どのように考えても、私は「与えられた命」を生きていると思うのです。
この命は、与えられた命ですし、この命を維持するための食物も、自分で創出した植物ではなくて、自然の摂理の中で生み出された食物の生命をいただいて、生命の維持をしているのですから、私たちがここに存在するということは、徹頭徹尾、与えられ続けているということが、事実を事実として見た「道理」(TAO)だと思うのです。
『生かされている自分』という言い方がよくされますが、
私は、『すべての命は、つながっている』という言い方もします。
そのように考えれば、『すべては、一つの生命』なのかも知れません。
諸富祥彦さんの『生きていくことの意味』(PHP新書)の中に
ご自分の体験として、若い時期に「人間はなぜ、生きているのか?」
「人生の意味とは何か?」と問い続け、悩み続けた果てに・・・、
『私は、人生とは何かを問う存在ではなくて、
「問われている存在」である』ということに気付く場面が描かれていて、
私はその箇所がとても好きなのですが、こういうコペルニクス的転換
こそが、「知足」の真髄です。(*^_^*)
♪「ああ~。気付いてみたら、すべて与えられていた」というわけです。(^^;ゞ
この命は、与えられた命ですし、この命を維持するための食物も、自分で創出した植物ではなくて、自然の摂理の中で生み出された食物の生命をいただいて、生命の維持をしているのですから、私たちがここに存在するということは、徹頭徹尾、与えられ続けているということが、事実を事実として見た「道理」(TAO)だと思うのです。
『生かされている自分』という言い方がよくされますが、
私は、『すべての命は、つながっている』という言い方もします。
そのように考えれば、『すべては、一つの生命』なのかも知れません。
諸富祥彦さんの『生きていくことの意味』(PHP新書)の中に
ご自分の体験として、若い時期に「人間はなぜ、生きているのか?」
「人生の意味とは何か?」と問い続け、悩み続けた果てに・・・、
『私は、人生とは何かを問う存在ではなくて、
「問われている存在」である』ということに気付く場面が描かれていて、
私はその箇所がとても好きなのですが、こういうコペルニクス的転換
こそが、「知足」の真髄です。(*^_^*)
♪「ああ~。気付いてみたら、すべて与えられていた」というわけです。(^^;ゞ