歴歩

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風納土城・木塔址 井戸のようだ 

2008年07月01日 | Weblog
風納洞経堂地区遺跡は、木塔址ではなく井戸であるようだ 풍납토성 경당지구 유적 목탑지 아닌 우물인 듯(종합)
去る4月末に、ソウル市松坡区風納洞の風納土城で、百済時代の寺の木塔と推定される建物跡が発掘されたと報道された。
もし、事実であれば東アジア最古でしかも百済初の寺院跡であるはずであったが、その後も、この206号遺跡に対する韓神大博物館(責任調査員・権五栄教授)の調査が続けられ、このほど調査の結果、一辺10m、深さ3m以上なる規模の方形竪穴(くぼみ)を掘ったところ、板材と割石、砂利を利用して、井戸形に築造した特殊設備であることを確認した。この中には、数多くの土器が積まれている。

仏教寺院の木塔址と推定されたソウル風納土城経堂地区遺跡は、祭祀用建物と関連した特殊井戸である可能性が大きいことが明らかになった。
ソウル市依頼で8年ぶりに経堂地区発掘調査を再開した韓神大博物館は去る4月29日第一次指導委員会で漢城百済時代木塔跡と推定した206号遺跡に対する追加調査を進行した結果、一辺10m、深さ3m50㎝以上の規模で方形竪穴を掘った後、木板材と割石、砂利を利用して、井戸形に築造した特殊施設であることを確認したと30日発表した。
この方形竪穴は地表面で3mほど深さまでは石垣を利用し、その下底側の部分では四方壁面を、板材を使用して箱のように組んでいる。石垣は総27段が確認され、木類は現在まで4枚の板材層が現れた。
この施設が井戸であると最終確認された場合、風納土城一帯では二番目に確認される漢城百済時代の井戸となる。去る2004年国立文化財研究所が、風納土城東側城壁郊外周辺隣の地点の風納洞410番地一帯を発掘した結果まったく木槨だけの漢城百済時代井戸が確認されたことがある。
今回経堂地区で確認された推定井戸の場所下の方、特に木槨が始まる部分では無数の土器が重々積み上げられたまま確認されている。現在までこういう土器層は4つの層が確認されたが推定井戸跡の場所は未だに底を見せていない。
この竪穴出土遺物中、土器は完全な形で復元されたものだけでも120点以上と推し量れ、権教授は「出土状態から、割って入れたことでなく、ある種の意識により丁寧に積んだ形で安置したことが把握される。これら土器は、種類で見ると壷と瓶が圧倒的であり、さらにその口唇部は概してわざわざ割った状態と確認される」と話す。
これらの土器中、一部では龍と同じ動物を形象化したと推定される絵を描いて入れたのがあるかと思えば、底に十字形マークを刻んだ横缶장군(樽型𤭯(はそう))も発見された。 このうち、横缶は今までは栄山江流域だけに集中的に出土すると報告された遺物の理由に大変な関心を集めている。

一方、8年前の調査で中国製施釉陶器시유도기と銭文陶器전문도기を多数出土した196号遺跡では今回の追加調査でも同じ陶器を多量に出土した。銭文陶器が完全な形で6点を出土して、今回の追加で収拾された遺物は合わせるとは10点以上となる。

さらに、平面楕円形廃棄場と推定される217,218,220および222号遺跡を調査した結果、現れた円筒形器台기대(祭祀に使った器受け台)彫刻を接合して円形を復元した結果、高さが70㎝以上となり、従来この部門最大と記録された公州松山里古墳群出土の百済器台(高さ67㎝)を凌駕することが明らかになった。

また経堂地区だけでなく風納土城一帯で確認された百済時代遺跡全体を代表する代表格である44号建物址は、従来は東西と南北長さ各々13-14m程度に達する規模が現れたが、今回追加調査結果、東西、南北長さが皆、最小18mを超える宗廟のような大型祭祀建物址だったことを確認した。権教授は「築造工程で地表面を掘りおこした後、他の土を満たして埋める技法を3回程度繰り返す方式で築造して、壁内側には柱3本を組にして建てたことが分かった。調査対象地域外側に延びていて、その規模がどの程度であったかは現在としては確認が不可能だ」と話している。
[参考:聯合ニュース歴史ギャラリー]
備考:'장군'を直訳すると「将軍」だが、土器の用語では韓国語では「横缶」、日本語では「樽形𤭯」となるようだ。

これまでの発掘調査経緯
2008.3.30 風納土城址で百済の蓮華文瓦当が出土
韓神大博物館は206号遺構と命名された場所の試掘トレンチ調査中に蓮華文瓦片1点を採集したことを発表した。
この瓦(直径12cm程度)は全体の半分程度の破片だが、円形の凸線を二重に巡らして中心部を作り、その外郭を4~6等分し、蓮華の葉の図案を凸線で表現している。
 おそらく、漢城時代の百済の瓦と見られる。
[参考:聯合ニュース]

2008.4.30 風納土城址で建物址を発掘、最古の木塔か 
 韓神大博物館は29日、ソウル市松坡区風納洞の風納土城で、従来池の場所と推定された206号遺構が4世紀後半~5世紀前半に築造された木塔基壇である可能性が大きいことを発表した。
 もしそうであれば、百済に仏教が伝来した以降、最初に建設された木塔となる。さらに東アジアで最も古い木塔となる。
さらに、漢城都邑期百済(BC.18ーAD.475)で初めて発掘された仏教遺跡であるのと同時に『三国史記』と『三国遺事』の記録のように枕流王元年に、百済に仏教が導入され、その翌年に首都の漢山に立てられた寺院跡地の痕跡である可能性が高いと見られている。
 木塔跡は一辺の長さが約10mで、深さ3mほどの方形の穴が彫られており、内部を粘土と砂質土で交代で塗り重ね版築した後、その上に粘性が低い砂質粘土を埋めた構造である。これと似た形態の構造物が泗時代(538~660)、百済の木塔跡から発見されている。
 さらに、基壇中心部には直径2.5m程度範囲で掘削して割り石をいっぱい満たしたことが分かった。
 これを後押しするようにこの遺跡上層部では仏教と密接な蓮華文瓦当が出土している。
[参考:聯合ニュース、朝鮮日報]

2008.5.8 風納土城址 最古の木塔は確定の判断に至らず
 ソウル市の依頼で、再発掘中である韓神大博物館が7日経堂地区再調査1次発掘説明会を開催して現場を公開した。
 学界は今回の再調査成果の中でも4-5世紀百済時代木塔跡である可能性があると何日か前発表された「206号遺構」に多くの関心を示した。
 責任調査員の権五栄韓神大教授は「調査を進めるほどに、この遺跡が木塔跡である可能性がますます大きくなる。現時点でその可能性が 70%と見る。ただし、最終判断をするにはまだ早い。」と話した。
 ただし現場を見て回った多くの専門家たちは、この遺跡の性格に対する判断を留保した。木塔跡である可能性はあるがまだ調査が進行中の上に、それを確定するほどの決定的な証拠が不足するという理由を挙げた。
 権教授は「平面方形という平面構造、中心部で発見された積石部、平面内外で発見される柱穴と積心土跡、塔柱を建てる時に用意したことと考えられる斜道と推定される跡などからみて、ここが木塔跡である可能性が高い」と話す。
 現在まで明らかになったこの遺跡は南北11m、東西10.5mほどを地下3m以上の深さで掘った後、その内部に粘土と砂質土を交互に満たして入れる構造をしている。 また、その中心部には直径260㎝ほどの広さにかけて、河卵石と割石を地下130㎝の深さまでいっぱい満たしていた。
[参考:聯合ニュース]

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済州・三陽洞 紀元前後の住居址があふれて出土

2008年07月01日 | Weblog
제주 삼양동서 기원전후 유적 쏟아져 済州・三陽洞で紀元前後の遺跡あふれて出土
済州地域埋蔵文化財専門調査機関の(財)耽羅埋蔵文化財研究院は、1999年に国史跡416号に指定された済州三陽洞遺跡の郊外周辺の地点(海岸から1kmほど入った元堂峰の麓)で一戸建て住宅建設予定地約150坪から、同時代の住居址14棟が確認されたことを発表した。
平面円形7棟と長方形6棟、そして方形1棟を含んだ住居跡遺跡14棟である。
この他にも、基礎なしでそのまま土地に木柱を打ち込む掘立柱建物址3棟と、正確な機能が不明な竪穴遺構(くぼみ跡) 8基、石列遺構 1ヶ所、その他無数の木柱跡があらわれた。
これら遺跡では、紀元前2世紀以後西暦2世紀頃までこの地域で集中して製作された赤褐色硬質土器が多数出土した。
さらに今回の調査では、平面長方形の住居地と円形の住居地が互いに重なった状態で確認されることにより、済州道が先史時代以後耽羅国時代に移行する過程で、先に登場した長方形住居地を円形住居地が代えたという考古学界通説は全面再検討が不可避になったとする。
特に今回の調査成果は、三陽洞遺跡の分布範囲が史跡指定区域よりはるかに広かったことを示した点で大きな意味を持つと調査団は評価した。
[参考:聯合ニュース]

<備考>
三陽洞先史遺跡(삼양동선사유적)は紀元前・後1世紀を中心にした時期の住居跡約230余基が確認された大規模の村遺跡。
5月25日にはこの付近より、青銅器時代で初期鉄器時代(BC300頃?)の住居跡と甕棺墓5基を含む墓、小型竪穴など540基余りの遺跡が確認されたばかり。
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鳥取・琴浦町・梅田萱峯墳丘墓 現地説明会開催

2008年07月01日 | Weblog
6月28日(土)午後1時30分より、現地説明会が開催されたと鳥取県埋蔵文化財センター公式サイトより発表されました。約170名が参加とのこと。残念ながら、若干の説明会風景の写真があるだけで、詳しい説明はまだありません。
前日の毎日新聞には、県埋蔵文化財センターが26日に発表した内容が書かれていました。
新しい情報としては、
棺を囲むように掘られた五つ目の柱穴を確認した。
 柱穴は直径60~90cm、深さ70~90cm。柱は祭祀のために立てられたとみられ、棺を埋蔵した後で棺を囲むように柱穴が掘られ、さらにその後に土を盛り、その後、柱を抜いた跡が確認できた。
木棺の大きさは、厚さ約7cmの板を組み合わせた長さ約2m、幅約65~80cmと推定。
周囲に石を張り巡らす形式や形状から日本海沿岸で見られる「方形貼石(はりいし)墓」。
[参考:毎日新聞、前出記事]

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