ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

10月の予定(ざっくりと)

2016-09-30 23:47:43 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


今週からローテーションを変更し、今日はらっす。さんに更新していただく予定でしたが、連絡がないので念のため更新しておきます。
ブッキングしても許してね☆

さて、今日は特にネタを考えておりませんでした。
9月最終日ということで、10月のシュビドゥヴァーズの予定を簡単にご報告しておきますか。

10月はかなり盛りだくさんな内容となっており、先週録音したばかりにも関わらず、次の日曜日にはもう録音が控えております。
それを含め、10月のうち3回日曜に録音が予定されているのです。
なんというタイトスケジュール!

しかし、そうでもしないと冬コミに間に合いませんからね。
ちなみに11月にも2回の録音が予定されております。
こう録音ばかりだと、練習のほうが若干おろそかになってしまわないか心配です。
そのへんは何とかやりくりしていくしかないでしょう。


いろいろ懸念のあるスケジュールですが、ベストな音源を皆様にお届けできるよう、できるだけの努力を尽くしたまいりたいと思います。
アルバムの完成、どうかお楽しみに!

それでは、また。

デジタルメディアの未来

2016-09-29 23:07:54 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


昨今はさまざまなデジタルメディアが発達していますよね。
代表的なものだけでも、パソコン・DVD・ゲーム・電子書籍、…等々、もはや私たちの社会生活は、デジタルメディアなしでは成立しないといっても過言ではありません。
発展著しいデジタルメディア技術には、私たちの生活をすべて覆ってしまわんばかりの勢いが感じられます。

しかしながら、本当に私たちの生活はデジタルメディアに支配されてしまうのでしょうか。
私自身は、必ずしもそうではないのではないか、あるいはかなりデジタル化が進んだとしても、私たちはどこか段階で、アナログレベル・ハードレベルのものを維持したがるのではないかと考えております。

デジタルメディアの大きな特徴の一つは、その柔軟な可変性です。
例えば、本ブログもデジタルメディアの一つに数えられるわけですが、ブログのシステム上、過去の記事にはいつでも編集を加え、その中身を改変することができます。
あるいは、このブログに限らなくてもよいでしょう。
出来上がったイラストを修正するのに、デジタル媒体では時間的な労力以外一切の資材を必要としませんが、実際の絵を修正するとなれば、画材とを取り替えたり、修正前の状態を気にしながら塗り足したりと、相当な手間暇がかかってしまいます。
物理的な媒体の編集は、多くの場合直接手的な措置を必要とするのに対し、電子的な媒体の編集には、それほど多くの手間はかからないのです。

しかしながら、その可変性はデジタルメディアを便利なものにしている一方で、極めて信頼のおけないものにもしているのではないでしょうか。
そこでは、たった今編集したものが、「Ctrl+Z」のボタンを押すだけで、一瞬で消えてしまいます。
あるいは、その程度で済めばよいのかもしれませんが、証明書類その他のそうそう改変されてしまっては困るようなものまで、簡単にいじってしまえるようになるのです。

このような性質は、デジタルメディアの実在性そのものに対する疑いという評価につながっていきます。
私たちがある対象を「存在する」という風に認識できるのは、一般的に、その対象がある時間的な連続性をもって捉えられるからです。
例えば、とある事情でクラスに一日だけ在籍していたが、その日以降一切の痕跡を残さずにいなくなってしまったクラスメイトがいたとして、その一日だけの記憶を頼りに、その人が「実在した」と確認することができるでしょうか?
あるいは、木を燃やしてしまったとして、残った炭なり灰なりを、もとの木だと捉えることができるでしょうか?
私たちは、その存在自体に連続性のないものや、性質としての連続性のないものは、「はじめから存在しない」あるいは「もう存在しない」と認識する傾向があります。
いつでも、変わらず、という、一定程度の時間的な普遍性を持っているからこそ、その対象が「存在する」のだと思えるわけです。

そのように考えると、いつでも中身を改変できてしまう(そのように思える)デジタルメディアというのは、甚だ私たちにとって実在性が怪しいものに見えてきます。
簡単にその存在が消えてしまもの、その性質を維持できないものは、存在していないも同然だからです。
だからこそ、半永久的に実在性が求められるれるもの(例えば証明書類など)や実在性の神秘を侵されてはは困るもの(例えば記念品など)というものは、これからも物理的な媒体で作られ続けるか、物理的な媒体といつでも置換可能であるという前提が維持されるのではないでしょうか。

もちろん、どのようなものがデジタルメディアでやりとりされるのか、というのは、技術的な問題も絡んでおり、時とともに変化するものです。
写真からjpgへ、紙からPDFへ、などといった変化はここ最近起きたばかりで、電子書籍は普及の過渡期にあります。
今はデジタルメディアが主流とはいえないものでも、今後技術的な発展に伴って代替されていく可能は十分に考えられるでしょう。
しかし、それでもなお、国家間の友好条約の署名が電子署名で行われることや、オリンピックの金メダルが(たとえ金額的には金メダルと同等の価値があるものでも)USBで渡されることが当分起こりそうもないのは、やはり根本的には、デジタルメディアの実在性が希薄に見えてしまうということに起因しているように思われるのです。


デジタルメディアで文字を読むことが苦手な私なんぞは、この先数十年経っても、しっかり読むときには紙に印刷することでしょう。
それが時代遅れと映るのか、はたまた依然として現役のスタイルとなっているかは、未来のお楽しみですね。

それでは!

横浜駅のラーメン紹介

2016-09-28 23:54:36 | ねぎとろ
いやー、最近は暑いですね。水曜担当に異動になりました、ねぎとろです。
忘れたころにやってくるやつです。

水曜ということで、ラーメンの話をしようと思います。

題して。「横浜駅のおすすめラーメン!」
ぱちぱち。くそださタイトル。はい。

皆さんも使うことの多いでしょう、横浜駅。
その周辺は、日本有数のラーメン激戦区でもあります。
その中でも、好みに応じて、おすすめのラーメンをご紹介いたします!

この時間ですので、画像はあえて貼りません。
飯テロは勘弁してあげましょう(上から目線)
食べログのリンクのみを

◆こってり系
吉村家(みなみ西口から徒歩10分)
ごぞんじ、家系ラーメンの総本山。
家系の中でも醤油のパンチが強いです。トッピングは安め。
麺は中太の縮れ麺で、スープによく絡みます。
行列は長いですが、外に張り出した屋根の下で収まってるなら、着丼まで30分程度です。
チャーシュー乗せるのが気が引けるなら、海苔で代用できます。
横浜(横浜駅以外)にはこれくらいの美味しい家系ラーメンが何軒もあるので、ローテーションで回し続けて、気づいたら……みたいなことに。

たまがった(みなみ西口から徒歩8分)
豚骨の中でもまろやかな味わい、女性にも人気です。
翌朝5時まで営業してるので、徹夜で飲み明かした後の〆の一杯に最適です。
価格帯は少し高い部類です。

池袋大勝軒(みなみ西口から徒歩8分)
濃厚醤油つけめんです。豚骨と魚介ですが、魚介の風味が強いです。
モッチリしている麺の量が、多いのなんの。並盛でも普通男性には多いです。
お腹がとっても空いている時以外は、あまり行きません。

◆あっさり系
麺場 浜虎(きた西口から徒歩5分)
塩と醤油、それぞれ濃厚なやつもあります。
つけ麺もありますが、ラーメンの方がおすすめです。
中太の縮れ麺。卓上のスパイスが劇的に味を変えてくれます。美味しいです。
行列が長く、入店後も着丼までに時間がかかることが多いので、余裕をもって。
あっさり系で待ち時間が長いので、デートには向いているのかもしれないです。やったことないですが(笑)

本丸亭(きた西口から徒歩7分)
塩ラーメンのお店です。
中太のもっちりめな麺を使っています。
スープがすごく透き通っていて風味が素敵ですし、春菊の苦みのアクセントが食欲をかき立ててくれます。
ゴツい豚チャーシューがのっていて、意外とボリュームがあるので注意です。
僕は好みじゃないのですが、そういうお店も多いので、需要があるということでしょう。
そういうのが好きな人には合うんじゃないでしょうか。

維新商店(西口から徒歩15分)
駅からちょっと遠めの行列店です。
醤油ラーメンも塩ラーメンもめっちゃ美味しいです。
おすすめは醤油ラーメンです。
中太から少し細めの縮れ麺と、チャーシューの柔らかさがスープと合わさって絶妙なハーモニーを奏でます。
まさに”王道を征く”ラーメンです。
駅から遠く、マンションに囲まれて駐車が出来ないこの立地でも行列店であるということが、味の良さを証明しています。


以上、横浜駅おすすめラーメンでした。


執筆後記

とまぁ、ここまで紹介してきましたが、食べログにあるような詳細なレポートとというのはなかなか難しいものですね。
自分の感覚が、どういう食材のどういう調理法に由来しているのか、意識しないで食べているのですから。
「食通」「グルメ」を自称してる人たちは、きっとそこまで考えながら食べているのでしょう……。
僕らが、音程や発声・発音を気にしながら歌を歌っているように。

経験を積み、感覚の分解能をもっと高めて、より細かい塩梅を言語化できるようになりたいものですね!

それでは!

鼻毛のジレンマ

2016-09-27 23:53:19 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


突然ですが、みなさん鼻毛の処理はどうしていますでしょうか。
個人差はあるのかもしれませんが、特に男性において、鼻毛は放っておくとチョロリとはみ出したりしてしまうもの。
はみ出た鼻毛はいかにも不精な印象なので、処理しておくに越したことはありません。

しかしながら、美的に問題があるからといって、手当たり次第に伐採してしまうと少し痛い目をみます。
一見不衛生に見える鼻毛は、単に鼻腔内をチョロチョロしているだけではなく、鼻腔内の粘膜を外部の侵入者から守り乾燥を防ぐという、まことに衛生的な機能を担っているのです。
私は前に鼻毛を切りすぎて、翌朝鼻血が出てしまうという本末転倒な出来事にも遭遇したことがあります。
特に冬場の乾燥する時期において、鼻毛の保湿効果は侮れないものがあります。
全身が毛でおおわれた他の類人猿と異なり、現生人類の体はだいぶツルリとしておりますが、それでも鼻毛の成長が退化しなかったのは、やはりそれだけ重要な役割を果たしているということなのでしょう。

せっかくこのような手近な例があるので、「ある一面においては排除したい存在であるが、別の観点から見れば必要不可欠な存在であるために、その存在を排除できない状態」のことを、「鼻毛のジレンマ」と呼称したいと思います。
鼻毛は、美的な側面から見れば排除したい存在ではありますが、人間の免疫機構上必要不可欠な存在となっているために、その存在を完全に排除することはできません。
まさに「鼻毛のジレンマ」を抱えているわけです。
もちろん、鼻毛が美的に悪であるというのは一種の文化的な価値観であって、ある文化においては「鼻毛をたくさん蓄えている人こそ立派である」という価値観が存在しても不自然ではありませんが、ひとまずそのような心的葛藤を「鼻毛」という言葉で代表させておくこととします。
また、なぜ鼻毛なのか、腋毛でも尻毛でもいいじゃないかという反論があるかもしれませんが、特に鼻毛をチョイスしたことに意味はありません。
私のフィーリングです。
強いて言えば、腋毛や尻毛に比べて、鼻毛のほうが人目に付きやすく処理する機会も多いからといったところでしょうか。
正直この点について根拠を議論することにあまり意味はないと思っています。

さて、「鼻毛のジレンマ」と似たような概念として、「アンビバレンス(アンビバレント)」あるいはその訳語である「両価性(両価的)」ということばがあります。
これらの語の意味は、「ある対象に対して相反する感情を抱いたり、相反する態度をとること」と定義されており、「鼻毛のジレンマ」と類似した概念だといえます。
ただし、アンビバレンスという用語は「相反する感情を抱く」という極めて抽象的な心理的葛藤を指すのに対し、鼻毛のジレンマという用語は「一面ではなくしたいが、別に理由により排除できない」という、生活機能上の側面を強調した、より具体的な状態を指しています。

したがって、自ずとその仕様の範囲にも差が表れてきます。
例えば、紫外線を例に考えてみましょう。
紫外線というものは、大量に浴びると人間の細胞を傷つけてしまう一方で、体内でビタミンを生成する働きがあり、その点においては必要不可欠な存在です。
そのような場合には、次のようにいうことができます。


○紫外線を避けるかどうかという問題はアンビバレントだ。
○紫外線を避けるかどうかという問題は鼻毛のジレンマだ。


しかし一方で、対象の必要性が問題とされていない場合や、対象が必要となるような外部的な要因が存在しない場合には、「鼻毛のジレンマ」という表現は使うことができません。


○彼は父の生活態度は軽蔑しているが仕事ぶりは尊敬しており、アンビバレンスを抱えている。
×彼は父の生活態度は軽蔑しているが仕事ぶりは尊敬しており、鼻毛のジレンマを抱えている。


この例の場合、「尊敬しているかどうか」という問題は父の仕事の必要性とは一切かかわりがないうえ、「尊敬している」ことが父の仕事が必要だという外部的な要因となっていないため、「鼻毛のジレンマ」という用語は使えなくなっています。
つまり、基本的には「鼻毛のジレンマ」のほうがより具体的で用法が狭く、「アンビバレンス」のほうがより抽象的で用法が広いのです。


今回は、鼻毛の美的価値と免疫機構上の機能を手掛かりに「鼻毛のジレンマ」という概念を考案してみました。
例えば広いスペースをとるが高い収容量を持つ棚を前にして、「う~ん、捨てるか迷うなぁ。鼻毛のジレンマだ。」などと使うことができます。
使える機会があれば、どんどん使っていってくださいね。

それでは!

1年間

2016-09-26 19:28:55 | かみさと
こんばんは。かみさとです。
奇跡的に誕生日にブログ当番が回ってきたのでウキウキで書いてます。



そうです。誕生日です!
シュビドゥヴァーズ最年少記録保持者である僕ですが、本日をもって21歳となりました。おめでとうありがとう。

昨年の今頃は、いずこかの雰囲気のいいお店に連れられ、合唱界隈の知り合いに囲まれながら、初めてのお酒の味をしんみり堪能していたわけです。
それが今では自他共に認める日本酒好きと化し、冷蔵庫や戸棚にはワインを含めた数本の酒瓶が控えています。
どうしてこうなった……。



それにしても、年々時間が過ぎるのが早くなっていく感じがします。
この1年間はいろいろと初めてのことがあったのですが、それでも振り返ってみれば光陰矢の如しと言うべきか。
5歳児にとっての1年は人生の1/5ですが、20歳にとっての1年は人生の1/20でしかない。と考えると、まあ当然のことなのかなあ。

しかし、あっという間に過ぎ去ってしまうからこそ、気張っていかなきゃいけない場面も出てきます。
来年は大学4年生なのでもうてんてこ舞いです。制作に就職に忙殺される未来がありありと想像できてもう今からゲンナリしてます。趣味だけで生きたい。


もしかすると来年は、シュビを始めとした合唱方面にはあまり顔を出せなくなるかもしれませんね。
向こう1年踏ん張りどころなので、さっさと片付けてまた思う存分歌い倒してやりたいところです。



いい日の割に記事は短いですが今日はこの辺で失礼します。誕生日なのにガシャ爆死したダメージが割と残ってるので
これからもよろしくお願いします。それでは、また来週。

やり手の録音

2016-09-25 22:44:48 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


本日は録音!
かなりタイトなスケジュールの中での録音となりましたが、なんとか終えることができました。
よかったよかった。

実は私、先日の木曜日から所用で愛媛に行っており、今日の昼に羽田に到着しておりました。
なので、羽田から現場に直行という、どこのやり手サラリーマンですかというスケジューリングだったのです。
私がどれだけシュビドゥヴァーズの録音に情熱を注いでいるかがお分かりいただけることでしょう。

なにしろ、今日の録音参加者はなんと4人…!
各パート一人ずつという、男声合唱ができるギリギリの人数であります。
誰か一人でも欠けていれば、今日の録音は実現しえなかったでしょう。

まずは、第一の関門を潜り抜けました。
ちょっと通り方が雑すぎてしまった感も否めませんが、これから冬コミに向けて可能な限り磨き上げてまいりたいと思います。


今日は久しぶりに晴れ間が覗きましたね。
心も晴れやかに秋を迎えたいものです。

それでは!

過激なプロジェクター推進派に告ぐ

2016-09-24 21:28:25 | さら
こんばんは、さらです。
最近とても不愉快な目にあっているので、この場を勝手にお借りして怒りを表明したいと思います。

勘違いしないで頂きたいのですが、私は決してプロジェクターが嫌いなわけではありません。
むしろ好きです。

私はたまに自宅で友人とホラー映画鑑賞会をすることがありますが、プロジェクターを所有している友人を誘うと、プロジェクターを使って鑑賞会ができるので、なんか雰囲気的にいい感じになります。あとついでにプロジェクター使ってイカのゲームをやると楽しいです。
私は新しいコミュニティでは積極的にプロジェクターを所有している人を探して友だちになろうとしますし、友達にプロジェクターを買って欲しいといつも思っています。
私はプロジェクターと、プロジェクターを所有する人が大好きです。


しかしながら、もう我慢なりません。
最近私は4Kモニタが欲しいと思っています。
それで何の気なしに「4Kモニタが欲しい」と言うと、皆決まって
プロジェクター買えばいいじゃん
それプロジェクターで良くね?
と返してきます。
一人二人程度ならともかく、本当にすごい頻度でプロジェクターへの鞍替えを勧められます。
なんですかこれは。怒りしかありません。


そもそも、4Kモニタとプロジェクターは需要が全く違うところにあるはずです。
4Kモニタはデカイことが正義ではありません。4Kというのは画面の大きさの規格ではなく、「解像度・ドット数」の規格です。
こうした設備導入を考えている人に対して、プロジェクターという「投影の大きさ」で勝負する設備を勧めるというのは、どうにも腑に落ちない。
どこぞのスイーツが食べたいという彼女に対し、「二郎でいいよね?二郎の方が量多いし」とか返す彼氏がいたら完全にア○ペ扱いは免れないと思うのですが、
どうしてプロジェクター推進委員会の人達はそうした扱いをされず、むしろ私が意味の分からないことを早口で喋ってる変態機材ヲタクみたいな扱いを受けるハメになるのでしょうか。

もしかして、世間には一貫した「プロジェクター>モニタ」の式が存在しているのでしょうか。
だから、「良い液晶」を買うくらいなら、液晶自体の上位互換であるプロジェクターを買えということでしょうか。
世間一般から見ると4Kモニタというのは「ビール並に高額な発泡酒」みたいな扱いなのでしょうか。
よく分かりませんが、私は壁一面にプロジェクターでfinaleを投影して自分のアニソン譜面を編集するとかあんまりやりたくないし、液晶の方がいいと思います。でもvimを壁に投影してnerdtree使ったら楽しそうだ

昔から漠然と感じておりますが、本国では「投影の大きさ」に対して「解像度」が軽視されすぎです。
画面の解像度が高いスマホを探して電気屋へ行っても、店員さんは何インチの液晶なのかという話しかしてくれません。
世間がもっと、高画素・4Kに優しい世界へと変わってくれることを祈っています。
あとプロジェクター持ってる人はお友達になりましょう。

芸能人ブログの鉄則

2016-09-23 22:33:24 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


なんと、ねぎとろさんが忙しいとのことで、今日も私が執筆することになりました。
こう書くと私がまるで超絶ヒマ人間のように思われてしまうかもしれませんが、決してそんなことはありません。
誤解のなきようお願いいたします。

さて、ブログといえば、こんな末端の合唱団のブログよりも、まずは芸能人のブログが思い浮かびます。
実際のところ、芸能人はどんな風にブログを更新しているのか、あるいは、ブログのテクニックを盗めるのではないのか。
普段芸能人のブログは一切見ないのですが、今回記事を書くにあたって閲覧数が多いらしい芸能人のブログを見てみました。

まず第一印象として、短い。
とにかく短い記事が多い。
もちろん一日の更新回数が我々と違ったり、内容によっては長文となることもあったりするようですが、大体において短い記事になっております。


今日、お風呂に入りました。

最近忙しかったな。

いい気分です。


以上、みたいな記事も結構あったりします。
芸能界って怖いな…。
普段私(たち)の書く記事が、長大すぎて読了するのが困難になっていないか不安になってきてしまいますね。

結局のところ、芸能人は内容うんぬんよりも、「芸能人の私生活が知りた~い」という欲求を満たすための窓口なので、まずはたくさん更新することが大事なようです。
シュビで同じように短く書いても閲覧数の伸びは期待できそうにありません。
シュビがアイドル合唱団にもでもならないかぎり、このテクニックは参考にならなそうです。

もう一つは、別に芸能人のブログに限ったものではないのかもしれませんが、ケータイ小説その他のようなカジュアルな文章と共通する特徴として、改行が多いように思います。
ブログの場合は一文の中でもバサバサ切ったりと、より一層その特徴が顕著になることがあります。


《幼女ペロペロ》は

ステキな楽曲で

ぜひ我が団でも歌いたいと

思っていますが、

歌詞がキモイと

言われてしまいました☆


のような簡単なメッセージを伝えるだけでも11行ものスペースが必要とされるのです。
読みやすいような不経済なような。
そもそも情報量のある内容を伝えることが目的ではないので、実際にはこのようなことは起こらないわけですが、みんな一様に改行しまくっているのを見ると、なにかその書き方が正書法めいたものに思えてきます。
美しく見せるには改行すべし、みたいな教えでもあるんでしょうか。

以上をまとめますと、


・全体は短めに。
・改行は多めに。


という鉄則を守れば、たちまち芸能人風のブログが書けてしまうのではないかと思われます。
あとは、自撮りの写真を多めに載せるとさらに雰囲気が出ることでしょう。
ブログをお書きの方は、ぜひ実践してみてくださいね!


我々シュビドゥヴァーズにとっては好敵手ともいえる芸能人ブログ。
同じブロガーとして、日々切磋琢磨していくことができればと思います。

それでは!

犯罪が起きたとき

2016-09-22 23:44:54 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


最近はソーシャルメディアの発達により、世の出来事に対してさまざまな人の意見を見聞きすることができるようになりました。
その中でも犯罪に対する人々の声というのは、センシティヴな問題をはらんでいるように思われます。

で、私が個人的に気になっているのは、「加害者を非難する立場」に立つのか、「被害者を非難する立場」に立つのか、という問題です。
たとえば、夜道を一人で歩いていた人が不幸にも傷害事件に遭ってしまったとしましょう。
そんなとき、決まって世間では、「そんな時間に人気のない暗い道を一人で歩いているのが悪い」みたいな意見が出てきて、それに対して「心身ともに傷ついている被害者を批判するなんて許されない!絶対的に悪いのは加害者であって、非難すべきなのは被害者だ!」という反駁が飛び交うのがお約束のようになっています。
最近はコンプライアンスとか倫理の問題なのか知りませんが、後者の意見のほうが主流となっているのかもしれませんが。

私自身は、被害者次第では公然と事件に言及されるのはつらいケースもあるかと思いますので、個別の事件について公共の場で規範を押し付けるような立ち入った言動はしないほうがいいのではないかと考えておりますが、「加害者を非難する立場」にも「被害者を非難する立場」にも、一応の理屈があるのではないかと思います。
例えば傷害事件のような、加害者と被害者の力関係に差があるような場合には世論が被害者の味方に立つことが多いようですが、不注意の置き引き被害くらいだったらどうでしょうか。
「絶対的に悪いのは加害者であって、非難すべきなのは被害者だ!」というような主張も、多少、和らいで、「貴重品をちゃんと携帯しておかないのが悪い」みたいな「被害者を非難する立場」が出てきても、少しありえるような気がしてきます。

この違いからなにが言いたいのかというと、「加害者を非難する立場」と「被害者を非難する立場」は、やや世界の見方がことなっているのではないか、ということです。
「加害者を非難する立場」は、いってしまえば性善説に立っています。
この世に悪人がいてはならない、いるとすればそいつが罰せられるべき、という発想です。
一方「被害者を非難する立場」は、いわば性悪説に立っています。
こちらの場合は、世界のどこかに必ず悪いことを考える奴はいるので、自分の身は自分で守らなければならない、という発想をします。
そして、先ほどの「傷害事件」と「置き引き」の例で差が感じられるとすれば、「傷害事件」のほうは「そんなことをするやつが普通いるはずがないし、その存在自体があってはならないことである」と性善説的に考える人、あるいはそれに近い考えを持っている人が相対的に多いのに対し、「置き引き」のほうは「そういうことを考える奴がいなくもないし、そういうやつが実際にいても仕方がない」と性悪説的に考える人が相対的に多いからではないかと推測できます。
つまり、どのような事件についても、そういった事件を起こすような輩の存在が社会的に前提となって認識されている場合には、「被害者を非難する立場」になりうるし、逆に社会的に前提となって認識されていなければ「加害者を非難する立場」に転じうるのではないでしょうか。

このように考えると、それぞれの立場にもそれなりの理屈があるように思われます。
「加害者を非難する立場」は、社会規範や理想とされる倫理観の目線を我々に教えてくれます。
しかし、実際に何か悪いことを考える人間がいるのは事実なので、それだけでは自分たちの身を守ることはできません。
それに対し「被害者を非難する立場」は、これから被害に遭うかもしれない人たちに対し、どうすれば被害に遭う可能性が低くなるのかを教えてくれます。
実際に、「夜道は一人で歩かない」という呼びかけを見かけることもあります。
ただし、このメッセージは、実際に被害に遭った人にとっては非常にデリケートな問題ともなったりします。
要はその発想自体が間違いというわけではなく、当たり前のような教訓をわざわざ個別の事件の被害者をダシにして述べるのがまずいのです。

昨今の風潮だと、「加害者を非難する立場」に立つことが正義みたいになっておりますが、個別の事件について公で言及するときにはそうならざるをえないのだと思います。
ただ一方で、自衛努力を怠ってはいけないというのも一般論としてありうることでしょう。
みなさまも、夜道を歩く際はお気を付けください。


あんまりそういうつもりはありませんでしたが、気が付けばまじめな話になっていましたね…。
このあいだおっぱいについて話したので、バランスとれたのかな。

それでは!

医者に行くということ

2016-09-21 23:52:00 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


らっす。さんが書けないそうなので、三たび代打です。
明日も私の担当なので、見る人は飽きてしまうかもしれません。
許してね。

今日はお医者さんの話でもしましょう。
自分で自分の体調が不安になって、お医者さんにいくと、まれに「なんで早く来なかったんですか」とか「今すぐ入院してください」とか言われることもあるみたいですが、たいていは、「あー、しっかり休んでおけば治りますよお薬出しときますね」の二つ返事で帰されてしまいます。
そんなときは、だったらわざわざ医者になんか来なくてもよかったんじゃないかという気分にもなるでしょう。

ただ、よくよく考えてみると、医者という病気のプロフェッショナルから「健康」とお墨付きをもらえるのは、書道家という書のプロフェッショナルに書いた書を褒められるようなもので、それだけでも大事なことなのです。
実際、プラシーボ効果なのかよくわかりませんが、自分では深刻だと思っていた症状も、医者に「大丈夫」と言われてしまえば大したことなかったような気もしてきたりします。
医者から「大丈夫」と診察された時点で気持ちの上では半分治ったようなものなのです。

このように考えると、病気に対して科学的な対処法がなかったころに、宗教的な儀式によって治療を行っていたのもうなずけます。
我々は体調不良等の不安に襲われたときに、それが客観的・分析的にどういう状態で、どういった対処法が科学的に適切なのか、といったことは、本質的にはどうでもいいと思っているのです。
結局のところ重要なのは、今目の前にある不安を取り除いてくれること、自分が納得できる形で対処することなのではないでしょうか。
医者に行くのも、シャーマンにお祈りしてもらうのも、一番根源的なところでは同じ動機によるのかもしれません。


医者に行くというのは自分の体に関わることであり、それぞれ付き合い方にポリシーのあるかたもいらっしゃることでしょう。
医者とも体とも、上手に付き合っていきたいものです。

それでは!