歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・荒池瓦窯 東大寺講堂の瓦工房跡か

2011年10月20日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が20日、奈良市高畑町の奈良公園内にある民家の敷地で、東大寺の講堂建築時に屋根瓦を供給していた可能性がある工房跡の一部が見つかったと発表した。
 周辺は天平勝宝8(756)年の正倉院宝物「東大寺山堺四至図(さんがいししず)」に描かれた「瓦屋」との表記がある場所で、1928年の道路工事では「東大寺式」や「興福寺式」なの奈良時代の瓦が大量に見つかり「荒池瓦窯」の遺跡名で注目されていた。
[参考:共同通信、産経新聞]
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松浦市鷹島町沖 海底から元寇船の底部を発見

2011年10月20日 | Weblog
 琉球大池田栄史教授(考古学)の研究グループは19日、松浦市鷹島町沖の水深20~25mの海底から約1m掘った地中で、鎌倉時代の元寇で沈んだ元の軍艦の船底部分を見つけたことを明らかにした。 これまで船室を仕切る板や碇(いかり)石などは見つかっていたが船体の構造が分かるような状態で発見されたのは初めてという。
 今回見つかったのは船底の背骨に当たる「竜骨(キール)」(幅約50cm、長さ約15mの木材)とその周囲の「外板」。
 確認された竜骨から船の全長は20m以上になるとみている。
 これまでに見つかったものと同じような中国産陶磁器の破片や磚(せん)も見つかった。
[参考:長崎新聞、産経新聞、読売新聞]

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盛岡市・臨済宗妙心寺派 大智山 法泉寺 「金森頼錦の墓」

2011年10月20日 | 盛岡

左写真は本堂、 右写真は山門

臨済宗妙心寺派 大智山法泉寺 (盛岡市北山2-16-8)
 江戸時代前期(1624-1644)、東禅寺(臨済宗妙心寺派)の住職・東岩和尚が開創。 盛岡五山(注1)のひとつ。
 寛文11年(1671)、南部家第29代重信が、第30代行信の母堂・大智院の菩提のために建立(再興)して、法泉寺と称したとされる。 この時の中興開山が朱巌和尚である。 寺領百石。
(注1) 南部家第26代(初代盛岡南部藩主)南部信直は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた際に、京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼び領内の寺社を集め、聖寿寺、東禅寺、法泉寺(以上臨済宗)、報恩寺(曹洞宗)、教浄寺(時宗)を特に「盛岡五山」と定めた。
[参考:法泉寺HP、「盛岡の寺院」(盛岡仏教会1995発行)]


 金森兵部頼錦の墓 右写真に見える墓の左面(裏面)には「金森兵部頼錦」と刻まれ、その表面には法号が刻まれ、美濃郡上の方を向いている。

金森頼錦の終焉の地・盛岡
 金森頼錦(1713-1763)の墓が法泉寺にあるというので、出掛けてみる。寺に着くと、東側に墓地が見える。丘陵の斜面に細長く広がっており探すのが非常に大変そうである。 お寺を訪ねて、場所を教えていただいた。 先ほどの墓地とは反対側の寺の西側、数軒ほどの民家を越えた場所にある。往時は、寺の境内であったそうだ。 金森頼錦の墓は上り坂を上がって、さらに背丈ほど少し高くなったところにある。 墓だけが、ぽつんと一基、見晴らしのよい場所にある。 法号が刻まれた墓碑面は故郷を向いているようだ。大事に葬られたことが窺える。 墓の前には説明板が立っている。

 金森兵部(ひょうぶ)の碑
 金森兵部は少輔(しょうゆう)頼錦(よりかね)と言い、美濃郡上藩(現岐阜県)3万8千石の藩主でしたが、宝暦八(1758)年に領民騒擾(そうじょう)の責任を幕府から問われ、領地没収の上、盛岡藩へ御預けになりました。
 盛岡藩では、城下内丸に新たに屋敷を構え、御附役を配して厚遇しておりましたが、宝暦九年二月の流謫(るたく)から四年余り過ぎた同十三(1763)年六月に病死しております。享年五一歳。埋葬地は、法泉寺の墓所であったこの場所で、碑はこの時に建てられたものです。その後、碑は法泉寺によって大切に守られてきました。
 金森家は長く謹慎の身に置かれておりましたが、嫡孫靱負(ゆげい)が幕府の旗本に召し出されたのを機に、寛政元(1789)年に遺骨は江戸へ引き取られております(注4)。
 碑の前面に「曹雲院殿性海善理大居士」(注2)の法号、後面には「金森兵部頼錦」の実名が、そして左右の側面に「宝暦十三年六月六日」(注3)の没年が刻まれています。碑は兵部の望郷の念を慮って、美濃郡上を向いて建てられたと言われます。
平成十六年三月 盛岡市

(注2) 東京広尾・祥雲寺(臨済宗大徳寺派)での法号は「覚樹院殿前兵部侍郎茅山清藍大居士」
(注3) 実際には「宝暦十三癸未禩」「六月六日」と刻まれている
(注4) 頼錦死から26年後、金森家再興の翌年寛政元年(1789)に頼興(1753-1797)は遺骨を引き取り火葬の上、京都・大徳寺あるいは江戸・祥雲寺に改葬したとしている。
 2005年6月10日盛岡タイムス 〈古文書を旅する〉66 工藤利悦(注5) 南部家お預かりの大名の由来とその後(3)
 2006年11月10日盛岡タイムス 〈古文書を旅する〉140 工藤利悦 郡上八幡金森様ご病死につき
            (注5)工藤利悦氏: 「近世こもんじょ館」(盛岡市)主宰
に、頼錦の盛岡での日常の様子および埋葬のことが記されている。
 頼錦の死後、遺骸は長さ6尺8寸5分(2.1m)、高さ1尺9寸4分(0.6m)、横2尺8寸6分(0.9m)の箱に入れ、いっぱいの塩が詰められた。
 その後、頼錦の孫靱負頼興(注6)の代、天明八年(1788)に1500石で名跡を継ぐことが許され、頼興は翌寛政元年(1789)祖父(注6)の遺骨を引き取るため僧等を引き連れ、盛岡に到着、火葬の上法事万端を済ませ江戸に帰ったという。 「篤焉家訓(とくえんかくん、市原篤焉筆)」によれば、遺骸を掘り出したところ、形は少しも損なっていなく、塩は固まってきれいであったという。 その後、京都紫野大徳寺寺中にある金森家墓所に葬られたとしている。
(注6)頼興は頼錦の六男のはずで、間違いでは?

過去の関連ニュース・情報
 2011.5.27 渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 金森家の菩提寺として

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