<韓国 ソウル>
ソウル市立美術館で開催のアンディウォーホル展
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売店が設置されアンディ グッズがいろいろ販売されている。
アンディウォーホル経歴
1928 アメリカ合衆国ペンシルヴァ二ア州のピッツバーグでチェコスロヴァキアの移民の炭鉱夫の家庭に生まれる。父親は高校卒業前に亡くなる。カーネギー工科大学で美術史、社会学、心理学を学ぶ
1949 ニューヨークへ。「ヴォーグ」誌などのイラストなど広告グラフィックの仕事を行う。ティファニー宝石店のウインド装飾なども。商業デザイナーとして出発。
1952 NYのヒューゴー画廊で初めての個展開催
1954 「サムという名の25匹の猫と1匹の青い子猫ちゃん」というタイトルのイラスト集を刊行
1957 靴の広告デザインで<アート・ディレクターズ・クラブ・メダル>を受賞。NYのパドレイ画廊で個展。60年まで毎年同画廊で個展
1960 フリーとなりアーティストを目指し絵画制作
1962 ロサンゼルスのフェラス画廊で「キャンベル缶シリーズ」の個展開催。酷評を受ける。シルクスクリーンの制作を開始。
シルクスクリーン・ペインティングの作品を制作し、NYのスチーブル画廊で個展を開催。これが大評判となり、一躍著名に。
NYのシドニー・ジャニス画廊の「ニュー・リアリスト展」に『キャンベル・スープ缶』を出品。“ポップ・アート”がここから始動する。
同年に亡くなった『マリリン・モンロー』を制作
1963 ファクトリーを開設。死を主題とした作品を制作。最初の映画を製作
1964 アムステルダム美術館の「ポップアート展」に出品。NYのレオ・キャステリ画廊で個展。パリのイレーナ・ゾンナーベント画廊で「花シリーズ」の個展
1965 ペンシルヴェ二ア大学インスティチュート・オブ・コンテンポラリー・アートでの個展でとてつもない入場者を記録。収拾がつかなくなったともいわれ、名声が決定的となる
1966 NYのグッゲンハイム美術館の「フォトグラフィック・イメージ」展に出品。ボストンで現代美術協会による「アンディ・ウォーホル」展。
制作した映画「チェルシー・ガール」がヒット。同作品がウォーホル制作映画で最も商業的に成功したものとなる
ヘリウムガスを入れた風船を画廊内で漂わせたインスタレーション《雲》を発表
1967 映画「ロンサム・カウボーイ」を制作。以後もアンディ・ウォーホル制作映画は数多く作られるが、自身がカメラを持った最後の作品となる
1968 ウォーホルの映画にも出演したことのある女性に狙撃されて重症を負う。同年は、黒人運動指導者キング牧師やケネディ大統領が暗殺されるなどのテロが吹き荒れた。以後の映画はファクトリーのスタッフが演出していく
カッセルのドクメンタⅣに参加。ストックホルム近代美術館で「ウォーホル展」
1969 ベルリン国立美術館で個展。ショービジネス界で著名な人物にインタビューした誌面だけで構成された「インタビュー」誌を創刊
1972 社交界からの注文肖像画の制作を始める。『毛沢東シリーズ』を制作
1974 日本で回顧展を行い、来日。
1976 ヨーロッパ各地の美術館で個展巡回
1977 ドクメンタⅥに参加
1978 ヴェネツッア・ビエンナーレに参加。チューリッヒ美術館やロンドンの現代美術協会で個展
1979 ホイットニー美術館で回顧展「70年代のポートレート展」
1980 ヴェネツッア・ビエンナーレに参加
1981 ロンドン王立美術協会の「ア・ニュー・スピリット・イン・ペインティング」展、ケルンの「西欧美術」展に出品
1982 ベルリンでの「ツァイガイスト」展に出品。ドクメンタⅦに出品
1983 冬季オリンピック・サラエボ大会のポスター制作
1985 NYのトニー・ジャフラジィ画廊で「ウォーホル+バスキア展」
1986 ケルンのルートヴィッヒ美術館の「ヨーロッパ/アメリカ」展に出品
1987 ニューヨークで死去
1989~ ニューヨーク近代美術館で大回顧展。翌年、世界で巡回の回顧展
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1928 | ペンシルバニア州、マッキンポートに生まれる。 | |
1942 | 14歳 | チェコからの移民、炭坑夫として働く父死亡。 | |
1945-49 | ピッツバーグ、カーネギー工科大に通う。 | ||
1949 | 21歳 | ニューヨークに出る。イラストの仕事をする。 | |
1960 | 32歳 | 漫画を題材にして絵を描く。 | |
1962 | 34歳 | ドル札、キャンベル・スープ、マリリン、惨事シリーズを制作する。 | |
1962 | ファクトリーと呼ぶアトリエを持つ。映画製作も始める。 | ||
1968 | 40歳 | 銃で打たれ重傷を負う。 | |
1987 | 59歳 | ニューヨークの病院で手術を受けたあと死亡。 |
1月21日午後
<韓国 ソウル>
ソウル市立美術館 アンディウォーホル展
アンディ・ウォーホルはアメリカのポップアート・アーティストの中で最も有名な人物です。
ウォーホルは1928年ペンシルバニア州ピッツバークでスロヴァキアの移民の家に生まれます。大恐慌の影響で家庭は非常に貧しかったそうです。体が弱かったウォーホルは家でラジオを聞いたり、本やマンガを読むことが多かったそうです。スーパーマン、ポパイ、バットマンに憧れる絵がうまい少年だったそうです。
1949年カーネギー工科大学を卒業後ニューヨークで商業アーティストとしての道を歩み始めます。彼の才能と技量がずば抜けていたことから雑誌“ヴォーグ”“ハーパース・バザー”の広告イラストやティファニーのウインドウ装飾などを手がけ、1950年代末までに商業分野である程度の成功を収めます。
しかし貧しい家庭に育った彼は富と名声を求めてアーティストを目指すようになります。50年代前半からドローイングによるアート作品の制作を開始しています。
1962年、ウォーホルが34歳の時に写真をベースにするシルクスクリーンという手法を使いはじめます。反復と量産を意識してあのコカ・コーラ、キャンベル・スープ、プレスリー、マリリンを 制作するようになります。資本主義が生み出した工業製品や有名人のポートレートをモチーフにした作品は彼のスタジオ“ファクトリー”で工場の流れ作業を意識してアートとして量産されるようになります。
従来の難解な現代アートと違い、ウォーホルの作品はわかりやすいアートでした。大衆は彼の作品に一体感を感じ支持しました。1965年フィラデルフィアで行われた個展には入場者が多すぎて収拾がつかなくなり、作品を壁からはずさなければなりませんでした。ウォーホルの名声はこの時期に一挙に確立されました。
彼の仕事はアート作品制作だけにとどまらず、“チェルシー・ガールズ”など数多くの映画製作やナイトクラブのショー、ロックバンドのベルベット・アンダーグラウンドのプロデュースまで行なっています。1969年にはインタビューで誌面すべてを構成する雑誌“インタビュー”も創刊しています。
ウォーホルは彼のアート作品とともに意識的に自分自身がメディアとなっていったのです。数多くのスキャンダラスな話題を提供するウォーホルはマスコミ、ファッション界、ニューヨークの社交界でも注目を浴びる存在となります。
70年代には社交界からの注文で多くのポートレートを制作しています。トルーマン・カポーティー、ミック・ジャガー、マイケル・ジャクソン、キャロライン王女など幅広い分野の有名人の依頼をこなしています。
80年代にはアート・ビジネスとの関わりが増え、個展開催が増大します。1987年1月にはロバートミラーギャラリーで初めてのウォーホル写真展が開催されました。
1987年2月22日突然心臓発作で急死するまで、ウォーホルは日本の家電メーカーのテレビCMに登場したりファッションショーに出演したりして常にマスコミや社交界の注目を浴び続けていました。
1989年にニューヨーク近代美術館で回顧展が開催されています。