カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

吉野家 9号線亀岡店

2011年04月23日 | 京都
「補足、もしくは、前提、または・・・独り言。」

年に2回、いや、3回くらいだろうか、
吉野家の牛丼を戴くのは。

仕事や何かの合間、時間がない、
だがしかし、短い人生、今後、一回たりとも美味しくないものは、食べたくない、
そのように考える類の人間であるカゲロウが、
稀にそういう状況に置かれた時に、抜群に重宝する選択肢であるのが、
この牛丼チェーンの実際である。

食事としての最低限の条件、それは何だろうかと考えた場合、
空腹感を覚えず、半日程度過ごせるエネルギー源、
それに足り得るものというのが、
先ず、カゲロウの頭に浮かぶ考えである。
そういう意味で、それが和食であろうと洋食であろうと、
麺であろうと丼であろうと、
そして、旨かろうと不味かろうと、
全ては同じ土俵である。

だが、それはあくまで、最低限の条件であって、
旨い牛丼を戴く、そのためには、
間違っても、他の牛丼チェーンになど、
足を踏み入れてはならない。
たとえば、昨今話題の、炊き出しの中に、
吉野家と松屋とすき屋があれば、
迷わず吉牛に行くだろうな、そんな時にでも。
不謹慎ながらも、カゲロウはその状況を、妄想する。
勿論、食うや食わずで、それしかないという状況ならば、
松屋でも、すき屋でも、行くには行くだろう、
だが、それは単に、腹を満たすためである。
しかし、吉牛ならば、腹は勿論、満足し、
さらに、美味しいものを食べることの幸せをも、感じることが出来るだろう、
そのくらいの味の格差が、この3社にはある。

だが実際、吉野家の業績は思わしくない、
それが、世の実情であるらしい。
今回の訪問時も、牛丼の並みが、
110円の値引きで、一杯270円になっていた。
世の趨勢、いわゆる価格破壊の一環である。
そう、何かが壊れてしまった、
そう言えるであろう。
壊れた何か、
それは、壊れて元に戻らない、価値の基準。
安いばかりで喜んでいてはいけない、
子供じゃないんだから。
破格を出す事で、その企業は更に弱体化し、
税金も払えず、社会に貢献する事も出来やしない。
廻り回って、あらゆる人の懐具合にも響いてくるその事が、
社会の、そして経済の仕組みであるのは、
いい大人ならば、当然にわかること。
そして、安いからといって、そんなものばかり食べていては、
金銭感覚は勿論、味覚さえも破壊される。
それは、ある種の文化の喪失であり、
自分自身を貶める事に、他ならない。

しかし、だが実は、高い安いにかかわらず、
こだわりを以って食事をしている人間など、
世の中、ほんのひと握りに過ぎない。
おそらくその割合は、3割にも満たないであろう。
生きている限り、全ての人間が、
食べずにいることなど、出来はしない、
それにもかかわらず。

もののついでに言うならば、
高級料亭の割烹で、金に糸目も付けず、
何事よりも旨いものを食うその事が、
当然のように一大事ででもあるかのような素振りの人物など、
実際、褒め言葉でも蔑みでもなく、世間的には、ある種の珍獣、
もの好き、マニアであると、言っていい。

それは兎も角、安くて不味い牛丼チェーンに圧され、
吉野家が経営的に苦しんでいるその事実には、
本当に本当に、納得が行かない。
明らかに不味い牛丼を提供し、値段を落とす経営戦略。
安いから不味くて当然だと、開き直った下手な言い訳など、
されようものなら、怒り心頭である。
美味しく作れないようならば、値段を落とすなと、ひと言、言いたい。
安い事が大事なのではない、旨い事が第一義であるべきである。
だが残念な事に、人々が食事処を選ぶ、その基準と成るべき物差しの、
最も安易なものとして、価格というものが支配している、この世の中では。

正直、うんざりである。
不味いにもかかわらず、安ければそれだけで、もてはやされ、
たちまち蔓延るように、そんな飲食店が溢れる、そういう社会的風潮が。

しかし例えば、そういうものから、
そもそも離脱した存在、それが、香川のうどんであったり、
明石のたまごやきであったりするような、
そんな憧れは、まだ捨ててはいない。
そういう処に、行ってみたい。

そして話を戻すと、辛くも、そういうものの中に、
この吉野家の牛丼も、微妙に入っている、
つまり、日本という国にとってのソウル・フード足り得る、
そのようなフシも、あるような気もするのだ、
大きな意味では。