宮沢賢治が盛岡高等農林学校3年の大正6年(1917) 10月31日に、同人誌の仲間4人で写真を撮ったといわれる奈良写真館があった場所を探しに出掛けてみました。
盛岡駅方面より中ノ橋を越えて、岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行)の手前を左に曲がり、細い道を中津川沿いに歩いたところにあるはずです。
(写真左) 奥に見える青色は中ノ橋。中央は雑貨屋の茣蓙九 森九商店(ござく もりくしょうてん)の土蔵群。 江戸時代後期から明治時代末期にかけて建てられたもので、昭和54年に保存建造物指定を受けています。 表の通りに面した店の構えは、昔ながらの面影を色濃く残しています。 残念ながら写真には収めていませんでした。
(写真右) 左に茣蓙九 森九商店の土蔵群。 その右(写真中央)が喫茶店「深草」。 さらに右に進むと中ノ橋がある。
Azalea(宮沢賢治と「アザリア」の友たち)さん から教えていただいた、喫茶店「深草」で場所を聞いてみようと、朝9時40分頃に店の前に着きました。 店は開いていなく、散歩しながら付近の写真を撮っている間に、飼い犬の世話で店主が外に出てこられました。 奈良写真館のあった場所を聞いてみると、「そこの角だよ」と。 「角」となると、先ほどの、中の橋を越えて、岩手銀行中ノ橋支店の横庭(ばらを植えている場所)あたりになるのではないでしょうか。 判然としないが...、家に戻ってからあらためて調べてみることにしましょう。 店主は、かなりのご高齢。 奈良写真館が開業をしていた最後の年・1933年は、まだお生まれでないかもしれないし、お生まれであったとしても覚えていないくらいのお歳かと。
上地図は、「深草」の店主が指示した場所。 下写真の緩やかな坂を上り切った左側で、岩手銀行中ノ橋支店西側の庭あたりとなる。 当時は、多分緩やかな坂はなく、水平であったと思われる。
さて、家に戻ってからいろいろ調べた結果、少ない情報の中からわずかな出来事と、写真を探しました。
まずは、考察するのに中ノ橋、宮沢賢治、盛岡銀行に関する簡単な年表を作ってみました。
<中ノ橋、宮沢賢治、盛岡銀行に関する年表>
慶長16年(1611) 中ノ橋が架けられる。 以後、洪水による数度の流失がある。
明治35年(1902) 奈良写真館開業。
明治42年(1909) 4月 賢治、盛岡中学へ入学(~1914.3)
明治43年(1910) 9月3日 中津川大洪水で中ノ橋が流される。
中ノ橋流失直前の写真(写真1)が[2006年3月13日盛岡タイムスHPおよび北上川学習交流館「あいぽーと」HP]に載っている。
明治44年(1911) 4月 盛岡銀行本店が完成。
同年 7月9日 某写真集に掲載の奈良写真館(写真2)の撮影日
明治45年(1912) 4月 中ノ橋は洋風で石組橋脚の橋に架け替え。 欄干は鉄製。 護岸は石造とし、石積みは高くなった。
大正3年(1914) 4月 賢治、盛岡高等農林学校入学(~1918.3)
大正6年(1917) 10月31日 同人誌「アザリア」の仲間4人で、奈良写真館で写真(写真3)を撮る。
大正7年(1918) 4月 賢治、盛岡高等農林学校研究生(~1920.5)
昭和6年(1931) 盛岡銀行経営破綻。
昭和7年(1932) 5月2日 岩手銀行が設立。(旧盛岡銀行の建物を使用)
昭和8年(1933) 奈良写真館閉館。宮沢賢治亡くなる。
盛岡市上下水道局HPに当時の盛岡銀行(西側)の小さい写真(写真4)が掲載されていた。
昭和9年(1934) 盛岡市で初めて水道の給水を開始
昭和31年(1956) 中ノ橋、現在の橋へ架け替え。
<考察>
奈良写真館が開業してから8年後に大洪水が起こり、中ノ橋が流失しました。 中ノ橋のたもとにあったとされる奈良写真館がどうなったのかは不明ですが、奈良写真館は上流側にあり、助かった可能性があります。
(写真2)の奈良写真館の右手前に橋らしきものが写っています。 現在の写真と比べてみると、川沿いの細い道が橋に近づくに連れて傾斜をつけて上がっていくのに対して、奈良写真館があった当時は、傾斜なしにそのまま平行な道になっていたのではないでしょうか。 すなわち、旧盛岡銀行の地面に対して、奈良写真館の地面は低い位置にあります。 したがって、現在、旧盛岡銀行の西側の庭は、奈良写真館がなくなった後、かなり盛り土をしたのではないでしょうか。
2012.1.17追記
奈良写真館の写真が「蔵から出てきた盛岡 : よみがえる写真乾板 / 伊山治男 編」(東京 : 国書刊行会, 1989.7)に収蔵されているようです。
2012.1.31追記
「蔵から出てきた盛岡 」を図書館から借りてきて、あらためて読み直しています。
奈良写真館の写真が3枚ありました。年代順に、
①明治35年開業当時のもの。場所不明となっています。「本日開業 奈良写真館」と書かれた幟(旗竿)を持ち、その後ろから笛、太鼓を持つ人が練り歩く姿が写されています。また、幟の字は裏になっているところを写しているので見えにくいのですが、先の「本日開業 奈良写真館」の両側に「中の橋 東川岸」と書いてあるように見えます。よく見ると、真ん中に写っている建物の屋根に「奈良寫眞館」の看板が架かっています。②、③の建物とはまったく別のもので、これが開業当初の奈良写真館のようです。すると、②、③の奈良写真館は、明治35年から44年の間に移転ないし建替えしたことになります。
②明治44年3月3日撮影のもの。整備前と記しています。
③明治44年7月9日撮影のもの。中ノ橋際にあった。大水害被災後整備したと記しています。②にはなかった「奈良寫眞館」の看板が屋根に掲げられています。この看板は、もしかしたら①の看板と字体、大きさ、配列が似ており、同じのものかもしれません
いや、よく見ていくともう1枚あるようです。初めの方のページに、中ノ橋の西川岸際から岩手銀行を見た写真があり、写真の説明に「明治43年洪水で流出後、架けられた中ノ橋。金属の欄干となった。左端の白い蔵は奈良写真館。」と書いてあります。岩手銀行と中津川の間のスペースの左に白い蔵が見え、少し間隔を置いて同じような白い蔵が見えます。それが、奈良写真館ということなのでしょう。 先の③には、「奈良寫眞館」の看板を屋根の上に掲げた2階建ての建物とその左に白い蔵が写っています。同じ形の白い蔵です。喫茶「深草」の右隣にその白い蔵があったような感じですが、いかがなものでしょうか。
過去の関連ニュース・情報
2011.7.5 盛岡市・中ノ橋・奈良写真館 宮沢賢治ゆかりの写真館
宮沢賢治(宮澤賢治)
キーワード:奈良写真館、 奈良真順
盛岡駅方面より中ノ橋を越えて、岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行)の手前を左に曲がり、細い道を中津川沿いに歩いたところにあるはずです。
(写真左) 奥に見える青色は中ノ橋。中央は雑貨屋の茣蓙九 森九商店(ござく もりくしょうてん)の土蔵群。 江戸時代後期から明治時代末期にかけて建てられたもので、昭和54年に保存建造物指定を受けています。 表の通りに面した店の構えは、昔ながらの面影を色濃く残しています。 残念ながら写真には収めていませんでした。
(写真右) 左に茣蓙九 森九商店の土蔵群。 その右(写真中央)が喫茶店「深草」。 さらに右に進むと中ノ橋がある。
Azalea(宮沢賢治と「アザリア」の友たち)さん から教えていただいた、喫茶店「深草」で場所を聞いてみようと、朝9時40分頃に店の前に着きました。 店は開いていなく、散歩しながら付近の写真を撮っている間に、飼い犬の世話で店主が外に出てこられました。 奈良写真館のあった場所を聞いてみると、「そこの角だよ」と。 「角」となると、先ほどの、中の橋を越えて、岩手銀行中ノ橋支店の横庭(ばらを植えている場所)あたりになるのではないでしょうか。 判然としないが...、家に戻ってからあらためて調べてみることにしましょう。 店主は、かなりのご高齢。 奈良写真館が開業をしていた最後の年・1933年は、まだお生まれでないかもしれないし、お生まれであったとしても覚えていないくらいのお歳かと。
上地図は、「深草」の店主が指示した場所。 下写真の緩やかな坂を上り切った左側で、岩手銀行中ノ橋支店西側の庭あたりとなる。 当時は、多分緩やかな坂はなく、水平であったと思われる。
さて、家に戻ってからいろいろ調べた結果、少ない情報の中からわずかな出来事と、写真を探しました。
まずは、考察するのに中ノ橋、宮沢賢治、盛岡銀行に関する簡単な年表を作ってみました。
<中ノ橋、宮沢賢治、盛岡銀行に関する年表>
慶長16年(1611) 中ノ橋が架けられる。 以後、洪水による数度の流失がある。
明治35年(1902) 奈良写真館開業。
明治42年(1909) 4月 賢治、盛岡中学へ入学(~1914.3)
明治43年(1910) 9月3日 中津川大洪水で中ノ橋が流される。
中ノ橋流失直前の写真(写真1)が[2006年3月13日盛岡タイムスHPおよび北上川学習交流館「あいぽーと」HP]に載っている。
明治44年(1911) 4月 盛岡銀行本店が完成。
同年 7月9日 某写真集に掲載の奈良写真館(写真2)の撮影日
明治45年(1912) 4月 中ノ橋は洋風で石組橋脚の橋に架け替え。 欄干は鉄製。 護岸は石造とし、石積みは高くなった。
大正3年(1914) 4月 賢治、盛岡高等農林学校入学(~1918.3)
大正6年(1917) 10月31日 同人誌「アザリア」の仲間4人で、奈良写真館で写真(写真3)を撮る。
大正7年(1918) 4月 賢治、盛岡高等農林学校研究生(~1920.5)
昭和6年(1931) 盛岡銀行経営破綻。
昭和7年(1932) 5月2日 岩手銀行が設立。(旧盛岡銀行の建物を使用)
昭和8年(1933) 奈良写真館閉館。宮沢賢治亡くなる。
盛岡市上下水道局HPに当時の盛岡銀行(西側)の小さい写真(写真4)が掲載されていた。
昭和9年(1934) 盛岡市で初めて水道の給水を開始
昭和31年(1956) 中ノ橋、現在の橋へ架け替え。
<考察>
奈良写真館が開業してから8年後に大洪水が起こり、中ノ橋が流失しました。 中ノ橋のたもとにあったとされる奈良写真館がどうなったのかは不明ですが、奈良写真館は上流側にあり、助かった可能性があります。
(写真2)の奈良写真館の右手前に橋らしきものが写っています。 現在の写真と比べてみると、川沿いの細い道が橋に近づくに連れて傾斜をつけて上がっていくのに対して、奈良写真館があった当時は、傾斜なしにそのまま平行な道になっていたのではないでしょうか。 すなわち、旧盛岡銀行の地面に対して、奈良写真館の地面は低い位置にあります。 したがって、現在、旧盛岡銀行の西側の庭は、奈良写真館がなくなった後、かなり盛り土をしたのではないでしょうか。
2012.1.17追記
奈良写真館の写真が「蔵から出てきた盛岡 : よみがえる写真乾板 / 伊山治男 編」(東京 : 国書刊行会, 1989.7)に収蔵されているようです。
2012.1.31追記
「蔵から出てきた盛岡 」を図書館から借りてきて、あらためて読み直しています。
奈良写真館の写真が3枚ありました。年代順に、
①明治35年開業当時のもの。場所不明となっています。「本日開業 奈良写真館」と書かれた幟(旗竿)を持ち、その後ろから笛、太鼓を持つ人が練り歩く姿が写されています。また、幟の字は裏になっているところを写しているので見えにくいのですが、先の「本日開業 奈良写真館」の両側に「中の橋 東川岸」と書いてあるように見えます。よく見ると、真ん中に写っている建物の屋根に「奈良寫眞館」の看板が架かっています。②、③の建物とはまったく別のもので、これが開業当初の奈良写真館のようです。すると、②、③の奈良写真館は、明治35年から44年の間に移転ないし建替えしたことになります。
②明治44年3月3日撮影のもの。整備前と記しています。
③明治44年7月9日撮影のもの。中ノ橋際にあった。大水害被災後整備したと記しています。②にはなかった「奈良寫眞館」の看板が屋根に掲げられています。この看板は、もしかしたら①の看板と字体、大きさ、配列が似ており、同じのものかもしれません
いや、よく見ていくともう1枚あるようです。初めの方のページに、中ノ橋の西川岸際から岩手銀行を見た写真があり、写真の説明に「明治43年洪水で流出後、架けられた中ノ橋。金属の欄干となった。左端の白い蔵は奈良写真館。」と書いてあります。岩手銀行と中津川の間のスペースの左に白い蔵が見え、少し間隔を置いて同じような白い蔵が見えます。それが、奈良写真館ということなのでしょう。 先の③には、「奈良寫眞館」の看板を屋根の上に掲げた2階建ての建物とその左に白い蔵が写っています。同じ形の白い蔵です。喫茶「深草」の右隣にその白い蔵があったような感じですが、いかがなものでしょうか。
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宮沢賢治(宮澤賢治)
キーワード:奈良写真館、 奈良真順