まえがき
平成の時代に入ってまもなくの頃の話である。その頃はまだ、母親は北陸の山村で一人暮らしをしていたが、すでに認知症の症状が現れ始めていた。大正12年(1923年)に、薄幸の星の下に生まれ、運命の為すがまま、激動の大正、昭和、そして平成の時代を、右に左に必死に生き抜いてきた彼女の出自や、生い立ち、血の繋がらない人間が寄り合って一家を成してきた過程等を、少しでも知っておきたく、機会有る毎に、何度も何度も繰り返し、聞き取り、書き取りしたことが有った。
戦前の記録や写真等で、残っているものと言っても極めて少なく、彼女にしてみても、語れる記憶と言ったら、子供の頃、若い頃の断片的なエピソードや事件の記憶程度しか無く、とても回想録等として綴れる内容では無かったが、なんとか、物語としてまとめてみたく、長年、その思いを温めてきたものだった。悩みに悩み、登場人物は、それぞれ実在していた人物(仮名)とするものの、想像と脚色で繋ぎ合わせ、ほとんどフィクションに近い物語風にすることに決めた。
この、物語「寄り合い家族」は、自分の今日にも繋がっているものでも有り、ブログを始めた頃から、なんとしても、生きている内に、ブログ上に書き留め置きたいと思い込んだテーマの一つだっだが、何分、発想力無し、語彙力無し、作文力無しの爺さん、なかなか重い腰が上がらず、延び延びになっていたものだ。すでに、「その内いつか・・・」等と言ってられない歳となっており、「いつやるの?」、「今でしょ!」・・・、自問自答し、やっと取り掛かってはみたものの、どこまでまとめられるか等、まるで見当も付かない。支離滅裂でも、ほんの数行づつでも、ボチボチと、書き込めたら、それで御の字だと思いながら・・・。
第1章 「出会い」
(1)
昭和2年(1927年)は、前年の12月25日に、大正天皇が崩御されたことから、年号が「昭和」に変わり、わずか7日間で「昭和元年」が終わった直後の年であり、実質上、昭和時代の始まりの年でもあった。その年の2月には、大規模な大正天皇大葬儀が行われ、その葬列を見送るため、地方から200万人以上が東京に集まり、圧死者や重軽傷者が出た程であったが、国民の間では、まだ、「昭和」に慣れていない年でもあった。
その昭和2年も師走の半ばを迎えたある日、渋谷八幡通りに程近い、路地の奥のしもた屋に住んでいた石澤くには、木枯らしが吹き抜ける中、買い物の帰り道、家の直ぐ近くに来て、板塀の前で、泣きじゃくりながら、うずくまっている幼い女の子がいるのに気が付いた。普段、見かけている近所の子供では、なさそうだったが、放っておけない性格のくには、声を掛ける。
「おじょうちゃん、どうしたの?」
身なりは、ちゃんとしているものの、顔色は悪く、痩せ細っており、顔を覆う手は、赤く腫れ上がっている。シモヤケだろう。
声を掛けても、うつむいていて返事をしない。
「そんなところにいちゃ、風邪引くよ」
「おばちゃんちに、入ろ・・」、
くには、女の子を立たせ、ひとまず、家に入れて、上がり框に座らせ、急いで、茶箪笥から有り合わせの駄菓子等を出してきて与えた。くにが、火鉢に炭を起こしている間にも、よほどお腹がすいていたと見えて、出され駄菓子をみな食べてしまい、やっとあどけない表情を見せた。 「お名前は?」、「おうちは、どこ?」、「おいくつ?」、
くには、もう一度、やさしく聞いてみるが、名前だけは、「チヨ・・・」と答えるだけで、さっぱり要領を得ず、「さーって、困った」
もしかしたら、「言うことを聞かない子は、うちの子じゃない。出て行け」等と、怒られて締め出され、戻れなくなってしまった子供かも知れない等と思ったくにだったが、
ちょうどその時、向こう隣りの松つぁんが玄関前を通り掛かったのを幸い、呼び止めて、家の中に引っ張り込んだ。松つぁんとは、お人好しで、世話好き、おしゃべりな大工の棟梁、木下松蔵のこと、近所では、皆、親しみを込めて、「松つぁん」と呼んでいた。
「松つぁん、この子、どこの子か知らないかい?」、 松つぁんは、しげしげと女の子を見ながら、ちょっと首を傾げて、「さあ、知らん顔だなあ」
仕事から帰って、まだ家に寄っていない松つぁんだったが、 「探してる者がいるかも知れん。ちょっくら、そこらへん歩き回って聞いてみるから、待ってな」、
言い放って走り去った。まだまだ、世話好き、おせっかい焼きが多かった時代だったのだ。しばらくすると、松つぁん、一人の小太りで割烹着の女を伴って、戻ってきた。
その割烹着の女、女の子を見るなり「ああ この子、知ってるよ。1丁程先の角を曲がってから、確か、5軒目の家の子だよ。半年前位に、親戚から預かった子だって・・・・」 住民の情報、噂話等が、井戸端会議風に伝わって、共有されていた時代でもあった。どこの子供か分かれば心配することは無いと、ほっとしたくにだったが、なにか分け有りの様子に見えるチヨ、まだ慣れていない町で、家にちゃんと戻れるのかどうかも心配になり、
「じゃ、おばちゃんが一緒に行って、うちの人に、よく話してやるから、帰ろ!」、 くには、渋るチヨの背中を押すように促し、その家まで送って行った。商店街から路地を入り、やや混み入った感じの住宅が並んでいたが、割烹着の女が教えてくれた「木村」の家は、すぐ分かった。
「ごめんくださいまし」
くにが訪いを入れると、すぐさま大柄な男が出てきた。この家の主人に違いない。くには、彼の、じろり、チヨを見る目に、冷たい空気を感じた。案の定、くにがいきさつを話し終わるやいなや、そのお礼の言葉より先に、いきなり、ピシャ!、チヨの頬を打ち、怒鳴っているではないか。くには、直感的に、チヨがその家で、どんなにかつらい立場に有ることを見抜いていた。「チヨ」の本当の名前は、「千代子」であることが分かったが、玄関先で、恐怖で、身体を固くしている千代子を、後ろ髪引かれる思いで、引き渡しながら、 「また、今度、遊びにおいで」 と、言葉を掛けて別れるしかない、くにであったが、それは、5才だった千代子と、後に、千代子の養母となるくにの運命的な出会いの日となったのである。
(つづく)
どの様な展開になるのかわかりませんが、明治大正昭和と、どこの家庭でも今では信じられないようなことがあったのではと思います。
私も、父や従姉妹が断片的に聞いている話を教えてもらって驚くと共に、きちんとかきとめておければよいのにと思ったりしました。
昨夜は草刈正雄さんのファミリーヒストリーをやっていて、見ていました
最後は夫婦でウルウルしてしまいました
今日はたけじいさんのファミリーヒストリーの第一話
終戦記念日の今日は、過去を振り返ってつづるのにいいスターの日ですね
大変でしょうが、続きを待っています
それが、一般的なお盆の情景なんでしょうが、
複雑なルーツを持つ家も有るという典型かも知れません。聞いてびっくり、今では信じられないようなことが、多々 重なって、複雑怪奇、未だに、どういうことなのか、不明な点だらけで、筋書きがなかな決まりません。少しずつ、紐解いていこうと思っています。
コメントいただき有難うございました。
「事実は小説より奇なり」、
というケースが多いのかも知れませんね。
難しいですが、少しずつ、まとめていきたいと思っています。
コメントいただき有難うございます。