こんばんは、ヨン様です。
人間の生産活動、特に芸術・娯楽分野のものについては、多くの場合人間の内発的な動機付けによって成立するものであると考えられる傾向にあるように思われます。
例えば、詩について考えてみましょう。
私たちは、詩人の書いた素晴らしい完成品を見て、ああ、なんと素晴らしい詩なのだろう、こんな言葉が人によって作られたなんて、と驚嘆したりします。
そしてそれと同時に、作家の神がかり的な仕事ぶりに称賛の声を浴びせるのです。
このとき、多くの場合想起されるのは、おそらく、何か詩人の心の深淵にある神秘から、無数の言葉が湧出してくるというようなイメージではないでしょうか。
あたかも作者が神託に打たれ、想像力の奔流から一掬いのアイディアを取り上げるというようなイメージです。
つまり、作家の想像力の源泉は作家自身の内面にあり、その内発的な原動力によって、作品が成立するというわけです。
いま見てきたのは詩の例ですが、同じようなことは音楽にもいえることです。
敬虔なキリスト教信者であったバッハは、一音一音を神に祈りを捧げながら書いていたなどとまことしやかに言われることもあります。
音楽家の生み出したものを内面的な神に仮託しているという意味では、これも作家の生産活動の神格化の一例と考えてよいでしょう。
あるいは、芸術・娯楽分野以外に、研究分野においてもそのような神格化がなされる場合があるかもしれません。
アインシュタインの天才的な発想を耳にするとき、我々は「暗い研究室に独り閉じこもった白衣の研究者が、ある日雷に打たれたように理論を発見した」というようなイメージを想起していないでしょうか。
このように、人間の創造的な生産活動というものは、多くの場合内発的な動機付けによるものだと考えられる傾向があるように見えます。
中には、たしかにそのような天才的な発想で生産活動をするひともいることでしょう。
しかし現実的に考えると、そのような内発的な動機に依存するよりも、外発的な動機付けによって生産活動を行う方が圧倒的に多く、その生産活動によって得られたものも、決して悪いものではないように思われます。
例えば、民間企業が開発した工業製品は、いずれも「経済的利益を上げるため」という外発的動機付けによって製作されており、決して「神託に打たれて作りました!」という類のものではありません。
しかし、その多くが現在の我々の生活必需品となっています。
電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機のない生活が考えられるでしょうか?
企業の社会的使命という理想論もありますが、これらはいずれも一義的には経済的利益を上げる必要に迫られたために生み出され、結果的に人々の生活水準に貢献しています。
「必要は発明の母」とはよく言ったものです。
さらに重要なことは、神秘的な営みによって生産されているとついつい思ってしまいがちな分野においても、外発的な動機付けが非常に重要な役割を果たしているという点でしょう。
なぜ本が売れないとされる時代においても、週刊誌や月刊誌の漫画雑誌の連載をやめて、単行本だけに絞らないのでしょうか。
これには出版業界のさまざまな事情が絡んでいるかと思われますが、その理由の一つには「作家に対するインセンティブを与える」という側面があります。
つまり、「定期的に出版する(=一定間隔の締め切りを設ける)」という外発的動機付けを与えることにより、作家のモチベーションを維持しているのです。
このようなことは、程度の差はあれその他の芸術・娯楽分野、研究分野にもみられることです。
締め切りがあるから頑張ろうと、原稿その他の書類作成に追われた経験のある人は少なくないでしょう。
人間の生産活動は、目先の締め切りがあるからこそ、モチベーションを維持できているのだといえます。
以上のことは、人間の生産活動が、究極的には「作りたいから作る」という発想よりも「~のために作る」という発想に準じたほうが効率的である可能性を示唆しているように思われます。
「作らなくてもなんとかなる」というようにのんびり構えているよりも、「作らなければ死ぬ」という状況(!)のほうが生産性が上がるというのは、直感的にも納得のいくことです。
ただし、外発的動機付けの中に身を置くということは、それだけストレスフルな環境に置かれるということでもあります。
そのあたりのバランスをとりつつ、有効なインセンティブとして締め切り等の外発的動機付けを活用することが望まれるのではないでしょうか。
最近締め切りに追われることが多いので、自己暗示的な話になってしまいましたかね。
なお、このブログも「書かなければ死ぬ」という外発的動機付けによって書かれていることを、ここに申し添えておきます。
それでは!
人間の生産活動、特に芸術・娯楽分野のものについては、多くの場合人間の内発的な動機付けによって成立するものであると考えられる傾向にあるように思われます。
例えば、詩について考えてみましょう。
私たちは、詩人の書いた素晴らしい完成品を見て、ああ、なんと素晴らしい詩なのだろう、こんな言葉が人によって作られたなんて、と驚嘆したりします。
そしてそれと同時に、作家の神がかり的な仕事ぶりに称賛の声を浴びせるのです。
このとき、多くの場合想起されるのは、おそらく、何か詩人の心の深淵にある神秘から、無数の言葉が湧出してくるというようなイメージではないでしょうか。
あたかも作者が神託に打たれ、想像力の奔流から一掬いのアイディアを取り上げるというようなイメージです。
つまり、作家の想像力の源泉は作家自身の内面にあり、その内発的な原動力によって、作品が成立するというわけです。
いま見てきたのは詩の例ですが、同じようなことは音楽にもいえることです。
敬虔なキリスト教信者であったバッハは、一音一音を神に祈りを捧げながら書いていたなどとまことしやかに言われることもあります。
音楽家の生み出したものを内面的な神に仮託しているという意味では、これも作家の生産活動の神格化の一例と考えてよいでしょう。
あるいは、芸術・娯楽分野以外に、研究分野においてもそのような神格化がなされる場合があるかもしれません。
アインシュタインの天才的な発想を耳にするとき、我々は「暗い研究室に独り閉じこもった白衣の研究者が、ある日雷に打たれたように理論を発見した」というようなイメージを想起していないでしょうか。
このように、人間の創造的な生産活動というものは、多くの場合内発的な動機付けによるものだと考えられる傾向があるように見えます。
中には、たしかにそのような天才的な発想で生産活動をするひともいることでしょう。
しかし現実的に考えると、そのような内発的な動機に依存するよりも、外発的な動機付けによって生産活動を行う方が圧倒的に多く、その生産活動によって得られたものも、決して悪いものではないように思われます。
例えば、民間企業が開発した工業製品は、いずれも「経済的利益を上げるため」という外発的動機付けによって製作されており、決して「神託に打たれて作りました!」という類のものではありません。
しかし、その多くが現在の我々の生活必需品となっています。
電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機のない生活が考えられるでしょうか?
企業の社会的使命という理想論もありますが、これらはいずれも一義的には経済的利益を上げる必要に迫られたために生み出され、結果的に人々の生活水準に貢献しています。
「必要は発明の母」とはよく言ったものです。
さらに重要なことは、神秘的な営みによって生産されているとついつい思ってしまいがちな分野においても、外発的な動機付けが非常に重要な役割を果たしているという点でしょう。
なぜ本が売れないとされる時代においても、週刊誌や月刊誌の漫画雑誌の連載をやめて、単行本だけに絞らないのでしょうか。
これには出版業界のさまざまな事情が絡んでいるかと思われますが、その理由の一つには「作家に対するインセンティブを与える」という側面があります。
つまり、「定期的に出版する(=一定間隔の締め切りを設ける)」という外発的動機付けを与えることにより、作家のモチベーションを維持しているのです。
このようなことは、程度の差はあれその他の芸術・娯楽分野、研究分野にもみられることです。
締め切りがあるから頑張ろうと、原稿その他の書類作成に追われた経験のある人は少なくないでしょう。
人間の生産活動は、目先の締め切りがあるからこそ、モチベーションを維持できているのだといえます。
以上のことは、人間の生産活動が、究極的には「作りたいから作る」という発想よりも「~のために作る」という発想に準じたほうが効率的である可能性を示唆しているように思われます。
「作らなくてもなんとかなる」というようにのんびり構えているよりも、「作らなければ死ぬ」という状況(!)のほうが生産性が上がるというのは、直感的にも納得のいくことです。
ただし、外発的動機付けの中に身を置くということは、それだけストレスフルな環境に置かれるということでもあります。
そのあたりのバランスをとりつつ、有効なインセンティブとして締め切り等の外発的動機付けを活用することが望まれるのではないでしょうか。
最近締め切りに追われることが多いので、自己暗示的な話になってしまいましたかね。
なお、このブログも「書かなければ死ぬ」という外発的動機付けによって書かれていることを、ここに申し添えておきます。
それでは!