歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

桜井市・桜井茶臼山古墳  石室内の銅鏡が103枚以上になることが判明

2023年09月07日 | Weblog
 桜井市の桜井茶臼山古墳(3世紀末、全長204m)で、石室内に納められた銅鏡が103枚以上に上ることが7日、わかった。
 103枚の鏡の内訳は三角縁神獣鏡26枚、画文帯神獣鏡19枚、中国製内行花文鏡9枚、日本製内行花文鏡12枚、鼉龍鏡7枚など。中国産が56枚、国産が21枚、産地不明が26枚。
 畿内の古墳での銅鏡の出土数は、京都府木津川市の椿井大塚山古墳(全長175mの前方後円墳、3世紀末)が2番目で37枚。奈良県河合町の佐味田宝塚古墳(全長112mの前方後円墳、4世紀末)が36枚、黒塚古墳(全長130mの前方後円墳、3世紀後半)が34枚と続く。
[参考:共同通信、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞、奈良新聞、奈良テレビ]

過去のニュース
2020.1.9 81枚以上の銅鏡が副葬されていたことを確認
桜井茶臼山古墳
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桜井市・桜井茶臼山古墳 主室の東側と北側に副室

2011年06月13日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が13日、桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め、全長約200mの前方後円墳)で、平成21年に竪穴式石室(主室)の周辺から見つかっていた天井石を伴う2つの施設が「副室」と分かったと発表した。 地中レーダ、電気探査も行い、参考にした。
 南西約1・5kmにあるメスリ山古墳(4世紀初め、全長約220mの前方後円墳)では、未盗掘の副室から武器など大量の副葬品が出土しており、関連が注目される。
 2つの副室は、丸太垣に囲まれた主室の東約6mと北約4mでそれぞれ見つかり、いずれも全長2m以上、幅1・5m、長さ70cm前後の天井石を並べていた。 天井石の上には「板石」が敷かれていた。
 今回は約60年前の調査範囲を踏襲した再調査で、新たに見つかった副室は調査対象に認められないため埋め戻された。 史跡のため副室内の調査は予定されていない。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.10.22 桜井茶臼山古墳 全面を朱で彩った石室を60年ぶり発掘し一般公開
 2009.6.12桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかる 
 桜井茶臼山古墳
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天理市・文化センター 大和古墳群にある前方後方墳7基を焦点にした文化財展が始まる

2010年08月18日 | Weblog
 天理市東南部の「大和(おおやまと)古墳群」にある前方後方墳に焦点を当てた、夏の文化財展「大和の前方後方墳―ノムギ古墳をはじまりとして―」が、きょう18日から、同市守目堂町の市文化センターで始まった。29日まで。
 最古級のノムギ古墳(3世紀末)をはじめ同古墳群を中心に市内の前方後方墳7基(ノムギ古墳、波多古塚古墳、下池山古墳、マバカ西古墳、フサギ塚古墳、星塚古墳、西山古墳)をパネル約20枚と遺物約90点で紹介する。ほかに埴輪などの出土品も展示される。
 開場時間は午前9時から午後5時まで。23日休館。入場無料。
[参考:奈良新聞、天理市HP]

過去の関連ニュース・資料
 2010.3.16 ノムギ古墳 後方部裾で花崗岩の礫が多数出土
 2010.2.23 ノムギ古墳 発掘調査を開始
 2009.6.14 桜井市・桜井茶臼山古墳 木棺はコウヤマキ製と特定
 2090.7.10 大阪府河南町・シシヨツカ古墳 銀象眼大刀柄頭が発見
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「発掘された日本列島2010」 を見て

2010年06月28日 | 「発掘された日本列島」展
(写真は唐古・鍵遺跡遠景)

 江戸東京博物館では、6月5日から発掘速報展「発掘された日本列島2010」が開始されています。(~7月25日まで)
 この1,2年に出土した遺物だけでなく、それ以前のものも多く含まれていますが、重要遺跡がいくつもあり興味のあるものでした。
 高松塚古墳、キトラ古墳の発掘調査成果や保存修理の状況、整備事業の経過を紹介する展示、あるいは地域展「古代武蔵国の郡衛」も併せて行っています。
 ニュースあるいは資料などにより掲載されている写真は、著作権があり使用することができません。そのために、折角、ニュースあるいは情報として採り上げても、写真が載せることができず残念に思うのですが、ここで撮った写真は、このサイトで過去にも振り返って整理したいと思います。

1.赤土山古墳(天理市)
 展示室に入ると、最初に出会うのがこの古墳(4世紀後半)から出土した円筒埴輪と朝顔形埴輪(写真1.)でした。
 築造後まもなく発生した地震により、一部の埴輪列が地面ごと8m滑落し、そっくりそのままに土砂に埋まってしまったため、原形で出土したそうです。
 天理市教委が発表するところによると、地震は過去2回あり、1回目の地震は埋まった埴輪の風化が少ないことから古墳が作られて間もない5世紀初め、2回目の地震は887年の南海地震であろうということです。

2.池田古墳(朝来市)
 昨年2月、池田古墳の渡土堤の部分から、最古の水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪計11体が全国で初めて出土しました。さらに9月、東造り出しからも水鳥形埴輪が出土しました。(写真2.)水鳥はガン、カモ類だそうです。
過去の関連ニュース・情報
 2009.2.20 池田古墳 水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪出土 
 2009.10.30 池田古墳 墳丘東側の造り出しから第2段目葺石部までを調査中

3.観音寺本馬遺跡(橿原市・御所市)
 土偶と石棒(写真3.)などが展示されていました。ともに橿原市側、すなわち観音寺地区からの出土のようです。
過去の関連ニュース・情報
 2008.12.3 橿原市観音寺地区遺跡・御所市本馬遺跡 東日本文化の影響を受けた縄文晩期遺跡

4.唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)
 ここ数年は新しい発掘調査のニュース・情報はないと思いますが、過去に出土した楼閣が描かれた土器片(写真4-1.)や青銅器工房遺構から出土した銅鐸の土製鋳型外枠(写真4-2.)、鞴羽口などが展示されていました。

5.三雲・井原遺跡(糸島市)
 「魏志倭人伝」の伊都国最大の拠点集落とみられる三雲・井原遺跡ですが、ここ1,2年は大きな発見はないはず。2007年4月に「完形品としては国内最古の内行花文鏡1枚が出土」と発表された朱がかかった鏡(写真5.)が展示されていました。

6.纒向遺跡(桜井市)
 昨年は、3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかり昨年最大の話題を提供していました。 
過去の関連ニュース・情報
 2009.11.01 桜井市・纒向遺跡 3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかる
 2009.3.20 桜井市・纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群と柵が出土
 展示されていたのは、列島各地からもたらされた土器(吉備系、東海系、山陰系など)。写真6.(左)は北陸系甕、(右)は2007年度に出土した木製仮面(3世紀前半)。農耕に関する祭祀に使用されたと考えられています。

7.桜井茶臼山古墳(桜井市)
 昨年は、石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかったことを初めとし、全面を朱で彩った石室を60年ぶりに発掘し一般公開し、81枚以上の銅鏡が副葬されていたことが確認されたりなど、大きな話題が提供されました。また、木棺の材質がコウヤマキ製と特定されもした。
過去の関連ニュース・情報
 2010.1.9 桜井茶臼山古墳 昨年の調査で81枚以上の銅鏡が副葬されていたことを確認 
 2090.10.22 桜井茶臼山古墳 全面を朱で彩った石室を60年ぶり発掘し一般公開
 2009.6.14 桜井茶臼山古墳 木棺はコウヤマキ製と特定
 2009.6.12 桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかる

 残念ながら、パネル以外で特別な展示品はみられませんでした。

8.馬場南遺跡(木津川市)
 馬場南遺跡は、発見当初(2008.8月)は「文廻池遺跡」と称され、須弥山を表す三彩陶器、万葉集の歌が書かれたとみられる木簡、「神尾寺」と書かれた墨書土器が出土しました。
過去の関連ニュース・情報
 2008.8.12 文廻池遺跡 須弥山を表す三彩陶器が出土
 2009.1.19 馬場南遺跡 現地説明会 1月17日
 2009.8.11 馬場南遺跡 奈良時代の湧水施設が出土
 2009.8.16 馬場南遺跡 万葉集木簡の裏面に「越中守」?

 写真8-1.は出土した墨書土器。右は「神雄」、左は「黄葉」と記されています。ほかに神尾(寺)と記されたものがあり、ここに神雄寺(かみおでら)があったと推定されました。「黄葉」は、出土した万葉木簡「阿支波支乃之多波毛美智」(秋萩の 下葉もみちぬ)
  秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨(秋萩の 下葉もみちぬあらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも)
に関連したものかは興味あるところです。
 写真8-2.は三彩陶器類。
 写真8-3.は彩釉山水陶器。左は組み上がりの位置を示す「左五」の刻書がある三採陶器。。右は魚を描いたもの。この造形物は本来、仏像の足下を飾っていたと考えらそうです。
 写真8-4.は須恵器の鼓胴(推定復元長さ32.5cm、直径18.5cm)。鼓胴は木製が一般的で、陶器製は国内では正倉院に伝わる奈良三彩だけだそうです。

9.キトラ古墳(明日香村)
 写真9-1.は壁画の精密な複製を陶板で製作したもの。左に朱雀、右に玄武。
 写真9-2.は黒漆塗銀装大刀片および金具類。

10.三重津海軍所跡(佐賀市)
 慶応元年(1865)に国産初の実用蒸気船、凌風丸を完成したといわれます。現在、発掘調査を進め、世界遺産登録を目指しています。
過去の関連ニュース・情報
 三重津海軍所跡

 写真10.は出土した海文茶碗と皿。

以下は、併設展示の地域展「古代武蔵国の郡衛」です。
よく本や資料で見る、「无邪志国荏原評」銘瓦、武蔵国府国衛の東隣に造営されたとみられる多摩寺を裏付ける「多寺」「?磨寺」銘の瓦などが展示されていました。残念ながら撮影は禁止でした。

11.幡羅遺跡(深谷市)
  2006年に古代の郡役所跡「幡羅遺跡」(7世紀後半~10世紀前半)で竈(かまど)の支脚とみられる人面が描かれた土製品(写真11.)が発見されました。竈神(かまど神)を描いたものとみられています。
過去の関連ニュース・情報
 2008.7.5 幡羅遺跡「竈神」を描いた人面土製品?を発見
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桜井市・桜井茶臼山古墳 昨年の調査で81枚以上の銅鏡が副葬されていたことを確認

2010年01月09日 | Weblog
 昨年10月22日に、桜井茶臼山古墳で前面を朱で彩った石室が約60年ぶりに確認され公開されたが、石室内や周辺の土から銅鏡片331点が出土した。最大縦11.1cm、横6.3cmで、多くは1~2cmの細かな破片だった。その銅鏡片を整理した成果の発表がなされた。

<正始元年の三角縁神獣鏡>
 県立橿原考古学研究所が7日、初期ヤマト政権の大王墓とされる桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)で、過去に見つかった53点を含む銅鏡破片計384点を調べたところ、国内最多となる81枚以上の銅鏡が副葬されていたことが分かったと発表した。国内最多だった平原遺跡1号墳(福岡県)の40枚を大きく上回ることが分かった。
 鏡の形式も最多となる13種類以上で、後漢から三国時代の中国産や国産の鏡を確認。黒塚古墳(天理市)などに比べ、三角縁神獣鏡以外の鏡が多く、三角縁神獣鏡26枚、内行花文鏡19枚、画文帯神獣鏡、方格規矩鏡など81枚分を確認。多くが中国製とみられ、半数近くが直径20cm以上の大型鏡であった。国内最大級の日本製内行花文鏡(直径約38cm)もあった。
 破片のうち180点はまだ分類できておらず、鏡の総数はさらに増える可能性があるという。
 また、「是」の字が残る破片(縦1.7cm、横1.4cm)を3次元計測した結果、「正始元年、陳是作鏡…」との銘文が入った蟹沢古墳(高崎市)の三角縁神獣鏡と一致し、同じ鋳型を基に作った兄弟鏡と分かった。ほかに森尾古墳(豊岡市)、竹島御家老屋敷古墳(新南陽市)でも発見されており四例目となる。
 魏志倭人伝には、「正始元年(240)に帯方郡太守弓遵が使者を遣わし邪馬台国の女王・卑弥呼に金印や鏡を賜う」と記している。この鏡を、魏から贈られた「銅鏡100枚」の一つとし、被葬者が卑弥呼から直接譲り受けた可能性もあるという。使者は景初3年(239年)に魏へ渡り、翌年帰国。これまで景初3年や正始元年の年号が入った三角縁神獣鏡が各地で見つかっていたが、なぜか配布元と想定される初期大和政権があった奈良県ではゼロだった。今回初めての出土で、「邪馬台国論争」にも影響を与える鏡研究の貴重な資料となる。

<鏡は絹袋に包まれていた>
 県立橿原考古学研究所の調査で8日、鏡の表面に繊維の痕跡があることが分かった。織り目が極めて細かいことから、平織りの絹と推定され、鏡は石室内に副葬される際、1枚ずつ絹袋に包まれていた可能性が浮かび上がった。
 多数の鏡片のうち「斜縁神獣鏡(しゃえんしんじゅうきょう)」と呼ばれる中国製の鏡片(縦2cm、横3cm)などで、繊維の痕跡が確認された。布は腐食して既になくなっていたが、繊維が付着していた部分が錆びたため、織り目の凹凸が錆として残っていた。
 こうした破片は、内行花文鏡の破片などでも確認されたという。
 同古墳とほぼ同時期に築造され、34面の銅鏡が出土した黒塚古墳(天理市)では、ほぼすべての銅鏡に繊維そのものや痕跡が残っており、すべての鏡が1枚ずつ平織りの絹で包まれていたとされている。

 このほか、国内最大のガラス製管玉(長さ8・16cm)や石製品なども見つかった。遺物は13日から31日まで、橿原市畝傍町の県立橿原考古学研究所付属博物館で展示される。
[参考:産経新聞、中国新聞、奈良新聞、東京新聞、共同通信、朝日新聞、毎日新聞、時事通信]

過去のニュース・情報
 桜井茶臼山古墳

参考
 銅鏡破片81面分が出土…奈良・桜井茶臼山古墳(読売新聞) - goo ニュース
 国内最多、銅鏡81枚を副葬 奈良・桜井茶臼山古墳(共同通信) - goo ニュース
 国内最多81面の銅鏡の副葬判明 奈良・桜井茶臼山古墳(朝日新聞) - goo ニュース
 国内最多81枚の銅鏡副葬=半数は大型、卑弥呼時代のものも-桜井茶臼山古墳で(時事通信) - goo ニュース
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桜井茶臼山古墳 韓国発ニュース

2009年10月29日 | Weblog
 韓国のニュースで、日本の発掘調査情報を採り上げるのは非常に稀であるので、29日に聨合ニュースで採り上げていた「茶臼山古墳(차오스야마고분)」を紹介してみる。
 ニュースのタイトルが「독극물 황화수은으로 범벅한 일본 고분」。訳すと「毒劇物硫化水銀でまぜこぜにした日本古墳」。「まぜこぜにした(범벅한)」の表現はあまりよろしからぬ。
 「朱砂あるいは辰砂と称する硫化水銀(HgS)を何と200㎏も注ぎ込んだ西暦300年頃古代日本の古墳が発見された。」と始まる。前方後円墳、竪穴式石室、木棺についての説明がなされ、重点はやはり、硫化水銀のこと。
 「墓に硫化水銀を振りまく理由は死体の腐敗防止のためだという主張が通説だ。だがこのような埋葬方式は日本ではもちろんのこと、黄南大塚と天馬塚をはじめとする新羅時代積石木槨墳と中国でもたまに確認されており、しかも硫化水銀が道教神学では永遠を保障する仙薬の中でも薬効が最も優れた薬品に選ばれたという点で道教の濃厚な影響力をみせる証拠とする見解もある。」と結んでいる。
 石室の天井石を上から写した写真7枚と石室の底の写真1枚を公開している。鮮明にアップで撮ったものがあり参考になる。
[参考:聨合ニュース]

過去のニュース・情報
 桜井茶臼山古墳
 ベニバナ
 
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桜井茶臼山古墳 全面を朱で彩った石室を60年ぶり発掘し一般公開 

2009年10月22日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が22日、桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀前半、前方後円墳、全長200m)で全面を朱で彩った石室が約60年ぶりに確認され公開した。
 大王クラスの墓の中心部が明らかになるのは極めてまれで、竪穴式石室は内寸で長さ6・75m、幅約1・27m、高さ約1・71m。石室内の四方の壁は板石(幅50~60cm、最大長1m、幅80cm、厚さ12cm)1千枚以上をレンガのように整然と積み重ねて構築し、天井は12枚の巨石(最大長2.75m、幅76cm、厚さ27cm)を乗せて塞いでいた。石はすべての面に朱が塗られており、水銀朱をふんだんに、少なくとも200kg使っている。魔除けや防腐のためとみられる。水銀朱は、大和(奈良県)で産出した辰砂(しんしゃ)という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、石材に塗ったとみられる。国内の古墳で使われた水銀朱は、これまで大和天神山古墳(天理市)で確認された42kgが最多とされていた。
 石室内に残っていた木棺は、ほぼ当時の状態で残っていた。長さ4.89m、厚さ27cm、丸太を刳りぬいた形で遺物はなかった。木棺は石室から取り出し、橿考研で保存処理している。
 1949~50年同研究所の発掘調査で石室と木棺は見つかっていたが、当時は一部の研究者が確認しただけで公開されていなかった。石室構造などの解明を目指し、今年から再調査を進めていた。
 石室内からは、被葬者の権力を推定するのに役立つ銅鏡片なども多数出土しており、整理を進めている。
 現地見学会が、29~31日(午前10時~午後3時)に開かれる。
[参考:共同通信、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、産経新聞]

全面朱塗り、大王の石室を確認 奈良・桜井茶臼山古墳(共同通信) - goo ニュース
全面朱塗りの石室出土 大王の墓?奈良・桜井茶臼山古墳(朝日新聞) - goo ニュース
水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開(読売新聞) - goo ニュース

過去のニュース
 桜井茶臼山古墳

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桜井市・桜井茶臼山古墳 発掘再開へ

2009年08月08日 | Weblog
 今年6月12日、桜井茶臼山古墳(前方後円墳、全長約200m、3世紀末~4世紀初め)の「方形壇」と呼ばれる祭壇遺構の周囲から丸太をすき間なく並べた「丸太垣」跡が見つかったと発表されたが、県立橿原考古学研究所(橿考研)は8月後半に発掘を再開し、石室内を改めて調査する。丸太垣が完全に石室上部を取り囲んでいたかを確認するとともに、60年前に石室内で確認したコウヤマキ製の木棺を取り出す計画という。
 石室内の全体が見えるようになった段階で、現地説明会を行う予定にしている。
[参考:毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2009.6.14 桜井市・桜井茶臼山古墳 木棺はコウヤマキ製と特定
 2009.6.12 桜井市・桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかる 
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桜井市・桜井茶臼山古墳 木棺はコウヤマキ製と特定

2009年06月14日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所は13日、「玉垣跡」とみられる柱穴列が見つかった桜井茶臼山古墳で、遺体を安置した木棺が、コウヤマキの木で作られていたと発表した。
 竪穴式石室は、昭和24年の調査によって、長さ6・8m、幅1・3m、深さ1・6mの規模と判明し、木棺の底板が長さ5・2m、幅70cm分見つかった。当時の分析では、マツ科の針葉樹「トガ」と鑑定されていた。
 同研究所が、木棺を納めた竪穴式石室周辺を発掘したところ、長さ数cmの木の破片100点以上が出土。木棺の一部とみられ、顕微鏡で詳細に観察した結果、細胞の形などからコウヤマキと特定した。
 古墳の木棺は通常、石室内に流入する土砂などによって腐食して残らないことが多いが、初期大和政権中枢部に築かれた前方後円墳の大和天神山古墳(同県天理市、全長103m)や前方後方墳の下池山古墳(同、全長120m)などでは木棺が残っており、いずれもコウヤマキ製だった。
[参考:産経新聞]
過去のニュース・情報
 2009.6.12桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡
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桜井市・桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかる 

2009年06月12日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が12日、初期大和王権の大王級の墓とされる桜井茶臼山古墳(前方後円墳全長200m、3世紀末~4世紀初め)後円部で、石室上部を取り囲んで丸太をすき間なく並べたような巨大な垣の一部とみられる柱の痕跡が見つかったと発表した。
 同研究所は「丸太垣」と名付け、神聖な空間として区画したとみている。古墳から木造構造物跡が出土したのは初めてという。ただし、前方後円墳など定型化した古墳が出現する古墳時代以前では、弥生時代の墳丘墓上から柱穴が出土した例がある。
 同古墳は1949~50年に調査され、同研究所が09年1~3月に改めて学術調査した。
 後円部中央石室の上部に盛り土をして造った「方形壇」と呼ばれる祭壇遺構(東西9.2m、南北11.7m、高さ約1m)の周囲98㎡を調べた。方形壇の周囲4カ所から幅約1mの溝が見つかり、いずれにも丸太がすき間なく並んだとみられる柱穴(直径30cm)が計10個あった。柱が埋め込まれた深さは1.3mで、通常はこの2倍程度が地上に出るとされる。未発掘の部分も含め当時は全体を、地上高2.6mの約150本の柱が「丸太垣」として、方形壇を四角に囲っていたらしい。着色塗料は検出されず、柱は白木だったとしている。
 このほか、壇の上には縁に沿って被葬者に供物を捧げることを象徴した二重口縁壺が置かれ、葬送儀礼の後、垣で一帯を完全に塞いだらしい。
 埴輪で埋葬施設を囲む儀礼の原型とみられ、同研究所は「被葬者を邪気から守り、聖域を示した結界だろう」とする。
 この古墳に続いて築かれた同市内のメスリ山古墳の方形壇は、直径50cm~1mの円筒埴輪を密接させ二重に並べる。「丸太垣」は、メスリ山の埴輪列の前身とみられる。
 古墳時代初期の大王墓の形態や、葬送儀礼の実態を示す一級の成果。
 新たに三角縁神獣鏡などの銅鏡の破片153点も出土した。昭和24、25年の調査で見つかった20枚近くの鏡と合わせると、計40~50枚を副葬したとの推測もできる。国内最多の40枚が出土した福岡県前原市の平原(ひらばる)1号墓(弥生時代後期、)を上回る可能性も出てきた。鏡の破片は竪穴式石室周辺から出土し、大半が数cm大に割れていた。
 石室周辺からは大量の炭も出土し、被葬者の遺体を石室に埋葬したのち、火を使った儀式が行われたことも判明。玉垣跡のすぐ外側には、長さ1m前後の平らな石で塞いだ溝状遺構も2カ所で確認され、今後さらに調査を進める。現地はすでに埋め戻され、今回説明会は行われない。
 同研究所は8月から竪穴式石室を再発掘し、その後に現地説明会を行う予定という。

■桜井茶臼山古墳
 奈良盆地東南部に6基が集中する古墳時代前期(3世紀中ごろ~4世紀初め)の大型前方後円墳の一つ。石室を特殊な壺で囲んでいるのが特徴。石室は盗掘されているが、碧玉製品や武具など副葬品は豊富。被葬者は分かっていない。
[参考:共同通信、毎日新聞、朝日新聞、産経新聞]

桜井茶臼山古墳で石室囲む巨大垣 奈良県立橿原考古学研が発表(共同通信) - goo ニュース
後円部に柱列で囲んだ「聖なる空間」…奈良・桜井茶臼山古墳(読売新聞) - goo ニュース
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