歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大津市園城寺町 三尾神社 本殿は室町初期建立を確認

2008年07月06日 | Weblog
 園城寺(三井寺)の寺内社の一つ三尾神社(伊東忠美宮司)は、本殿の建立年代が室町時代初期の応永33年(1426)と判明したと発表した。同神社に残された文書に本殿建立の年代は記されていたが、現存の建物と同一か不明だったため、山岸常人・京都大大学院准教授(日本建築史)らが調査。本堂の構造・工法が室町初期の神社建築の特徴と一致した。
 同神社によると、長等山の神として信仰され、貞和3年(1347)に足利尊氏の命で復興し、慶長14年(1609)に大修理があった。政府の神仏分離政策で明治9年(1876)、寺の敷地外に移され、その際の記録に、応永33年に本殿が建立されたとあり、本殿にも「応永三十二年」と墨書された板材がある。神社の修理記録には、応永10年(1403)に本殿の資材や職人を集めた記述があった。
 山岸准教授は県教委の協力を受けて調査。その結果、
・屋根妻の材木の寸法比や組み合わせ方が、14世紀の同寺の寺内社「新羅善神堂」とほぼ同じで、室町時代の建築様式の特徴がある。
・このうち本殿では、中世の手斧・釿(ちょうな)という工具で表面を削った際にできる波状の跡が材木から見つかり、かんなの発達した近世以降の物ではないいことがわかった。
・建物側面にある木材を合掌に組んだ叉首(さす)と呼ばれる部材の幅が広い。
など、南北朝から室町期の特徴を残していたことが判明し、応永の本殿だと結論付けた。
 記者会見した山岸准教授は「県内の鎌倉から室町初期の神社建築はいずれも国宝・重文に指定されており、それに匹敵する歴史的価値がある」と話した。伊東忠美宮司(59)は「建物そのものから、歴史が裏付けられた」と喜ぶ。
[参考:毎日新聞、朝日新聞、京都新聞]
三尾神社
 祭神 伊弉諾尊
 太古の頃、伊弉諾尊が長等山の地主神として降臨したのが縁起の始まりとされ、神はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていたのが三つの尾を曳くように見えたところから「三尾」と名づけられました。 [三井寺ホームページより]
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八幡市・女郎花遺跡 現地説明会

2008年07月06日 | Weblog
昨日5日午後2時から市教委による現地説明会が開催された。60人が参加。
かつて豪族の支配地域だった男山東麓(とうろく)の南端で、新たな柱穴出土がしたことで、石清水八幡宮遷座前の中心地をうかがい知れると話す。
[参考:京都新聞、前出]

<備考>
周辺遺跡の年代など考察を、添付地図を参照に簡単に記してみます。
①女郎花遺跡H20発掘調査地(八幡女郎花) 今回
②女郎花遺跡H17発掘調査地(八幡大芝) 古墳時代後期~平安時代後期までの集落、その後、畑として利用。
③松花堂美術館 建設時に古墳時代の集落跡を確認。
④東車塚古墳 4世紀の前方後円墳。全長94m、後円部径53m、前方部幅30m。前方部が削平され松花堂庭園の築山になっており古墳の風情は残っていない。
⑤西車塚古墳 4世紀の前方後円墳。全長115m、後円部径70m、前方部幅32m。後円部が著しく大きい特徴。丘陵先端部を切断して築造。周辺には盾形の周濠跡が認められる。
⑥志水廃寺 奈良時代の8世紀中心とする時期の古代寺院。1977年の発掘調査で瓦積み基壇が1基発見されている。
⑦志水瓦窯跡 志水廃寺で使用した瓦を製作。
⑧月夜田遺跡 志水廃寺の遺物散布地。
⑨推定古山陽道 地割りと古代文献資料をもとに提示する足利健亮氏の説。和銅4年以降に整備され奈良時代を通じて使用されたと推定される。平安時代前期(9世紀)のうちに埋没する。
⑩石清水八幡宮 貞観元年(859)僧行教が4月朝廷に、男山に宇佐宮勧請を奏請し清和天皇が命じ造営させた。男山の地は平安京にとって西南裏鬼門にあたる地でもあった。
参考文献:
平成17年度 女郎花遺跡発掘調査(八幡大芝53-1他)現地説明会資料(八幡市教委)
平成18年度 志水廃寺(第4次)・月夜田遺跡発掘調査 現地説明会資料(八幡市教委)

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