歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

芦屋市・三条岡山遺跡 弥生時代の土孔、古墳時代の古墳と戦国時代の居館跡を発見

2008年07月26日 | Weblog
 芦屋市教委は、同市三条町の三条岡山遺跡で、弥生時代の土坑、古墳時代中期の円墳2基と、戦国時代の土豪の居館跡が見つかったことを明らかにした。
 同遺跡は神戸市東灘区との境界近く、六甲山系の麓に位置する同遺跡で、1960年に発見され、十数回にわたる発掘調査で、階段状の地形に弥生時代後期から室町時代までの遺構が重なる「複合遺跡」であることが判明している。
 今回見つかった円墳は直径10m程度で石室がなく、市内には、三条城山古墳群や八十塚古墳群など、石室を備えた六-七世紀の群集墳があるが、今回は石室がないため、阪神間の山岳部では初となる初期群集墳(五世紀末-六世紀初頭)とみられる。
 また、円墳の周溝に接するように堀が出土した土豪の居館跡には、池や滝など庭園の遺構を確認。十五世紀後半-十六世紀の築造とみられ、同時期に近くにあった鷹尾城の城主、瓦林正頼と関係のある土豪の住居だった可能性があるという。居館跡が斜面地で確認されるのは珍しいという。
 複数の時代の遺構が同じ場所から見つかったことについて、平野部を一望できる立地のよさがあり、歴史的に重要な地点であったことを示す貴重な発見と評価すると話す。
[参考:神戸新聞7/25]
 瓦林正頼(かわらばやし まさより ? - 永正17年(1520))
 瓦林は河原林、正頼は政頼と記されることもある。
 瓦林氏は室町時代、摂津・武庫郡付近の豪族であり、摂津国守護・細川氏に仕えていた。
 正頼は永正5年(1508)摂津守護となった細川高国に従い活躍した。 永正8年(1511)、高国の命令により、鷹尾城(芦屋市)に城を築いた。築城後すぐに細川澄元軍の播磨赤松氏に攻められ、落ち延びる。
 永正13年(1516)自らの拠点として越水城(西宮市)を築いた。その後鷹尾城を奪還し、城は家臣に守らせた。その後も、細川高国と細川澄元との戦いにおいて、高国方として活躍した。その間小康状態の時に、歌道を学び文化にいそしむ時があったが、永正17年(1520)高国から謀反の疑いを掛けられ自害を命ぜられた。

 鷹尾城は永正8年(1511)、細川高国の命令により瓦林正頼が六甲連山を背後に構える鷹尾山(標高260m)に築いた城である。鷹尾城は越水城の支城として機能し、永禄11年(1568)頃に廃城となった。
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雲仙市・伊古遺跡 有明海を挟んだ交流を示す熊本産土器が1000点出土

2008年07月26日 | Weblog
 雲仙市教育委員会は、同市瑞穂町西郷の伊古(いこ)遺跡で、熊本県の菊池川流域で作られたとみられる弥生時代から古墳時代にかけて土器の破片が約1000点出土したと発表した。
 古くから有明海を挟んで盛んに交流が行われたことを示す資料とする。
南島原市北有馬町の今福遺跡や雲仙市国見町の十園(じゅうぞの)遺跡でも同様に、熊本県内で製造された土器が出土している。

雲仙市・伊古遺跡 熊本産土器1000点出土 有明海挟んだ交流示す(西日本新聞) - goo ニュース
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坂井市・大善寺 木製観音像内部に銅製十一面観音像頭部を安置

2008年07月26日 | Weblog
 25日元興寺文化財研究所(元文研、奈良市)は、福井県坂井市の大善寺に伝わる江戸時代の木造十一面観音像(高さ59cm、18世紀中ごろ)の内部に、鎌倉時代制作とみられる銅製仏像の頭部(高さ9.4cm)が納められていることが、九州国立博物館のCTスキャン調査でわかったことを発表した。
 火災で焼け残った銅製の十一面観音像の頭部を、新たに造立した木製観音像内に安置して供養してきたとみられる。
 観音像は本尊を納める厨子の修理にあわせ、修理にあたった元文研がX線撮影したところ、胎内仏らしい影を確認したため、文化財の非破壊検査用では全国最大のCT装置を持つ九州国立博物館に協力を求めた。
 断層写真をコンピューター処理し、胎内仏を取り出さずに全国で初めて立体画像を撮影。3次元データをもとに樹脂で作製した複製品も完成させた。大きさや造形は外側の観音像の頭部より一回り小さい。
 寺の歴史を記した「縁起」(18世紀)には「本堂の火災現場から金銅仏の頭部が見つかった」と記述されている。
[参考:朝日新聞、日経新聞、産経新聞] 
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彦根・塚乞手古墳 スギ製の鳥形と笠形の木製埴輪2点出土

2008年07月26日 | Weblog
 25日滋賀県文化財保護協会は、彦根市肥田町の6世紀前半頃とみられる塚乞手(つかごって)古墳の周濠跡から、鳥形と笠形の木製埴輪2点が出土したことを発表した。
 鳥形の埴輪は、長さ59cm、胴部最大幅20・5cm、頭部最大幅13cmで飛行する鳥の姿を表している。胴部には、支柱を挿す穴があり、胴部の上面には翼を取り付けるための切り込み(幅24cm、深さ1・5cm)があり、飛ぶ鳥をかたどったとみられる。翼は確認されていない。
 笠形は円形で直径27cm、高さ8cm。貴人の傘を模っている。中央に9cmの方形穴がある。
 このほか、支柱とみられる長さ97cmの木材や土製埴輪の破片も出土した。
木製埴輪の樹種は、大半が古墳時代に棺に用いられたコウヤマキだが、出土した2点はスギ製だった。
 木製埴輪が出土した古墳は県内9基目で、計40点となった。湖南で7例、湖北で1例あり、今回は空白部だった湖東での発見で、協会は大和から近江を経て尾張へ伝播したという推論を裏付ける資料と評価する。
 ほかに木製埴輪は、奈良県で21例、京都府3例、大阪府2例、福岡と愛知両県、韓国で各1例が確認されている。
 木製埴輪は8月24日、安土城考古博物館(安土町)で開かれる埋蔵文化財整理調査成果中間報告会で展示、解説もある。

■木製埴輪 5世紀前半に河内(大阪)の大王墓造営に伴い考案された樹立物とされ、大和から近江を経て尾張などへ広まったとみられる。国内では37基の古墳から出土、滋賀県は奈良県の21基に次いで多い。

 同古墳は肥田城遺跡と重なっており、規模や形状は不明。周濠跡は水田で見つかった。
[参考:京都新聞、中日新聞]

肥田城
 高野瀬備中守隆重が大永年間(1521~1528)に築いたとされる平城。
 永禄2年(1559)、六角義賢に水攻めにあうが、洪水で失敗に終わった。
 慶長年間以降廃城となった。
 高野瀬氏は近江源氏佐々木氏の分かれとも藤原秀郷流ともいい、明確ではない。
 建武三年(1336)の『園城寺文書』に高野瀬信景の名が見える。
 平成18年からの試掘調査では、8世紀後半(奈良時代)の建物跡2棟が見つかり、その時代以降の遺構が見つかっている。


キーワード: 笠形木製埴輪、鳥形木製埴輪
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