かなりの数のリツイートといいねを付けたツイートがある。『事実、現実に向き合わない』特徴が日本人の民族性と言う。
更に慰安婦、南京事件を絡めて自問を投げかけている。
音楽と猫氏ツイート
『日本人の民族性の一つに、「事実/現実に向き合えない」という深刻な特徴がある。「うちの学校にいじめはありません」と言い、そこにある放射能を「ない」と言い、慰安婦もなかったし南京大虐殺もなかった、なかったなかったで、そのうち本当になかったんだと信じ込んでしまう。なんなんだろうこれは。』
これはこれで素朴な疑問として共感を得ている事は理解できるのだが、これを引用して稚拙であると上から目線で教え諭すような南京、慰安婦の土下座肯定派のリツイートが問題である。
slice氏ツイート
『それを民族性というのは少し拙速だろう。
長いこと支配ー被支配の関係しか無かった国民が支配側から洗脳されていただけだと思う。
客観<主観
論理<感情
唯物論<唯心論(観念論)
…だと思い込まされて来た。
事実<観念なのであるものも無い!と言い張り、分断出来ないもの分断する。
そして、
一部否定で全否定、一部肯定で全肯定の詭弁術で自己に都合のいいことだけを事実かのように唱えるのだ。…南京大虐殺は無かった!のように。
観念的演繹法(先に信じる命題があってそれにつじつまが合うことをねつ造してでも持ってくる)でもって事実を思考停止し現実を捻じ曲げるカルトである。』
神道をカルトと断言する時点で日本人に対するヘイトであり、日本民族に対するレイシズムとも言えよう。つまりあの戦争の行き過ぎた反省と教育が日本人に自らの民族性を否定する自虐的なレイシズムが生まれたことが戦後体制の負の成果である。
つまり、戦前の日本人は国家の犠牲者と語られ、戦後教育は国民主権が強調され、国家観、愛国心が根刮ぎ否定されたのであり、この中で利己的な個人主義が芽生え花開いたのである。
国よりも自分という考え方が、平和と共に成熟した結果、現在の政府であれ、過去の大日本帝国であれ、結局は自分を優先するようになってしまった。
結果として戦前であれ、戦後であれ、国が推し進めてきた政策への不信感は増大し、事あるごとに個人の犠牲が発生すれば現実と向き合わなくなる日本人を量産してきたのである。
これが戦後利己的個人主義、つまりは都合の悪い事は全て他人や国家のせいにしてしまうニュータイプの日本人の特徴である。
現在の認識として、残虐な行為、女性の人権差別など無かった、近隣諸国からの反日行為に向き合わない国家や一部右派(ネトウヨ)の戯言なのだろう。
慰安婦の強制連行は無かったを慰安婦などいなかったと勝手に変換し、また南京で戦闘行為はあったが、大虐殺などなかったが、南京戦など皆無とのように現実と向き合っていないと理解してしまうのである。
また、「うちの学校にいじめはありません」と言いうのは、戦後の利己的個人主義からの自分の立場や職場という限られた空間だけを守る偽善であり、比較するに値しない。
分かり易くサッカーに例えて冒頭のツイートに当てはめてみよう。
日本代表が16位に入る為にパス回しで時間稼ぎをしたが、数年後そのプレーが反則にルール変更となったとしよう。
数年後、
『日本人の民族性の一つに、「事実/現実に向き合えない」という深刻な特徴がある。「うちの学校にいじめはありません」と言い、そこにある放射能を「ない」と言い、時間稼ぎの反則は「なかった」、なかったなかったで、そのうち本当になかったんだと信じ込んでしまう。なんなんだろうこれは。』
如何だろうか、当時反則はしていないし、反則でもなかった時間稼ぎを彼等は一緒くたに無かったと主張する人物を疑問に感じたりカルトと批判するのだ。
当時確かに時間稼ぎのパス回しは行われたが反則では無かったと主張する人物をカルトやヘイト、レイシズムとしてネトウヨ呼ばわりすることの愚かさや利己的個人主義の捉え方が理解していただけただろうか。
利己的個人主義の日本代表、国家観、日本死ねと言う思考が、どれだけ共産主義に利するものであるかがお分かりいただけたであろう。
更に慰安婦、南京事件を絡めて自問を投げかけている。
音楽と猫氏ツイート
『日本人の民族性の一つに、「事実/現実に向き合えない」という深刻な特徴がある。「うちの学校にいじめはありません」と言い、そこにある放射能を「ない」と言い、慰安婦もなかったし南京大虐殺もなかった、なかったなかったで、そのうち本当になかったんだと信じ込んでしまう。なんなんだろうこれは。』
これはこれで素朴な疑問として共感を得ている事は理解できるのだが、これを引用して稚拙であると上から目線で教え諭すような南京、慰安婦の土下座肯定派のリツイートが問題である。
slice氏ツイート
『それを民族性というのは少し拙速だろう。
長いこと支配ー被支配の関係しか無かった国民が支配側から洗脳されていただけだと思う。
客観<主観
論理<感情
唯物論<唯心論(観念論)
…だと思い込まされて来た。
事実<観念なのであるものも無い!と言い張り、分断出来ないもの分断する。
そして、
一部否定で全否定、一部肯定で全肯定の詭弁術で自己に都合のいいことだけを事実かのように唱えるのだ。…南京大虐殺は無かった!のように。
観念的演繹法(先に信じる命題があってそれにつじつまが合うことをねつ造してでも持ってくる)でもって事実を思考停止し現実を捻じ曲げるカルトである。』
神道をカルトと断言する時点で日本人に対するヘイトであり、日本民族に対するレイシズムとも言えよう。つまりあの戦争の行き過ぎた反省と教育が日本人に自らの民族性を否定する自虐的なレイシズムが生まれたことが戦後体制の負の成果である。
つまり、戦前の日本人は国家の犠牲者と語られ、戦後教育は国民主権が強調され、国家観、愛国心が根刮ぎ否定されたのであり、この中で利己的な個人主義が芽生え花開いたのである。
国よりも自分という考え方が、平和と共に成熟した結果、現在の政府であれ、過去の大日本帝国であれ、結局は自分を優先するようになってしまった。
結果として戦前であれ、戦後であれ、国が推し進めてきた政策への不信感は増大し、事あるごとに個人の犠牲が発生すれば現実と向き合わなくなる日本人を量産してきたのである。
これが戦後利己的個人主義、つまりは都合の悪い事は全て他人や国家のせいにしてしまうニュータイプの日本人の特徴である。
現在の認識として、残虐な行為、女性の人権差別など無かった、近隣諸国からの反日行為に向き合わない国家や一部右派(ネトウヨ)の戯言なのだろう。
慰安婦の強制連行は無かったを慰安婦などいなかったと勝手に変換し、また南京で戦闘行為はあったが、大虐殺などなかったが、南京戦など皆無とのように現実と向き合っていないと理解してしまうのである。
また、「うちの学校にいじめはありません」と言いうのは、戦後の利己的個人主義からの自分の立場や職場という限られた空間だけを守る偽善であり、比較するに値しない。
分かり易くサッカーに例えて冒頭のツイートに当てはめてみよう。
日本代表が16位に入る為にパス回しで時間稼ぎをしたが、数年後そのプレーが反則にルール変更となったとしよう。
数年後、
『日本人の民族性の一つに、「事実/現実に向き合えない」という深刻な特徴がある。「うちの学校にいじめはありません」と言い、そこにある放射能を「ない」と言い、時間稼ぎの反則は「なかった」、なかったなかったで、そのうち本当になかったんだと信じ込んでしまう。なんなんだろうこれは。』
如何だろうか、当時反則はしていないし、反則でもなかった時間稼ぎを彼等は一緒くたに無かったと主張する人物を疑問に感じたりカルトと批判するのだ。
当時確かに時間稼ぎのパス回しは行われたが反則では無かったと主張する人物をカルトやヘイト、レイシズムとしてネトウヨ呼ばわりすることの愚かさや利己的個人主義の捉え方が理解していただけただろうか。
利己的個人主義の日本代表、国家観、日本死ねと言う思考が、どれだけ共産主義に利するものであるかがお分かりいただけたであろう。
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