歴歩

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朝来市・竹田城跡 新たに石垣遺構確認 現地説明会を8月2日に開催

2008年07月31日 | Weblog
 朝来市教委が発掘調査している同市和田山町竹田の国史跡「竹田城跡」(標高約353m)の下約200mのふもとの畑から、新たに石垣遺構が見つかった。竹田城独特の穴太積(あのうづ)みと呼ばれる石積み技法と同じ可能性が強い。
 新しい石垣遺構は南西から北東方向に延び、長さ約2m。5~6個の自然石(長さ0.3~1m)で出来ている。
 06年度に見つかった石垣(長さ約4m)を含めて、長さは約21mと推定される。
 同時に出土した中国・明時代の陶器などから16世紀後半~17世紀に構築されたとみられる。
 竹田城跡の石垣は最後の城主、赤松広秀が16世紀後半に構築したとされ、総面積約18,700㎡が国史跡に指定されている。
 市教委は文化庁に史跡指定範囲の拡大を働き掛ける。
 8月2日午後1時半から現地説明会が開かれる。
[参考:毎日新聞]

竹田城
 標高354mの古城山(虎臥山)の山頂に築造される。形状から虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)とも云われ、また遥か高く見上げる山の頂に位置するために天空の城とも呼ばれる。
 但馬国守護大名山名持豊(宗全、1404~1473)により永享3年(1431)に築造された。完成は嘉吉年間(1441~43年)と伝えられる。
 当初は土塁造りの城郭であったが、豊臣秀吉の弟・羽柴秀長(1540~1591)から赤松広秀(1526~1600)の城主時代の改修工事により、総石垣造りの城郭となった。
石垣には織田信長が採用した穴太積みの技法が用いられている。
 最後の城主・赤松広秀は関ヶ原合戦では西軍に属し敗戦。家康の命によって、慶長5年(1600)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は廃城となった。
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朝鮮王朝初期 王室寺刹・大慈寺跡を発見

2008年07月31日 | Weblog
 15世紀始め、朝鮮王室願堂で建設され壬辰倭乱頃まで繁栄したが、その正確な位置が確認されていなかった古刹大慈寺 대자사 の正確な位置を把握できる考古学的跡が京畿高陽市大慈洞で発見された。
 現場調査を行った総務院仏教文化財研究所は建物新築工事過程で露出した魚骨文や格子門などを刻んだ無数の瓦と朝鮮前期特徴が濃厚に見られる陶磁器破片を多数収集し、建築物跡も確認した。
[参考:聯合ニュース]
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仙台市・長町駅東遺跡 見学会

2008年07月31日 | Weblog
 仙台市教育委員会文化財課は、同市長町駅東遺跡の見学会を行うことを発表している。
 今年4月より、国史跡郡山遺跡の役所跡官衙(かんが)を支えた集落跡と考えられている長町駅東遺跡の発掘調査を実施しており、その調査成果について公開する。

.調査成果の概要
 発掘調査を平成10年から行い、これまでに400軒以上の竪穴住居跡が発見している。
 特に本遺跡の集落は、当時の一般の集落とは違い、集落の周りを大溝と材木列で区画する構造になっている。
これまでの調査から、東側に隣接する郡山遺跡の役所跡(官衙)や寺院の造営や運営に関わった人々の大集落が存在し、この時期の集落としては、東北地方でも最大級の集落であった。
【37街区の調査】
 約20軒の竪穴住居跡や掘立柱建物跡・溝跡などを発見。平成15・16年度の調査で発見された、集落の区画施設である大溝跡や材木列の東側延長部分が発見された。
【40街区の調査】
 30軒以上の竪穴住居跡などを発見。この周辺が長町駅東遺跡の集落の南端となっている可能性がある。

一般向け遺跡見学会
 平成20年8月2日(土)午前10時より
 第1会場: 37街区 午前10時~10時40分
 第2会場: 40街区 午前11時~11時30分
[参考:仙台市教育局文化財課、河北新報]

備考
郡山遺跡(こおりやまいせき)は、現在の仙台市太白区郡山に所在する古代の官衙(役所)跡。
陸奥国の国府と推定される。
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守山市 播磨田東遺跡 市最大の前方後方周溝墓 

2008年07月31日 | Weblog
 市教委は、播磨田東遺跡から、古墳時代初頭(三世紀末)の市内最大の前方後方型周溝墓(全長26m)が見つかったことを発表した。市内でこれまで発見された9例の中では最大となる。今回の墓の南東5mの位置にも前方後方型周溝墓があり、二つの墓の関係についても関心が高まる。
 三世紀前半までの弥生時代の墓は四角く溝を掘り、真ん中部分に土を盛る「方形周溝墓」が主流だった。しかし、古墳時代に入り、実力者の墓として四角の一辺を途切れさせる前方後方型周溝墓が登場する。身分階層があったことを示す発見であり、古墳時代の王権体制を考えるうえで貴重とする。
 現地説明会は8月2日午後2時から開かれる。

 播磨田東遺跡では、これまでに円形の竪穴住居跡(約2千年前の弥生時代中期)、方形の竪穴住居跡(古墳時代前期)が見つかったり、平成14年8月には、古墳時代後期(5世紀末~6世紀代)の木棺墓から副葬品とみられる金製空玉とガラス小玉が出土している
[参考:中日新聞、守山市立埋蔵文化財センター(広報もりやま)]

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