ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

邦訳本の発見

2012-05-22 19:56:16 | ヨン様
 今日はいきなり肌寒い一日でしたね。


 こんばんは、ヨン様です。


 今日近くの楽器店に行きました。
 すると平積みされている本があって、それが偶然にも1年半前にドイツで買った本の邦訳でした(邦訳の出版は2009年)。

 そして価格はなんと約12000円!
 千二百円ではありません、一万二千円です。

 原著は30EUROくらいでしたから、日本語になったことでものすごく高騰してます。
 学術書の翻訳はかなり骨の折れる仕事でしょうし、しかもそれなりに大部な著作でして、まぁこんなもんなのでしょう。


 ところで、翻訳と編曲は似ているところと全然似ていないところがあると思います。

 似ているのは、原著あるいは原曲をもとに、編作者がその作品の組み換えや再解釈をおこなって装いを改めるという点です(当たり前ですが)。
 たとえば翻訳の場合ですと、言語によって語順が異なるのは日常茶飯事ですから、当然言語形式の組み換えはほとんど必然的です。また、翻訳される言語のある語に対する翻訳する言語の訳語が一つとは限りませんし、一つだとしても文脈によって再解釈を行わなければならいないこともまた常です。現代日本語と古典日本語との間でさえ、意訳的な解釈を行おうとすればそのような事態が起こってくるわけですから、他言語間では当然のことといえます。
 編曲の場合ですと、旋律主体のポピュラー音楽を合唱にアレンジする際などは、旋律に四声体的あるいは対位的な種々の声部を追加したり、和声をより機能的に連結することによって楽曲の組み換えがおこなわれます。また、楽曲の構成上の理由から大幅にフレーズや楽節を追加、削除して再解釈を行うなどの作業も考えられるでしょう。
 こういった組み換えと再解釈の過程で、作品が既成ジャンルの敷居を飛び越えたりすることもあります。そのことによって、より原作の魅力を深化させたり今までその作品の存在すら知らなかった人のもとへ物語が届けられるのです。
 ただ、いずれの例示もかなり極端な例です。翻訳といっても、原作では詩の形態をとっていたものが翻訳され、かつ小説という形式に置き換えられてしまう場合もあります。さらに編曲にしても、トランスクリプションからモティーフの借用といった程度のものまで、広義に編曲といった場合にはさまざまな程度のものが含まれてしまいます。つまり、翻訳や編曲と翻案の境界というのは常に連続的なもので、「ここからここまでは翻訳だけど、ここからは翻案」というような絶対的な線引きができるたぐいのものではないということです。さらに言えば、他言語で書かれた声楽曲を母語で編曲する際には、翻訳と編曲という二つの編作過程が(特にポリフォニックな処理において)有機的に絡み合って同時進行していくわけですから、もはや翻訳と編曲を区別することすら困難になります。
 ここまではかなり抽象的な話でして、具体的かつ精密な例証をしようと思えばもっと長大な話題になってしまうでしょう。訳語による意味(ニュアンス)のズレと楽器編成の移し替えも類比できるような気がしますし、音楽ジャンルをまたぐ編曲(たとえばクラシックからジャズとか)が翻訳における言語体系の対照とも通ずるところがあるようにも考えられます。いろいろと手落ちではありますが、ともあれ、組み換えと再解釈によって原著や原曲から新たな輝きを導き出すという目的において、翻訳と編曲は共通しているといえるのではないでしょうか。
 もちろん、世の中良い翻訳や編曲だけが転がっているわけではありません。ただ、モノの良し悪しはあくまで結果としてのそれであって、決して目的レベルで粗悪な編作が作られたわけではないはずです。


 で、翻訳と編曲の全然似ていないところについてですが、なんだか思っていたよりも話が長くなってしまったので次回以降に投稿したいと思います。

 ではまた。

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