ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

意外と知らない他人の経験

2016-10-04 23:55:06 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


歴史上の人物や著名人、スポーツ選手などの半生を振り返ると、そのあまりの波乱万丈ぶりに驚くことがあります。
月面に降り立ったり、偉大な発明をしたり、過酷な環境に打ち勝ったりと、その華々しい成果には目をみはるばかり。
ただ、それらがあまりにも非日常的すぎて、そういった特別な経験ができるのは一部の選ばれた人間だけなのだ、そのような特別な経験は自分には決してできないものだ、などと思ってしまいがちです。

本当にそうなのでしょうか。
確かに、私たち凡百の賎民ふぜいが月に行くことなど、一生かかっても叶うかどうか怪しい夢だといえます。
しかしながら、私たちにも「誰も経験したことがないこと」あるいは、「限られた人しか経験したことがないこと」を経験することは可能なのではないでしょうか?

例えば、私は幼い頃、手あたり次第大人に対してカンチョーをしまくっていたことがあります。
ところで、この世の中に、カンチョーをしたことがある人は、いったいどれくらいの割合でいるのでしょうか?
私の知っている範囲では、150人程度の学年の中に、私ともう一人(私の友人)くらいのものでした。
統計的な正確性はさておき、この計算で行くと、カンチョーをしたことのある人間は全人口のわずか1.3パーセント程度だということになります。

これは、日本の人口約1億2000万人に対して、およそ156万人しかカンチョーをした経験のある人間が存在しないことを意味します。
Wikipediaによれば、東欧の小国マケドニアで話されるマケドニア語の話者は200万人ほど。
日本のカンチョー経験者はマケドニア語の話者よりも少ないのです。
日本全国に156万人もカンチョーをしたことがある人間がいるのかと思うとちょっと脅威ですが、十分に希少な経験だということができるでしょう。

つまり、自分が身近に経験したことがある出来事であっても、それほどたくさんの人が経験しているとは限らないのです。
カンチョーをしたときに走るあの指先の鈍い感触を知っている人は、存外少ないということになります。

やや規模は変わりますが、「生活環境が類似していながら、一部の人は全く経験することがない」というような経験もあります。
典型的なのは、男女の差です。
おそらくほとんどの女性は、フロントにファスナーのついたズボンを履いたことはあっても、そのファスナーの穴を排泄の際に利用したことはないでしょう。
ましてや、そのファスナーに大事なものを挟んでしまうなどという経験があろうはずもないのです。
ちなみに私はあります。
これはとても痛い。

逆に、ほとんどの男性はスカートを履いたまま用を足すというようなことを経験したことはないでしょう。
そもそも、スカートを履くといった経験そのものがないかも知れません。
ちなみに私はあります。
高校の時罰ゲームで履きました。

男女の差でさえ、日本に限ってもおよそ半分の人間が経験していない出来事ということになります。
いったい、普段カンチョー経験者の思い出とか、男女の身近な経験差に思いを巡らせることがあるでしょうか。
このように、月面着陸とまではいかなくとも、他人が経験しえない経験というのは意外と身近なところに転がっているものなのです。


私たちは「未知の経験」などというとSF的スペクタクルを思い描きがちですが、そんなものはそうそうやってきません。
しかし一方で、私たちの身近な精神世界の中に、胸を躍らせるようなスペクタクルは存在するのです。
遠い国の遠い時代のことよりも、まずは身近な人々の経験を知り、そこに共感できるような心を養うことが大切なのではないでしょうか。

それでは!