樹間暮のきまぐれライフ

ゆったりと・・・残りの20年は過ごせそうにないけれど、きまぐれな日々の生活を少しだけでも記憶の底に残しておくきっかけに。

東京

2011-03-29 23:31:52 | 日記
東北を襲った地震の後、金沢に戻り
平和な金沢に少し後ろめたさを感じながら生活している。
あまりにも平和だから・・・

       いつもの山のふもとに水を汲みに行く。
                
         お彼岸だというのに、雪が舞う
   ふんだんに流れる水、1年置いておいてもにごらず腐らない水
       観音様に守られた命の水をいただきます

この水をもって父の見舞いと一人暮らしとなった母を見舞いに
東京へ。普段、交通量の少ない北陸自動車道が
関西方面から新潟に向けてトラックが倍は走っていた。
援助物資、生活物資の運搬であろう。
仮設トイレを満載したトラック、建築資材を搭載したトラックなど。

ふっと思い出した。
3.11の首都高速の電光掲示板の文字
2段とも 「下道へおりろ」と命令形だった。
そして高速道路の封鎖・・・

電車もバスも、金沢では20分に1本あればいい方なので、
都内の運行状況が7割に落ちても、なんらイライラせずにすむ。
便利さになれた都会人には不満かもしれないが、
田舎のねずみになった私にとっては充分な電車の本数。
人間、慣れの問題かもしれぬ。



病院へ父を見舞うと
「いらっしゃい」と声を出してくれた。

震災直後に見舞ったときはなかなか声も出なかっただけに、
一進一退ではあるが、意思の疎通が出来る状況になっていることが嬉しい。
病院にいる間、肩や手をさすっていた。

ペットボトルの水が手に入らず、
お米もなかなか手に入らず、
80を過ぎた母はなにかと心細かろう。

4月1日に母は81歳を迎える。
一緒に行った娘は3月30日に17歳。
二人の誕生日をささやかに祝った
              

よくぞ健やかに81年生きてきた母に 感謝を。
   よくぞおおらかに素直に17年生きてきた娘に
        ここまで生かされてきた命の尊さを感じながら
           将来の夢に向かってひたむきに生きてほしいと願いながら

被災地の子供達

2011-03-20 21:02:34 | 日記
避難所で生活をしている中学生や高校生が
自治体のような組織をつくり、
自らすすんでトイレ掃除や、大人と一緒に物資運搬や
炊き出しの手伝いをしている。
なんとすばらしい!

上の学年の子達が小学生に勉強を教えていたり、
遊び相手になっていたり
それぞれが出来ることを考えて
行動に移している。
力強いなあ~。

コンクールに出られなかったコーラス部は
避難所で合唱を披露し、慰問する。
ブラスバンドも同じ

子供達にはいつ何時も笑顔でいてほしい


都内でじっとしている政治家たちよ
見習ったらどうか
手を貸す気持ちがあるのなら、
党派を超えて手伝うべき時期ではないか。

人は危機的状況に置かれたときの行動で
人間の大きさがわかる、と思っている。


                
  雪に埋もれていた地面からしっかり水仙が顔を出し、つぼみをつけ始めた
  
  確実に春は近づいているから
        それを信じて前に進んでほしい

いま私達にできること 2

2011-03-20 20:47:19 | 日記
大震災から1週間と2日が過ぎた。

作業員の命を懸けた作業のおかげで、
原発を冷却するためのポンプが回復し放水が軌道に
乗り始めている。
ほんのわずかだが、放射能の濃度が下がった。
これで最悪のシナリオは回避されるのだろうか。

民放の番組間の以前は企業のCMが流されているタイムに
ACジャパンの広告が何度も流されていたが、
震災に対応していない以前のものが流されていたようだ。
それもせん無いこと。

今日は新たなバージョンで
「いま私にできること」という広告が流されていた。
すべてを覚えていないが、
  ・使っていない電気器具のプラグを抜こう
     (節電:パソコンの電源を抜こう)
  ・不要なメールや電話はやめよう
  ・不要な買い置きは止めよう
  ・デマに振り回されないようにしよう
  
こんな様なことがいくつか流されていた。
当たり前のことなんだけど、当たり前すぎて気づかないこと。

こんなときだからこそ、
      謙虚さと平常心を!
と思う。

今私達にできること

2011-03-14 23:27:36 | 日記
被災した方々に心よりお見舞い申し上げます。
祈るしかできない自分がもどかしい。
前向きに立ち上がり、復興を目指している東北の人たちの
力強さに、日本の将来の希望をみる思いです。

実家の様子を確認して、父とも会い、
土曜日の夜に金沢に帰ってきた。
娘が一人、心細い気持ちでいたであろう。
地震も長野、新潟中越へ広がっていたし、今後
北陸や能登、福井へ広がらないとも限らない。
携帯がつながりにくい状態では、娘一人にして
おくのはかわいそう。
自分が今回ほとんど一人の行動だったため、
怖さが一段と増していたと思う。
やはり誰かとつながっている、ということが
気持ちを強くする。

陸路を予約していたが、道路もなんだかあぶなく
麻痺状態に近かったので、急遽空の便に変更。
羽田空港でも毛布で寝泊りしている人々・・・
                  

家に戻ると
娘はコートを着て部屋に居た。
何でも電力が足りなくなるので少しでも節電しようと、
暖房は一切つけず、電気も極力コンセントを抜いて
節電に努めていた。
ほんの小さなことだけど、彼女なりの支援の現れ。

ヘルツが東とは違うので、直接にはあまった電力を送ることは
できないが、こうして考えていてくれたこと、行動してくれたこと
頼もしかった。できることから行動しよう。

そしてこの晩、
私が小学生の頃作ったように、緊急持ち出し防災ザックを作る。
多少の食料、水、1回分の着替え、エイド品、登山用コッヘル・ガス
軍手、タオル、ファーストエイドの銀色シート、磁石にお守り・・・
これってやっぱり山道具・・・

被災時の対応

2011-03-14 23:14:56 | 日記
3月11日夜
交通網は麻痺
実家に戻ろうか、オフィスにとどまろうか思案した。

10時過ぎに流石、都営地下鉄が動き出し、銀座線も動き出し
うまく乗り継げば実家のそばまで行けることがわかった。

オフィスにとどまろうと、食料と水を確保した後だったが
母のことも気になっていたので、移動することに決めた。
都営地下鉄はホームであふれる人が乗り降りすると危ない、
と改札規制を行っていたが、運賃無料で通してくれて
朝夕のラッシュ以上の込みようであったが、日本人の勤勉さ?
で混乱もたいしてなく移動ができた。

帰宅難民
正にその様子。
地下道には駅員から配られたと思われるダンボールにすわりこむ
人々の列が二重三重になっていた。
動いている交通網に限りがあったので、多くの人たちが帰れずに
ここで一晩明かすのだろう。
道路は渋滞の車とその間を縫うように人々が歩いて帰ろうとする。
御茶ノ水から蒲田まで、三鷹から大崎まで・・・
知り合いらが歩いて帰宅した距離。これでも都内だからましなのであろう。

父はこれまた幸か不幸か2日前に入院していたので、
病院という安全な場所に居てくれた。

この日は母ともども兄の家にお世話になった。
娘は高校から帰れず、高校に宿泊。
21階ににある兄の部屋・・・余震があるたびにゆ~らゆ~らと。

そこで見た
信じがたい津波の映像
日本列島が200メートルも移動してしまったらしい程の
破壊的な力


                
               翌朝の朝日
千葉のコンビナートが炎上していた色と同じだった。