画伯。
その頂点を決する激戦が、今シーズンも繰り広げられている。
しかし、世界に名を轟かす参加者達が散らす火花を、我々が目にする事はない。
世間が想像する華々しいトップ達の戦いの場とは全く様相を異にするその決戦は、ひっそりと、どこかの一室で、厳かな、それでいて和やかな空気のもとで行われるという。
うろおぼ絵大会。
厚いベールが拭われる事はなく、その全体像は今だ謎のままだ。
我々が見ることが出来るのは、激戦の「結果」のみである。
前回の覇者、紅蓮画伯についてこれまでも長く取材してきた我々取材班は、
今回大会の一般公開に先駆けて行われるメディア向け限定先行公開に立ち会う機会を得た。
今作品の鑑賞と考察に入る前に、まずここまでの「画伯」とその世界を振り返ってみようと思う。
前回(第四次うろおぼ絵大会)の勝負を分けたポイントは「そこに記されたものが何であるか理解出来る」事だった。
審査員の理解力・把握能力を完全に超越した発想の飛躍…。紅蓮氏はふなっしーを「プラナリア様な」としか言い表さざるを得ない「観測不能の物体」として表現した。その既存の枠から一歩跳躍した世界観が評価され、最終的に唯一の競合とされたアンパンマン(きかんしゃトーマス)を上回る評価を獲得するに至った訳である。
この「観測させたら負け」とでも言うべきモデルからの乖離性は、新世代の参入によって更に乱発(第五次うろおぼ絵大会)される事となり、時代はさながら現代音楽、現代アートの様相を呈する事となった。
さて、ここからは今回、同氏出品の「ジバニャン」へと視点を移す事としよう。今作からは「どんな既存基準を以ってしても観測する事が許されない」という彼自身が先駆者となって築いた世界を既に脱し、更に一歩を踏み出さんとする積極的な姿勢、パイオニアとしての矜持を感じ取ることが出来る。
しかし既に表現の極致とも言える、人間の「認知の限界」に挑んだそのインパクトが世界に与えた影響はあまりにも大きい。とりわけ、彼の築いた世界感に影響を受けた新世代が台頭してきたこの第五次大会で、後に続く作品が前回打ち立てた金字塔に匹敵するかという問いに答えるには、まだ暫くの時間が必要な様だ。
彼がここから新たに築こうとしているものがどんなものなのかは我々には知る由もない。しかし少なくとも今作で、彼が第四次大会でその独自の世界を打ち出す前の、言わばクラシカルな現実世界への回帰が見られたのは事実である。
今回の取材では「もしかしたら、長くうろおぼ絵界を牽引してきた画伯は、少し休みたいのかも知れない」…そんな囁きも耳にした。独自の世界を築き続ける事によって消耗した心身を、自らを育ててくれた既存の世界に戻して修復したい――この様な意図が、今回出品されたボンバータートルズめいた絵柄からは、確かに感じられるのである。
現代アニメのキャラクターを、90年代のキャラクターの組み合わせで書き表す。この(彼にしては)一見淡白に見える表現を見て、我々はこれが彼のエネルギーを溜める儀式なのか、それともここが既に新たな世界の第一歩なのか、推測する事しか出来ない。
この事――我々が世界の中で、芸術を通して自分の立ち位置を推測させられると言う事自体が、前作で「第三者の観測」という命題に挑み、新たなステージを手にした画伯からの、我々への挑戦状なのかも知れないのだ。
(2015 Feb.21 NationalArtGraphic/KJ)
その頂点を決する激戦が、今シーズンも繰り広げられている。
しかし、世界に名を轟かす参加者達が散らす火花を、我々が目にする事はない。
世間が想像する華々しいトップ達の戦いの場とは全く様相を異にするその決戦は、ひっそりと、どこかの一室で、厳かな、それでいて和やかな空気のもとで行われるという。
うろおぼ絵大会。
厚いベールが拭われる事はなく、その全体像は今だ謎のままだ。
我々が見ることが出来るのは、激戦の「結果」のみである。
前回の覇者、紅蓮画伯についてこれまでも長く取材してきた我々取材班は、
今回大会の一般公開に先駆けて行われるメディア向け限定先行公開に立ち会う機会を得た。
今作品の鑑賞と考察に入る前に、まずここまでの「画伯」とその世界を振り返ってみようと思う。
前回(第四次うろおぼ絵大会)の勝負を分けたポイントは「そこに記されたものが何であるか理解出来る」事だった。
審査員の理解力・把握能力を完全に超越した発想の飛躍…。紅蓮氏はふなっしーを「プラナリア様な」としか言い表さざるを得ない「観測不能の物体」として表現した。その既存の枠から一歩跳躍した世界観が評価され、最終的に唯一の競合とされたアンパンマン(きかんしゃトーマス)を上回る評価を獲得するに至った訳である。
この「観測させたら負け」とでも言うべきモデルからの乖離性は、新世代の参入によって更に乱発(第五次うろおぼ絵大会)される事となり、時代はさながら現代音楽、現代アートの様相を呈する事となった。
さて、ここからは今回、同氏出品の「ジバニャン」へと視点を移す事としよう。今作からは「どんな既存基準を以ってしても観測する事が許されない」という彼自身が先駆者となって築いた世界を既に脱し、更に一歩を踏み出さんとする積極的な姿勢、パイオニアとしての矜持を感じ取ることが出来る。
しかし既に表現の極致とも言える、人間の「認知の限界」に挑んだそのインパクトが世界に与えた影響はあまりにも大きい。とりわけ、彼の築いた世界感に影響を受けた新世代が台頭してきたこの第五次大会で、後に続く作品が前回打ち立てた金字塔に匹敵するかという問いに答えるには、まだ暫くの時間が必要な様だ。
彼がここから新たに築こうとしているものがどんなものなのかは我々には知る由もない。しかし少なくとも今作で、彼が第四次大会でその独自の世界を打ち出す前の、言わばクラシカルな現実世界への回帰が見られたのは事実である。
今回の取材では「もしかしたら、長くうろおぼ絵界を牽引してきた画伯は、少し休みたいのかも知れない」…そんな囁きも耳にした。独自の世界を築き続ける事によって消耗した心身を、自らを育ててくれた既存の世界に戻して修復したい――この様な意図が、今回出品されたボンバータートルズめいた絵柄からは、確かに感じられるのである。
現代アニメのキャラクターを、90年代のキャラクターの組み合わせで書き表す。この(彼にしては)一見淡白に見える表現を見て、我々はこれが彼のエネルギーを溜める儀式なのか、それともここが既に新たな世界の第一歩なのか、推測する事しか出来ない。
この事――我々が世界の中で、芸術を通して自分の立ち位置を推測させられると言う事自体が、前作で「第三者の観測」という命題に挑み、新たなステージを手にした画伯からの、我々への挑戦状なのかも知れないのだ。
(2015 Feb.21 NationalArtGraphic/KJ)