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藤沢周平著 「雲奔る 小説・雲井龍雄」

2021年08月16日 18時49分12秒 | 読書記

前線が停滞し、九州、中国地方他、全国各地で、記録的大雨による土砂災害や洪水被害が発生しており、今も尚厳重警戒の地方、地域もあり、心が痛む。当地もここのところずっと雨降りが続いており、家籠もり、雨読を決め込んでいるが、新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めが掛からなくなっている状況で、心身共 陰鬱になっているところだ。

図書館から借りていた 藤沢周平著 「雲奔る 小説・雲井龍雄」(中央文庫)を やっと読み終えた。長編小説とあって、読み応え有り、やや梃子摺ずり、しばらく読書から遠ざかりたい気分 になっている。

             第1部 雲奔る
             第2部 討薩ノ檄
             第3部 檻車墨河を渡る
                 あとがき

主人公は、米沢藩の下級藩士、雲井龍雄。中島家の次男で18歳で小島家に養子、本名 小島龍三郎。妻 ヨシ。義母 お志賀。
「あとがき」で、著者は、「私の郷里から、明治維新と呼ばれる激動期に、志士として積極的にかかわり合った人が二人いる。一人は清川八郎であり、一人は雲井龍雄である」と記述している。清川八郎も、雲井龍雄も、これまで、聞いたことも無い人物名であるが、その一人、雲井龍雄に焦点を当てた作品。悲劇の志士として、27歳の短くも激しく生きた雲井龍雄の人間性、生涯を描いている。時代は幕末、長州藩、薩摩藩、土佐藩等が台頭し、倒幕の大きな流れ、うねりが起こり、大勢が決まりつつあった頃に、米沢から江戸に出て、三計塾の安井息軒の下に通い、短期間で頭角を現し、塾頭にもなった秀才、雲井龍雄。米沢藩から「探索方」を拝命し、三計塾で培った歴史上有名人物との人脈をフル活用しながら、江戸、京都等で活躍するが、薩長同盟、倒幕、大政奉還、大阪から逃げ帰り、いち早く蟄居、恭順した徳川慶喜、江戸無血開城、官軍の標的は 会津藩、奥州越列藩へ移る。刻々変化する幕末の狂乱の嵐は、奥羽越列藩、米沢藩にも及ぶが、一方的に会津鎮撫の挙に出た薩摩藩に対して、龍雄は、激しく憤り、「討薩の檄」を懐に奔走、画策するようになる。しかし、奥羽越列藩同盟は崩壊、米沢藩も版籍奉還、大勢が決まってしまい、龍雄は、郷里米沢に檻送されてしまう。新政府による取り締まりが始まり、新政府に反抗姿勢をとる同志達が次々捕らえられ、雲井龍雄も、再び江戸に檻送され、明治3年12月28日、小伝馬町の牢屋敷で斬られ、その首は小塚処刑場に送られ、さらされた。27歳の生涯だった。著者の「あとがき」によると 雲井龍雄が処刑された後、郷里米沢でも、雲井龍雄の名前を口にすることがタブーとなり、維新史の中にも表面に出ていないのだそうだ。そんな雲井龍雄に焦点を当て、綿密な時代考証を踏まえて描いた、異色の時代小説だと思う。目から鱗・・である。
舞台は、米沢、江戸、京都、仙台等々、点々とするが その随所で 藤沢周平ならではの細やかな情景描写が有り、場面に引きずりこまれる。物語の終盤、奥州越列藩同盟が敗北し始めている中、すでに官軍の支配下に有った前橋藩、小畑藩、沼田藩の説得を試みるため、雲井龍雄は上州に潜入、結局は無駄な努力、徒労に終わる段があるが、檜枝岐、沼山峠、尾瀬沼、三平峠、沼田街道を草鞋で往来したと有り、若い頃、尾瀬ハイクで歩いたあの街道を、100数十年前に、雲井龍雄も奔っていたのかと思うと感慨深くもなる。

 


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