『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1270】「うしろめたさ」という自己嫌悪

2008-01-15 04:32:23 | 思索
昨日の朝、顔を洗っていましたら、
最近経験した2つのことが、共通のテーマであることに気付きました。(^^;ゞ

ひとつは、この頃の私は他人に対して、「消えてゆく姿」の話をしないのですが、
店のAさんが「カラオケ店の飲み会」に行くことに興味があったので、
「どのような人たちが、集まるの?」と聞いたところ、反発(笑)を受けまして、
「参加することに文句がある」ように思われてしまいました。(^^;ゞ

このように、自分が「批評しよう」と思って言ったのではないのに、反発されたことってありませんか?

これは、その人が自分の行いに対して、なんらかの「うしろめたさ」(自分に対する嫌悪感)を抱いているからなのです。

その嫌悪感は、自分の行いが、「本質的には良くないこと」だと思っていることから生じるのです。

具体的には、
たとえば、「お金がもったいないけれども、付き合いだから仕方ない」とか思っていたりするのでしょうが、
もっと深い部分では、「自分の本心と行動が一致していない」ので、自己嫌悪が生まれるのです。

そういう場合、「世界平和の祈り」をしながら行動すれば、自分の行為に執着が起きないので、
本心と行動が一致し、自己嫌悪が起きません。(*^_^*)

もうひとつの経験は、
ある人は、「自分は、怒りぽくて、親切な人間ではないのですけれども」と、
自分への評価を冷静にしている場面に出会ったことです。

つまり、人は、「自分がどのような性格の人間であるのか」を知っているのです。
知っていて、治そうとしないのです。(^^;ゞ

「怒りぽくて、親切でない人間」だと、自分で判っているのならば、
それを改めれば良い(笑)と思うのですが、そうはしないのです。(^^;ゞ
その結果、自己嫌悪に陥るのです。

これは、自分の本心(意識)を磨き、表していこうという決意(覚悟)が足りないから起こる現象です。(^^;ゞ

白光の言葉でいえば、
「祈り」が足りないので、自己嫌悪に陥っているのです。