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皇太子成婚の推移には日本の支配層の選択がある?小和田家、江頭家のナゾ、雅子妃の闇?

2014年03月07日 15時44分41秒 | thinklive

*皇太子夫妻はイズレ天皇、皇后に就任する、皇后に就任する家系にチッソ水銀事件の総責任者がいて、問題の責任を認めもしない、謝罪もしない、マルデ無かったように振舞う、雅子妃の長年にわたる鬱病についてはその家庭環境と地位との乖離が影響している、と思わざるを得ない、主治医に関する問題もブログでは情報が絶え間ない、ボクは皇太子の恋愛の前に、候補として選ばれる過程の巨大な闇がある、と推定する、それは創価学会を含めて、社会的な支配勢力と継承されたセイリョクとの妥協の結果、と認識すべきであろう、外務省の”大鳳会”(創価学会メンバークラブ、あらゆる省庁にそのような会が組織されている、)?の存在をこの検索の過程で始めて知った、

*水銀条約締結の式典は、熊本県水俣市で開かれた。 安倍首相は「水銀による被害とその克服を経たわれわれだからこそ、ーーー」と、電話で述べた。水銀による被害が終わった、と、被害者たちの被害の現場で語るコトバの冷酷?この冷酷さは、江頭満の被害者ムシの冷酷さに共通する?

* ボクは昨夜、ウキペディアによる、小和田、江頭(雅子母方実家筋)両家の家系を調査、その要旨をブログに纏めたが一旦削除した、岸信介のウキペディア伝記がマッタク書き直されたように、両家についての記載が変更される可能性がある、と再度思い直して、とにかく最小限の記録だけは残さねばならない、それで一部を再録した、ボクが衝撃を受けた事実は,江頭満の以下の記事である、

*江頭が会長だった1972年1月、千葉県のチッソ五井工場に交渉にやってきた患者や新聞記者たち約20名が、会社側に屋に雇われた暴力団員に襲われた。著名なカメラマンであるユージン・スミスはこのときに脊椎を折られ、片目失明の重傷を負っている。その件について、彼が謝罪することは決してなかった。*この件につぃての裁判記録など探したが、ココに書かれている以外の事実は検索できなかった、

*娘・優美子が外務省勤務の小和田恆に嫁いだ。恆と優美子の長女である雅子は平成5年(1993年)、皇太子徳仁親王と結婚し、皇太子妃となった。チッソ問題は雅子の小学生時代に発生している、

*以下、ブログ

小和田家の謎・雅子妃の闇 Part.1 ~祖父母の出生について~

*このブログの内容は両家の墓地の実査を含め、戸籍所在地の縁者、菩提寺調査を徹底したもので、事実としか思えないが、その詳細はボクにとっては重要ではない、先祖はよく分からない、というのが実感である、婚約をした際に皇太子カップルは小和田家の墓に参り、その光景はその墓を含め、メディアに報じられている、

*宮内庁は皇太子の結婚にあたって小和田家の家系を公表し興信所に身元調査を依頼した。そのとき、開放同盟は差別であるという申し入れを行っていた(ニュースにもなった)そのため、身元調査は打ち切りになった。雅子妃の家系調査への抗議を認めた記事『解放』1993年6月号「皇太子妃決定に関わる身元調査等の差別助長行為にたいする抗議と申し入れ」の記事

*ドーシテ、解放同盟が、皇太子妃、雅子の実家の家系調査を嫌ったのか、人権問題を建前にして、皇太子妃の調査を拒否したのはナゼか、という疑問がむしろ生まれる!

小和田家
一代目 小和田金吉(生年月日、生地、両親不詳)→ 二代目 小和田毅夫 → 三代目 小和田恒、金吉の父は道蔵匡利のはずだが、雅子さんの曽祖父金吉が道蔵匡利とはつながらない。宮内庁が公表した家系図は、金吉で終わっていて匡利の名前はない。この事実だけで、金吉は匡利の子供とは断定できない。あるいは金吉の両親(もしくは父)は不明か、表に出せないということがわかる。新潟で3代前までしかわからないということは非常に不自然。雅子さんの皇室入りが決まったとき3代前の小和田金吉の父親がわからなくて宮内庁が困り、小和田家が無理に作成した家系図の元になったのが同じ地域出身の小和田本家の家系図。

江頭家は村上水軍につながる(と成婚時に発表)ので、さらに民に遡る可能性は高い、以前、雅子さんの母優美子さんのいとこで作家の江藤淳(本名江頭淳夫)が自分のルーツ探しに九州へ行った。そこで知った現実に相当のショックを受けたというなおタレントの江頭2:50も親戚(2:50の方が本家筋)、優美子さん父は豊、豊の父は安太郎。この安太郎が母親から青山地に埋葬しています。それ以前の墓地は不明とあります。(結婚記念誌に記載)
江頭家の出身は九州ですが、不思議に父親のお骨は東京へは引き取っていないのです。彼は九州の自分の出自を恥じてひた隠しにしていた。
また安太郎の妻米子が古賀家から嫁いで居ますが、この古賀家も佐賀の阿弥陀寺にながい間無縁仏として放置されていた。近年になってそれらの無縁仏を一箇所に集めて合祀されている。
雅子さん祖父・嘉蔵は明治維新までは鍋島家の家臣だったとされるが
明治初年の佐賀藩侍着到(出勤簿)にその名はない。番太出身で「いわれなき差別を受け」小学校の小使いの職にしか就けなかった江頭嘉蔵。息子の安太郎は、その出自を生涯ひた隠しに隠し、佐賀には一度も帰ることはなかった。江藤淳は今上陛下を雑誌で批判(1999年7月21日自殺)
「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない…」その叔父も自殺。遠縁の江頭2:50も精神を一時患った。
正田家は数百年遡れる名家、公家の血筋も入っている。 
川嶋家も会津藩士(藩士録にちゃんと載ってる家)&紀州の名士

水俣病について、*水俣病被害者の拡大は政府の犯罪?

政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。この2つを政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。なお、厚生省の発表においては、熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立しているなどとして、水俣病問題はすでに終結したものとしていたが、その後の展開から見てもこれは妥当な判断であったとは言い難い。事実、国は水俣病発生の責任を認めず、原告と国との裁判はその後も続いた。国は1990年に出された裁判所の和解勧告(9月に東京地方裁判所が、10月に熊本地方裁判所と福岡地方裁判所が相次いで同じ趣旨の勧告を出す)を拒否しており、和解に転じるのは1996年のことである。また、原告で和解を拒否した水俣病関西訴訟の裁判は、上記のように、2004年10月まで続いた。

 



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