歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

江戸時代にもあった 名所への落書きの始末書

2008年07月24日 | Weblog
 「今後一切落書きしません」 近江八幡市の古刹・長命寺の「楽書誤証文(らくがきあやまりしょうもん)」
 23日、県教委が、落書きが見つかり「今後道中で行いません」と同行者と誓ったことが記される長命寺文書「楽書誤証文」を新たに県指定文化財に指定した。
 1799(寛政11)-1802(享和2)年の6通あった。いずれも縦23・7-28・7cm、横32・9-39・2cm。
 国内外の名所や文化財に落書きをして社会問題化しているが、江戸期でも同じ悩みを抱え対策に腐心していた様子がうかがえる。
 文書には、巡礼者が「御法度」の落書きを書き始め、見つけた僧侶にしかられ「恐れ入り」「今後道中では一切落書きしません」と同行者と連名で誓ったことが署名、拇印付きで記される。
 6通は文面はほぼ同じで、「落書きに困った寺側が雛型を作っていた」とみられる。
 書き手の住所は、長崎や埼玉、三重など多岐にわたり、当時の民衆の行動範囲の広さも窺える。
 県教委は「『楽書』という字に、落書きに対する当時の庶民の気分が分かる。連帯責任で証文を書かせるのは一見厳しいが、証拠能力はなく、モラル回復の思いが強かったのではないか。不心得者に罰を科し、良心に訴える寺の大人の知恵が見える」としている。
[参考:京都新聞]
姨綺耶山(いきやさん)長命寺:
 近江八幡市の北西端、長命寺山(333m)の標高約250mの山腹にある天台宗寺院。
 3世紀後半から4世紀初頭、景行天皇の時代に武内宿禰がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられる。 
 

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鳥取県三朝町 三徳山三仏寺本堂 基壇の発掘調査が始まる

2008年07月24日 | Weblog
 三朝町教育委員会は、奥の院である投入堂(国宝)で有名な、三徳山三仏寺浄土院の本堂基壇の発掘調査を始めた。世界遺産登録を目指す三徳山の歴史解明に新たな手掛りを期待し、地下遺構を確認するのが目的。
 昨年から4年計画の本堂の解体修理に合わせて実施。8月中旬までに15m四方の基壇の一部を掘り下げる予定。須弥檀の直下付近にトレンチを入れ、発掘範囲を検討する。
 現在の本堂は1839(天保十)年の建築であるが、それ以前は、1688(貞享五)年の造営を記した棟札が残っているほか、1734(享保十九)年の「美徳山三仏寺境内絵図」に草ぶき入り母屋の本堂が描かれている。絵図が正確なら、当時の本堂の位置が現在と異なる可能性もある。
 三仏寺本堂は1839(天保十)年の建築。正面10.5m、奥行き11mのやや縦長の仏堂。
[参考:山陰中央新報]

2002年10月4日の記事
 三朝町と奈文研埋蔵文化センター、奈良国立博物館は3日、同町三徳山の投入堂に安置してあった蔵王権現立像を年輪年代測定したところ、1025年伐採のヒノキを使ったことが判明、堂の推定建立年代より約70年古い作と判明したため、遅くとも1030年までには初代投入堂が建立されたと見られている。
 その前月には、投入堂と納経堂が、部材の年輪年代法による測定で平安時代後期に当たる1076年から1100年ごろの創建であることが判明したと発表していた。
[参考:山陰中央新報]

-開基-
  山号は人皇第八代孝元天皇御宇の山号なり 慶雲三年(706)役行者(神変大菩薩)により末代窮伏の衆生を化せんがために金剛蔵王大権現を開顕し蔵王堂を建立せらる 其後、嘉祥二年(849)慈覚大師円仁により釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三尊を安置し、三徳山三仏寺浄土院と称し一山総本堂とし蔵王堂(国宝・投入堂)を奧の院とした。
 往古には堂舎二十八、寺三千、寺領一万町歩を領し、建久七年(1196)源頼朝の本願に依り堂舎造営 其後兵火のため焼失
 応安二年(1396)足利義満堂舎三十八、坊四十九院を修造寺領二千石寄進 其後も兵火に罹り堂舎多く焼失
 天正五年(1577)城主南条元純、寛永十年(1633)国主池田光仲 貞享五年(1688)国主松平綱清、天保十年(1839)国主池田斎訓朝臣堂舎修造し現在に至る(略)
(境内掲示板から)

三徳山標高までの主な堂の標高
三徳山参道入口(標高265m)~本堂(標高325m)~投入堂(標高470m)~三徳山頂上(標高900m)
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