歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大津市・西教寺 観音菩薩立像の足ほぞに「法橋行快」の墨書

2011年07月15日 | Weblog
 大津市歴史博物館は15日、同市坂本5丁目の西教寺(注1)の木造阿弥陀三尊像の一つ「観音菩薩立像」(像高59cm)に、鎌倉時代の仏師快慶の弟子だった行快の名前が墨書されていたことが分かったと発表した。 現存する行快の名前が記された仏像では最古という。 三尊像のうち阿弥陀如来立像(像高81cm)も作風から行快作とみられという。
 仏像の足を台座に挿す「足ほぞ」と呼ばれる部分に「巧匠 法橋(注2)行快」と記されていた。法橋は僧侶の位だが、仏師にも与えられた。 行快が法橋の地位にあったとみられる時期から1216〜27年に作られたとみられる。
 行快の仏像は今月20日から大津市歴史博物館常設展示で展示される。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、NHK大津]

(注1) 天台真盛宗総本山 戒光山兼法勝西教寺: 聖徳太子の創建と伝わるが、定かでない。
(注2) 法橋、法眼と位が上がるが、法眼は1227頃に授かっている。

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.10 河内長野市・金剛寺 不動明王坐像の胎内から墨書が見つかり、行快作と判明
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東近江市・蛭子田遺跡 古墳時代後期の木製の壺鐙が出土

2011年07月15日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が14日、東近江市木村町の蛭子田遺跡(えびすだいせき)の地下約2mの川跡から5世紀後半~6世紀前半(古墳時代後期)の木製壺鐙(つぼあぶみ)が出土したと発表した。
 右足用とみられ、高さ20cm、幅14cm、奥行き16cm。 材質は針葉樹で、1本の木を刳り抜いて作っていた。 壺鐙上部には鞍から、紐で吊るす穴を開けた「鐙頭(あぶみがしら)」と呼ばれる突起がついている。国内で作った可能性が高いという。
 乗馬の風習は5世紀前半に朝鮮半島から日本に伝わり、5世紀後半~6世紀に普及したといわれ、初期の馬具を考える上で重要としている。 榎田遺跡(長野市)から出土した鐙が5世紀中頃~6世紀初頭のもので最古といわれるが、これに次ぐあるいは同時期のものとみられる。
 現地説明会が16日(土)13:30に開かれる。
[参考:京都新聞、共同通信、毎日新聞、滋賀県文化財保護協会HP]

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武市半平太が獄中で書いた漢詩の墨書が見つかる

2011年07月15日 | Weblog
 高知市立龍馬の生まれたまち記念館は14日、土佐勤王党首領の武市半平太(1829-1865)が、獄中でしたためた漢詩の掛け軸(高さ120cm、幅28cm)が、同館に寄託されたと発表した。

 獄中で作った漢詩集「泣血録」の中から一つを選び、切腹する前年の元治元年(1864年)頃の墨書。
 漢詩は、1行7文字、4行の七言絶句の形式で、「夢上洛陽謀故人 … 恨無限 只聴隣鶏報早晨 … 瑞山」 (京都に上り、同志と計画を謀り、巨奸を倒す夢を見た。夢から覚めるとびっしょりと汗をかいていて、恨み限りなく、夜明けに鶏の鳴き声を聞く)という内容。 瑞山は武市半平太の号で、武市瑞山とも称した。
 土佐藩の実権を握っていた元藩主・山内容堂への恨みが、強くうかがえるという。

 由来書によると、武市に心酔していた牢番・門谷(かどや)貫助(1843-94)の頼みで書かれた。門谷の知人の手に渡り、その子孫が他の資料とともに記念館に預けた。
 歴史家で高知県佐川町立青山(せいざん)文庫名誉館長の松岡司(まもる)氏が、筆跡や書体などから半平太の直筆と鑑定した。
 半平太が漢詩を作ったのは、獄中の2~3カ月に限られ、50近くを残したとされる。
 25日から8月24日まで同館の企画展「龍馬ゆかりの上町・小高坂の勤王志士たち」で一般公開する。
[参考:NNN高知放送、時事通信、読売新聞、産経新聞、朝日新聞]

武市半平太の獄中の書見つかる 切腹に「恨み限り無し」(朝日新聞) - goo ニュース
改革果たせず「恨無限」…半平太、獄中の漢詩(読売新聞) - goo ニュース
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