カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

ル・ヌー・パピヨン

2011年09月09日 | 大阪
「知性、滴る、野性。」

そもそも料理を戴くということは、生肉や活け魚に限らずとも、自分以外の生命体の命、まさにそれを丸ごと戴いているということと、完全にイコールである事実は、今さら改めて言うまでもない。

だが我々は、味覚的にも外見的にも、加工されてその本来の姿を失くし、食材という意味合いのみを付加されてしまった物体から、生々しい生命そのものを感じる破目になることは、日々、あまりない。

しかし、このル・ヌー・パピヨンの料理は、その現実、食事というものの根底を思い起こさせる、そのような生々しさのある面を、さり気なく、しかし斬新に表出している。
かといって、その調理の火加減が弱い、生肉に近い類の料理ばかりであるのかといえば、それとはちょっと、方向性が違う、そんな直截な、単細胞的な要素などでは、決してないのだ。

例えば戴いた一皿、白金豚のパン粉焼きと名付けられた、豚肉料理である。
これは、日本で育った人間にとって、馴染みのある料理でいえば、ちょうど、豚カツと、非常に似通った原材料、そして、調理法によって、提供されている。
豚肉に、パン粉で衣を付け、幾分かの油を用いて熱を通したこの料理、所謂、豚カツと、どこが大きく違うのかといえば、使われる肉の、その部位である。

当初、ナイフを入れて、口中に含み、咀嚼して、しかし、馴染みの食感とは決定的に何かが違う、そんな違和感を感じつつ、それでも、先入観的に予測していない事実には、人はなかなかに思い至らない、そういうものなのである。

これは、豚の皮だ。
そう気付いても、まだ何処かで理性が否定している。
当初、見るからに、あまりにも薄いその肉片に、言い得ぬ不思議を感じてはいたが、多少厚みのある箇所に至り、切り分けてみて、そのほとんどが脂身であるに至って、やっとその事実に、仕方なくといった風情で納得するしかない、そんな始末なのである。

勿論、それなりの調理が施してあり、旨いと言い得る風味ではあるのだが、意外と融通の利かない、凝り固まった常識に慣らされたヤワな理性が、心の何処かで、グロテスクという単語を囁くのを、容易く無視することは、なかなかに難しい。

その料理は、ただ黙々と、何も考えず、旨い旨いと胃に流し込んでおれば、それでいいというものでは、全くない。
今、自分の口中に、その生きて動いていた、命ある生物の、まさにどの部分が入っているのか、それを意識せずして、現実を認識しているとは、実際は言えない。
そしてその感覚を認識することこそが、生きる為に食べる、そのことの基本であるということを、意識せざるを得ない。
その料理を戴くということは、そういう意味での生々しさを実感することを、当然の如く食べる者に強要し、そしてそれは、実際、当然のことであるべき現実なのだ、本来は。

現代社会に飼い慣らされた我々は、その当然のことを、常には忘れ、時には見えないフリをし、そして場合によっては、忌諱する、己が他の命を犠牲にして生きている、そうしなければ、ただ生存する、それすら不可能である現実というのは、直視するに耐えないから。

そのことを、無闇に肯定し、受け入れるのも、社会生活的には困難な話ではあるが、それを断定的に否定するのは、人として、愚の骨頂である。
我々は、ただ現実を、在るがままに見詰め、受け入れるべきなのだ、戴いたその命に対し、時には感謝しつつ、時には自己嫌悪に陥りながら。

例えば、その知性によって、あえて根源的な場所に帰ろうとする人間像と聞いて、ふと連想するのは、最近改めて観た映画、「ファイト・クラブ」のタイラー・ダーデンであったりするワケであるが、実際に世の中が、そんな類の人間で溢れ返ってしまった暁には、社会そのものが崩壊する、それは間違いのないことである。
だから、おそらく、知性を内的に抱きつつ、しかし、ふとした時に湧き起こる、そういう粗暴な欲求のようなものを、ル・ヌー・パピヨンは、その料理で以って、ガス抜き的に昇華させる効用を持っている、そういうことなのだろう。

料理の内容に話を戻すと、豚の皮の下に敷かれた、深緑色をしたワイルド・ライス、これもなかなかお目にかかれない代物で、一見、海草の類を、短く切り分け、さっと炒めたものに思えるが、咀嚼すると、確かに穀物の風味が、口中にて感じられる。
だが、外見的な先入観が先に立ち、実際の風味に頭がついていかず、味覚が混乱しているのが、自分でもわかるのが、何だか面白い。

このル・ヌー・パピヨンで、短い休憩時間に、ビジネス街のランチとしてこの料理を戴く人々、その全てが、己と同じように味わい、感じている、そういう訳ではないだろう。
ただ漠然と、その根源的魅力に、訳もわからず陶酔している、そんな人も多々あろう。
流石に心得たもので、ワンプレート・ランチに関しては、充分に万人に受け入れられ易い、非常に当たり障りのない出来であるというのも、おそらくは意図的な実際である。

だが、いずれにせよ、これらの料理から受ける、少なからぬ特殊な印象というのは、意識しようとするまいと、その人の肉体は勿論のこと、精神にも、確実に影響を与え、内的に蓄積されて行き、在るべき根源的状態、そのような在り方へと、人を導いて行く、そのように思える。

それが喜ばしいことなのか、むしろ、悲劇的なことなのか、それは、本当のところ、わからないのでは、あるけれど。

ル・ヌー・パピヨン フレンチ / 堺筋本町駅本町駅北浜駅
昼総合点★★★★ 4.0