自然を愛して

田舎暮らし

浜田城跡

2013-06-19 11:08:47 | Weblog
     
 津和野藩武家屋敷より移築された門               浜田城跡

3月に島根県立美術館で開催された須田国太郎の風景作品〔浜田〕を鑑賞したとき
実際の風景を見たいと思って浜田城跡に行ってきました。
浜田城跡は別名亀山城とも呼ばれ、北に松原湾と南から西にかけて流れる浜田川よって囲まれた
標高68mの丘陵上に築かれ平山城です。
元和6年(1620年)古田重治が築城して、慶応2年(1866年)第二次長州征伐のとき長州藩の大村益次郎が進軍。
藩主松平武聡(たけあきら)は戦わずして退場。敗残の兵が浜田城を放火し灰燼に帰しました。
現在は城山公園として本丸から三の丸にかけて階段状に石垣が残り、護国神社の右側から進んで行くと登城口に津和野藩武家屋敷より移築された門があって側に司馬遼太郎の碑文「浜田藩追懐の碑」があります。
碑文を読むとよく表現してあって次のように書いてありました。
~城あとは苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。~

  
            松原湾                       外ノ浦
 頂上では外ノ浦の湊や松原湾の景色が良く見え、須田国太郎作品の「入江」は松原湾を描かれた作品だと判りました。
作家特有の茶褐色の色味でなく明るい寒色で描かれ山陰風景が心に残りました。



城山公園にある木口小平銅像、ノモンハン事件戦没者慰霊碑、抱月碑、政治家俵孫一、
大達茂雄の胸像について
       
      
●木口小平
 明治27年の日清戦役でラッパを口にあてたまま息絶えた歩兵第21浜田連隊の勇士
●ノモンハン事件 1939年(昭和14年)
 5月から9月にかけて満州国とモンゴル人民共和国の間の境界線をめぐって発生した 
 日ソ両軍の国境紛争事件。
 五味川純平の小説『ノモンハン』があります。
●島村抱月 1871年(明治4年)~1918年(大正7年)
 島根県那賀郡金城町に生まれ旧姓「佐々山滝太郎」言い小学校卒業後は浜田市に出て、
 裁判所の給仕をしながら独学に励み、
 当時検事だった島村文耕に認められて上京し島村家の養子になった。
 東京専門学校文学部(現早稲田大学)に学び、イギリス、 ドイツに留学。
 帰国後自然主義文芸論を展開し自然主義運動の指導者としてまた評論家、劇作家、詩人として活躍した。
 大正2年女優松井須磨子を擁して芸術座を創立、「人形の家」「復活」
 などの翻訳劇を演出、上演し、新劇に大衆化に貢献した。
●俵孫一1869年(明治2年)~1944年(昭和19年)
 浜口雄幸内閣の商工大臣
 立憲民政党幹事長
●大達茂雄 1892年(明治25年)~1955年(昭和30年)
 第5次吉田内閣の文部大臣 教育二法を成立

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