カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

鰻家 うりずん。

2011年04月06日 | 大阪
「想っていた、あなたに会えた日。」

「うりずん」、それは、春先の季節を云う、沖縄の言葉です、
心持ち、はにかみながら、その人はそう言った。
まだ少し肌寒い、だがすっきりと晴れ渡った日の夕方、
暦は違えど、そんな「うりずん」を思わせる日に、
まさに此処、「うりずん。」を、訪れることができた。

周囲に漏れる香ばしい匂い、世に、うなぎ程に、食欲をそそる料理というのも、ちょっとない。
その香りに誘われて、折に触れ、何年かに一度は戴いてみるものの、
正直、その期待に応える程に、大いに満足した、戴いて好かったというためしが、
これまで実は、記憶の中にはない。

しかしながら、どうしようもなく人の気をそそる、その存在、
そして、「関西風 鰻の最高峰かも」しれない、「別格の手前」という、
聞き捨てならないその評判に引き寄せられ、
恐る恐る戴いてみた、此処「うりずん。」の「うな重」は、
誇張なく、香りによって抱くイメージそのままの、鰻料理だった。

それは、例えてみるならば、間が悪かったり、他の人が居たり、
そんなこんなでお眼にかかることのできなかった、
気になるあの人の、そうであるべき魅力的な真実の姿を、
やっとこの眼で確かめた、そんな印象で、
おそらくは映画や小説から合成されたのであろう、
その手の恋愛にも似た情景をも呼び起こす、
そのくらいに、抱いていたイメージ通りの「うな重」が、そこには在った。

さくっとした表面、程好く空気の入った印象の、ほくほくの身に、
やはり鰻料理というのも、焼き魚、そのひとつなのだとの印象を強くする。
そして、その特色である、口中に微かに感じる、皮と身の間の、ぬめり。
この食感が強すぎると、一気に食欲が失せるのが鰻料理であるが、
この「うりずん。」の「うな重」は、その感触が、
あるかないかの絶妙の割合で、程好いアクセントとなる。
捌きたて、焼きたての食感を逃すまいと、
ひたすら飯とともに、鰻の切り身を口中にかき込むのであるが、
気のせいなどではなく、明らかな体温の上昇を、全身に感じる。
それは、空調のせいなどでは勿論なく、
普通に腹が膨れてきているからという訳でもない、
それが、経験的に認識される。
たった今まで、眼の前で生きていた鰻の命を、
そのまま丸ごと、体内に移し替えているのだと、
誇張ではなく、心底、感じる。
それは、単に日常的な食事という枠組みを超えた、さらに貴重な体験である。
命を貰い受ける行為、作家、岡本かの子の「家霊」を思い起こさせる。

本格派としか言いようのない手捌きで鰻を扱う店主は、
京都で10年、鰻料理に携わってきたそうだが、
此処「うりずん。」に、その続きの堅苦しさというのは、微塵もない。
敷居の高い鰻料理店に抱く、気難しそうな職人の印象は欠片もなく、
料理さえホンモノであれば、見掛け倒しは要らないという、潔い主義の持ち主、
その典型のように思える。
実際、気難しい顔などしなくとも、そこに如何程の手間隙がかかっているかなど、
その料理を見れば、おおよそわかる事であるし、
食べてみれば一目瞭然なのであって、
勿体振った大袈裟な態度など、本来そこに、必要はない。

職人と直に対面するカウンターだけの、此処「うりずん。」
だが、むしろ此処は、寿司や割烹というよりは、
良い意味での、ラーメン屋や定食屋の在り方に近いのかもしれない。
なにしろ、料理を待つ間の時間潰し、
その為の漫画さえ置いてある、そんな風情である。
それがまた、肩に力の入らない店主の雰囲気と相まって、こちらも微笑ましい。