ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

「におい」のことば

2016-10-06 22:34:46 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


人間が持つ感覚は、「五感」などともいわれるように、一般的に「視覚」「触覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」の五つであるとされています。
しかしながら、これらの感覚の関係は対等なものではないような気がいたします。
ものによっては人間が敏感・繊細に捉えることができる一方、ものによってはほとんど弁別的に区別できていないのではないでしょうか。

例えば、視覚は私たちの感覚の中でもかなり細かな違いも捉えることができますよね。
かつて樹上生活をしていたことの反映として、人間は対象を立体的に捉えることが可能です。
また、主として果実等を食していたことにより、色を見分けることもできます。

このような感覚器官の発達と連動して、ことばの中にも、視覚に基づく語彙は豊富に含まれています。
「白い」「黒い」「赤い」「青い」といった色彩を表す語彙、「大きい」「小さい」「高い」「低い」などのサイズ感を表す語彙、「丸い」「四角い」「太い」「細い」などの形状を表す語彙、などなど、視覚に基づいていると思われることばは枚挙にいとまがありません。

ところが、嗅覚になるとどうでしょうか。
「くさい」と「かぐわしい」と「かんばしい」と「香ばしい」と、…あれ?
ほかにありますでしょうかね。
正直あまり思いつきそうもありません。
加えて、視覚に基づく語彙が「白」「黒」などの明確な概念と結びついているのに対し、「くさい」「かぐわしい」などは、せいぜい「快/不快」といった、極めて原初的な感覚しか表せていないのです。
「酸っぱいにおい」「甘いにおい」などということはできますが、これは明らかに味覚からの転用であり、純粋に嗅覚的なことばとはいえません。
この差はいったいどこから来るのでしょうか。

これは、おそらく嗅覚という感覚が、外界にその根拠を求められるものではなく、人間の頭の中にしか存在しないものだからでしょう。
例えば、「大きいもの」や「小さいもの」などは、実際にそれを提示して、その対象物について、「大きい」だとか「小さい」といったことを検討することができます。
一方で、「におい」については、「においの発生源」を提示することは可能でも、それは「においそのもの」ではありません。
「におい」そのものは、常に個々人の頭の中だけで感得されており、それらを横に並べて比べることは不可能です。
したがって、「この石とこの石はどっちが大きいか」ということは客観的にそれらを突き合わせることで検討可能なのに対し、「この花とこの花はどっちがかぐわしいか」ということは客観的な突き合わせによって比較することが叶わないわけです。

つまり、「におい」については「どのような基準に基づけば、どのようなにおいであるといえるのか」といったことを客観的に定めることができないのだといえます。
「におい」は「これこれのにおいがする」というような外延的な把握は可能でも、「こういう性質を持ったにおいがする」というような、内包的な把握はできないということもできるでしょう。
このような状況では、最低限の「快/不快」を表す語彙以外に、嗅覚に基づく語彙ないのも仕方ないかもしれません。
我々は「におい」について、「こういう性質を持っていればこうだ」というような理解ができるほど感覚が洗練されていないのです。

もちろん、犬のように高度な嗅覚を備えている動物であれば、あるいは「におい」というものをかなり細かく理解しているのかもしれません。
あるいは、「香道」と呼ばれる芸道の世界では、「におい」に対する人間の感覚を極限まで研ぎ澄ませ、細分化していくこともできそうです。
ただし、それらの感覚が人間の一般的な生活には縁遠いものであるということは変わらないでしょう。


私たちにとっては馴染みの薄い感覚である「嗅覚」。
とはいえ、「幼女のにおい」と「キモヲタのにおい」くらいは嗅ぎ分けられるようになっておきたいものです。

それでは!