歴歩

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大和郡山市・平城京跡 羅城の柱跡を確認 瓦葺の築地塀

2011年10月26日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が26日、平城京(710-748)の正門・羅城門跡のすぐ西側(右京)にある大和郡山市観音寺町などの発掘現場で、8世紀の羅城(城壁)跡とみられる柱列跡が見つかったと発表した。 周辺で大量の瓦が見つかり、京の南辺に位置し外国使節を迎えた羅城門の両脇付近が寄柱(よせばしら)を持つ瓦葺の築地塀だったとみられる。
 羅城跡が確認されたのは、平成17年に羅城門跡から東約500mの下三橋遺跡((しもみつはしいせき)で発見されて以来2例目。 柱列は計6個の柱穴(一辺50~60cm、柱径は10~15cm)で、穴の底には礎板が入っており、2・7m間隔で東西に並んでいた。
 この柱列の南側で2個の柱穴らしき跡も見つかったが、用途は不明。
 17年の調査で見つかった羅城跡の柱穴は一辺約1m(柱径約30cm)で、今回出土した羅城とは異なる構造という。
 近くから、土馬(どば、高さ約15cm、幅約11cm)や和同開珎、饒益神宝(じょうえきしんぽう)(注1)など5種6点の銭貨、銅製鈴など祭祀遺物が出土した。
 現場は既に埋められ、現地説明会はない。 出土した土馬や軒瓦などは、27日から橿原市の橿考研付属博物館で展示される。
 (注1) 饒益神宝の初鋳は貞観元(859)年
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞、毎日新聞、奈良新聞]

「羅城」の遺構の柱列か…平城京羅城門跡近く(読売新聞) - goo ニュース
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唐津市・唐津城跡 城内から金箔瓦と最古の石垣が出土 築城以前の遺構

2011年10月26日 | Weblog
 唐津市教委は25日、唐津城跡の本丸文化財調査で、天守台石垣南側に広がる二の曲輪(中段広場)の天守台下から、築城以前のものとみられる石垣と、石垣の裏の盛り土から金箔が付いた瓦の破片が見つかったと発表した。築城以前の状態を示す遺構が発見されたのは初めて。
 市教委によると、石垣は地下1・5mで8月下旬に見つかった。残っていた石垣は高さ3・5m、南北に延長5・7mで、50cm~1mの石20個を確認した。
 金箔瓦の破片4点は、地表から0・5~2mの盛り土の中から出土した。こぶし大で、黄褐色。鯱瓦(しゃちがわら)とみられ、鰭の形や目、口が描かれている。
 唐津城は伝承や江戸後期の文書から1602~08年に築かれたというのが定説であり、これまでに見つかった最古の石垣は唐津城築城(1602)時期のものだった。しかし、旧石垣は自然石を積み上げた工法から、名護屋城(唐津市鎮西町)築城が始まる天正19年(1591)から、慶長年間前半(1605頃まで)のものとみられる。
 また、城郭で金箔瓦が使用され始めたのは安土桃山時代から。 文禄・慶長(1592-98)の役の拠点・名護屋城(唐津市鎮西町)を築いた秀吉は、軍事的拠点などに限って金箔瓦の使用を認めており、市教委は同城に近い唐津城のある満島山に後方支援の拠点を築かせたと推測する。 櫓や御殿など、唐津城より以前に金箔瓦を用いた重要建築物があった可能性があるとみている。
 唐津城では2009年4月~10年12月の調査でも4点の金箔瓦の破片が発見されているが、表土や後世の土層で発見されており、年代などは特定できていなかった。
 文禄・慶長の役では、周辺を120に及ぶ大名の陣屋が囲んだ名護屋城を本営として、壱岐や対馬を前衛拠点、筑前の名島城などを後衛の拠点としていたことが知られており、唐津にも重要拠点が築かれていたと考えられる。
 現地説明会が30日(日)午前10時に開かれる。集合は同城跡中段広場。
[参考:佐賀新聞、読売新聞、毎日新聞、唐津市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.29 唐津城 本丸西側から築城期の石垣を発見
 2009.6.24唐津城 名護屋城と同じ文様の瓦が大量に出土
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