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樹間暮のきまぐれライフ

ゆったりと・・・残りの20年は過ごせそうにないけれど、きまぐれな日々の生活を少しだけでも記憶の底に残しておくきっかけに。

あるエッセイ

2009-08-21 22:34:43 | 日記
穏やかなエッセイ集 「遠い朝の本たち」
60歳で女流文学賞をとった晩生の作家、須賀敦子さん

中学・高校と多感な時期に最もお世話になった私の恩師が同級生ということもありこの本がいつしか私の傍にある。何故この本が家にあったのか、まったく覚えていない。その偶然さも不思議な縁というものか。同窓生ということもあり、ある日ふっと手にとってから手放せなくなった。

その中にアン・リンドバーグ(初の大西洋横断の単独無着陸飛行を成功させた飛行家の婦人)=エッセイストの言葉が抜粋されている。彼女は夫に付いていくつかの冒険飛行に参加しあるとき、日本の千島列島の葦の中に不時着する。運よく救出されてアメリカへ戻るまで日本に滞在し1931年、横浜埠頭から戻ることになる。その時埠頭を埋めた見送りの人々が口にする「さようなら」という言葉の意味を後に書いている、と。

「『さようなら』とこの国の人々が別れにさいして口にのぼらせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々を守っている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアデュイも、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ」

ドイツ語のアウフビダゼーエンも中国語の「再見」も「また会いましょう」という意味。別れを次につなげ、別れている間も神があなたを守りますようにという祈りに近い、希望を含んだ言葉。なのに・・・

何度か人との別れを経験してきたこの歳になると「別れ」は決して希望に繋がらないこともわかっている。私が「そうならねばならぬのなら」という気持ちにならざるを得ない時にだけ「さようなら」を使うようになったのもこの文を読んでからである。

アン・モロウ・リンドバーグという作家のことがもう少し書かれている。「ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念」そして「徒党を組まない思考への意思がどのページにもひたひたとみなぎっている」と。

須賀さんの記憶の中に残っているすれ違った人たちと本のことを、きちんとそして穏やかに綴る彼女の言葉に共感し癒されるのは何故だろう。きっと彼女も本質を捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かない。自然な文体でそれでいながら凛とした風が吹くような彼女の文章を心地よく感じる。

トレイル

2009-08-21 21:48:16 | 日記
カナダで何回もキャンプに参加している頼もしき若きお嬢さんが、この「トレイルミックス」なるものを作ってくれた。この写真は2泊3日分の量だけど、実際カナダではこの10日分だけを渡されて、後は自分の自由裁量で食す。夜はさすがにこれプラス定番豆のスープ。そう、これは行動食というもの。

中身はカシューナッツ、ピーナッツ、アーモンドなどの豆類とm&mのチョコ、干しレーズンや干しベリー、乾燥果物、クラッカー、飴などなど。カロリーとカリウム、糖分などをうまく摂れるような中身になっている。

今回の仙丈ヶ岳に持参したが、夜、酒の友に消えてしまった・・・ぴったりだもの。    ごめん・・・