両陛下 プライベートで埼玉県の深谷市にある渋沢栄一ゆかりの文化財などをご訪問されご視察なされた。
日高市にある高麗神社にも訪れたのだが韓国側の記事の内容に違和感を覚えた。
【ソウル時事】21日付の韓国主要各紙は、天皇、皇后両陛下が20日、古代朝鮮半島にあった高句麗からの《渡来人》を祭った埼玉県日高市の高麗神社を参拝されたことについて、「私的な旅行の一環だが、歴代《日王》(天皇)で初めて」と写真付きで詳しく報じた。
歴史的に見れば1300年も前の話だが、668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの《帰化人》を朝廷は現在の日高市ととその周辺に移住させた歴史がある。
この高麗神社は高麗王若光を主祭神として祀っており、プライベートであるが、天皇皇后両陛下が
訪問された。
本来であれば帰化人とするところが渡来人となって報道されており、日王や初めてなどの捉え方に違和感を感じる。
ネットとはいえ韓国の報道をそのまま引用する手抜きに日本人として慙愧の念に耐えない。
そんな時、みつうろこ@東京都督府さんのツイートを見つけ、リツイートしたところ、経緯を教えて頂いたのでご紹介する。
『【古代史研究と現代性―古代の「帰化人」「渡来人」問題を中心に】 李成市(早稲田大学文学学術院)より抜粋
古代日本の「帰化人」「渡来人」問題は、とりわけ1980年頃までの日本歴史学界において大いに問題とされた。そこには、戦後から1970年代までの日本の現実が深く関わっている。
1970年代の議論において注目すべきは、日本の歴史教科書において、従来「帰化人」と記されていた呼称が「渡来人」と書き換えられるようになったという事実である。作家や市民による学術の世界に対する異議申し立てが古代日本の外来人に対する認識について大きな変更をせまったのである。
かつて日本の古代史学界で用いる古代の「帰化」概念とは、『日本書紀』に基づくものであった。それによれば、「帰化」とは、(一)化外の国々から、その国の王の徳治を慕い、自ら王法の圏内に投じ、王化に帰附することであって...
(二)その国の王は一定の政治意志に基づいて、これを受け入れ、衣粮供給・国郡安置・編貫戸籍という内民化の手続きを経て、その国の礼・法秩序に帰属させるという一連の行為ないしは現象をいうと規定されている。
また、重要な点は、『日本書紀』の記事の用例(17例)は、「帰化」「来帰」「投化」「化来」の語を用いながら、「オノヅカラマウク」(自ずから参る)、「マウク」(参る)と訓ませて、それらの漢字語の概念の差はない。(続)』
とある。特筆すべきは80年代の近隣諸国条項までの70年代に歴史学界では古事記、日本書紀が否定され、すでに「帰化人」から「渡来人」へと修正されていることだ。
「帰化人」という語には、日本中心的な意味合いを含むなどとされてから不適切な用語であるとされ、金達寿や上田正昭らにより「渡来人」の呼称が提唱され、学界の主流となってしまった。
つまり、日本の歴史でありながら日本中心で表現してはならないという行きすぎた反省が過度に自虐的歴史修正を事前準備していた訳だ。
そこへ来ての教科書誤報事件、近隣諸国条項は綿密に計画された一連の流れであることと認識せずにはいられない。
しかも、日本側での修正の歴史観をオウム返しして日本へ諭すように発信しているのである。
ここでの修正の経緯と効果をもう一度簡略化して説明する。
東アジアで強い影響力を持つ帝国であり軍国主義国であった高句麗が668年唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた。今でいう難民であり、自分の意思で渡航したとはとても思えない。帰化人の意味として、自国中心だとか、現在の在日朝鮮人の帰化のイメージと干渉する意見から渡来人を使う方向にある。
敗戦と家永三郎の影響がこのような歴史修正に色濃く反映しているのだ。
今回の違和感はこれだけではない、天皇陛下を日王と表現し、歴代初などと騒ぎ立てているが、祭祀の一環として伊勢神宮に参拝するのとは訳が違い、あくまでもプライベートであることを忘れてはならない。
以上のように、歴史修正は用いられる歴史用語や言葉にまでポリコレが進行し、現代の価値基準や判断で自国の歴史であるにもかかわらず自国中心であってはならないとのハンデを背負い歴史戦を戦わねばならないのである。
相手側は、それも日本人によつて周到に準備された歴史のトラップをいくつも保持しつつ慰安婦や徴用工、震災デマ虐殺等の歴史戦で迫ってくるのである。
知らないでは済まされないところまで来ている。