何故今東洋のシンドラーと呼ばれる杉原千畝にスポットが当たるのか?
昭和15年年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られている。
昭和15年9月27日にベルリンで調印された日独伊三国間条約に基づく三国同盟以前の話となるが、
日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、中華民国を支援するアメリカと鋭く対立していた。
日本政府は日独伊防共協定を強化してドイツと手を結び、アメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。
当然ながらドイツと同盟関係を結ぼうとする矢先にドイツが排斥していたユダヤ人を救出することは当時の日本にとっては大変リスクが高いのである。
しかしながら
樋口季一郎
安江仙弘
松岡洋介
東條英機
彼等は2万人以上に登る大量のユダヤ人を救出したのである。このことは如何に当時の日本軍が人権を重んじアジア解放の為に戦っていたかが理解出来るのである。その為日本政府との温度差もあったことは否定出来ない。
昭和14年8月リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となった杉原は以前、昭和10年に満洲国外交部を退官しており、昭和12年にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任している。
満州事変より杉原は軍部に対する印象を快く思っていなかったようである。
つまり、戦後軍部をヒトラーと同等としたことで
裁いたのにその日本軍がユダヤ人を救ってしまっては悪の枢軸国とした連合国にとって非常にまずく、また日本としてもそれを受け入れ講和した手前教科書に日本軍の善意は描きづらいのだろう。
従ってこれを伏せるように杉原を英雄に仕立てたのであり、あくまでも杉原個人が外務省の訓令違反でビザを大量に発給してユダヤ人を6000人救ったとの美談が出来上がったのである。
しかも当時の外務省はビザ発給を禁止してはいなかったのであり、戦後処分されたこともGHQによる占領政策、公職追放の流れの中での大量解雇であったのだ。
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