に変身したのです。
しかも今は名脇役、重要な役割を演じる役者なのです。
彼がこうして今でもテレビで観られることが嬉しい。
年をとっても、若い頃から今の姿の変遷を見ているので、全然「時の流れ」の衝撃の姿に抵抗がない。


さて、今日は、サリー繋がりで
1人の男性シンガーのことを。

その名、加藤喜一さん。
この方、サリー(岸部一徳さん)と同じく1月9日の誕生日だった。


以前、数年前に自分の名曲として、このサリー(グループ)のこの曲を取り上げ、
ボーカルの人の声質が好みだ、と書いていたが
個人名やその人のその後について少し調べたがすっかり忘れてしまっていた。
それが昨年の暮れ辺りからまた頭の中で
この曲がグルグル回りだして、早朝出勤中もサビの部分が何度も回転しているんだ。
特にこの動画の彼の動きが好きで、何回も、何十回も観ている私だ。
型にハマったアイドルの動きじゃなく、
この曲を歌っている時の自然に湧き出る手の動き、観てください。
これ、今のアイドルグループの動きじゃない。
彼のあの天性の動きは
ショーケンや内田裕也の動きに近いもの。
ブルーススプリングスティーンに近いもの。
後に、喜一さんがブルースを歌うようになるとはこの映像からは想像できないが
(あまりにカワイイ、カッコイイから、この路線で行くとファンは思っていたかもしれない)、
当時の彼には、潜在するものがあったんだ。
でも、ブルース、なかなか日本じゃメジャーになれない。

その喜一さんをもっと知るために
彼のかつての十数年前のブログをお気に入りに入れて、読んでいるし、
彼発信のyou tubeを見ているし
インスタグラムも見ている。
遅れてきたファンの私である。
当時の彼の姿を現代に持ってきても、全然違和感のないほどに、カッコイイ彼。
今では、御朱印を集めて、四季の花々を撮る中年になっているけれど、
青春の姿は永遠だ。
拾った彼の話に
「バージンブルーは最初は抵抗があったけれど、今では自分の肉体の一部になっている」とあり、
若い頃は反発しても、やっぱりこのメロディ、この歌のころの彼自身、取り巻くもの、
今の彼を作り上げた永遠の名曲だと思う。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(1/4)あけましておめでとうございます。今年もよろしく。

2019年01月04日 08時39分30秒 | 日常、仕事、認知症
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


元旦は休みであったけれど、自分にとって実家帰りは仕事以上に心に負担がかかるので
休みの部類に入らない。
しかし、想像していたよりも和やかに過ごせた。
父との確執を知っている、父の知人(故人)の奥さん、その子供2人も参加してくれて
こちらは、夫、義母の参加。にぎやかだった。
この父の知人というのは、父や母、私が北海道から仙台に来るきっかけを作った人だった。
父が北海道時代にサラリーマンをして家庭を持ったが、「仙台でいっしょに商売をしないか」と
誘った人だった。もともと父やその知人はこちらの県北の出身。10代のころからの友人である。
北海道から宮城へ、ということに思春期だった私は物凄く抵抗した。
それまで道内で父の転勤ごとに2,3年で学校、土地が替わっていたが、思春期のそれはこれまでと
違ったものだった。なぜ、今なんだ、という思いがあり、父に内緒で、2,3通、その誘いを辞めるように
手紙を知人宛に出した。それをそっくりそのまま父宛に返されてきた。
無駄な抵抗だ、と言わんばかりに。
そして仙台に来て、その一家と一つ屋根の下で暮らし、数年でお互いに独立した。
その子供たちはまだまだ幼稚園、小学生で、それが今では成人した子供もいる中年である。
私はその知人とはよく、互いに折れない議論をした。所詮、親の庇護下にある人間の話なんて、というのが彼の態度だった。
私と夫の結婚の話が出た時に、その知人が勝手になのか、あるいは父の命令なのかわからないが
突然、夫の不在中に、夫の家に来て、結婚を辞めるように、反対している、とか伝えたことが有り、
それを自分の親から聞いた夫が激怒した。自分の親を巻き込むことに腹を立てた。
一人っ子同士の結婚、育ての親を捨てて出ていく私のことなど、彼のことだから力説したのかもしれない。
だから、私にとっても夫にとってもあまりいい印象じゃない。
その後は、何度か会ったりしたが、私達の生活に影響を与えない存在だった。

最近、父の高齢のために、免許返納をして、車をどうするかとなったときに、
その知人の子供に譲ることになった。それを、その子たちが一応私に打診に来たのだが、
私は、「うちの車も古いけれど、もらうことによって、父は見返りを求める人だから。私達の都合をよそに、自分の
都合で、車を出してくれ、というような人だから。」私は父のその行動を見抜いているから、どうぞ、もらってください、と
彼らに伝えた。
案の定、元旦ではやはりその話になっていた。
しかし、彼らは車をもらえることのメリットのほうが大きいのか、
「どうぞ、いつでも声を掛けて下さい。すぐに来ますから。」と言っていた。
使われるぞぉ。
そういう例を幾つも見てきたからね。私は夫を巻き込みたくない。

それぞれ持ち寄った料理を食べ、それぞれに話をし、ゲラゲラ笑って、
父もにぎやかな元旦を過ごせたろう。
深刻な話、空気にならず、彼らが来たことに感謝する。
そんな元旦だった。
なお、認知症の義母は、一昨年、私の母が亡くなったことを覚えていない。
「お母さん、どこか悪いの?」
「何、言っているの?一昨年、亡くなって、あなたは葬式にも参列し、昨年は一周忌にも行ったでしょ。」と
何十回も言ってきたが、数分後には忘れる。
その義母、昨日で89歳になった。
食欲旺盛である。餅を食べるときも注意して見ているが、今のところ、気を付けて食べている。
ガリガリに痩せているが、食べることには執着している。
さて、これから職場に行って、同僚から田舎の餅をもらうことになっている。
ではまた。


      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする