『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

「法則としての神」の意図とは?

2004-11-24 21:40:28 | Weblog
『法則としての神』とは、仏教でいえば「ダルマ(法)」のことです。
そして、どのような「法則」があるのかと言うと、因果の法則です。
「裁く者は、裁かれる」です。(*^_^*)

愛する者は、愛され、憎しむ者は、憎しみを返される。
怒りを表せば、怒りが返ってきます。
あなたは、どれを選びますか(^。^?

以前、私は、OSHOの『神が愛なのではない。愛が神なのだ』という言葉が好きでした。これは、人格神を讃える人々に向かって、宇宙の法則とは、
「愛」であると言ったものです。

はっきり言って、「法則として神」の意図とは、「愛の実践」です。

大脳生理学的にも、人間の脳は、「自分の欲望を、満足したとき」よりも、
「他人の役に立てたとき」の方が、より快感を感じるそうです。

ということは、そのように人間は出来ている(プログラムされている)ということですよね。

私たちが道を尋ねられて、それを教えた時のあの快感は、「自分が役に立ったこと」への快感です。自分の欲望が達成されたときの嬉さよりも、大きいというか、違った質のものですよね。(^^;ゞ

人間には、「人の役に立ちたい」という思いが、誰にでもあるように思うのです。それが、「愛」です。

「愛」という文字を見で、温かい気持ちになるのは、
私たちが、意識の深いところで、「愛」(他人の役に立ちたい)を実践したと思っているからです。私は、そう思います。