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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

爺山歩 岩殿山その2

2017年06月11日 09時47分18秒 | 山歩記

爺山歩 岩殿山その1 の 続きです。

岩殿山山頂から 揚城戸跡の下の分岐まで戻り 右へ。
「落城の道コース」等とも呼ばれている 筑坂峠、稚児落とし 方面に 向かいます。

下り切った鞍部に有る 筑坂峠(つきさかとうげ)(標高 460m)。
筑坂は 大手口に備えた空堀で 岩殿城の入口だったと 説明されています。

筑坂(つきさか)から兜岩(かぶといわ)に掛けては 鎖場が2ヶ所有る等 このコースで最も厳しい難所です。

鎖場を避けて 林間を進む巻き道も有りますが 余り歩かれていないのか 逆に 踏み跡がしっかりしていません。
迷うことなく 鎖場コースへ。

一つ目の鎖場です。

登り切って 下を覗くと・・・、

絶壁を カニノヨコバイ風に横切ると 直ぐ カニノタテバイ風の鎖場が 続きます。
写真なんか撮ってる場合でなく カメラを仕舞いこんで 三点支持
ワイヤー、鎖、しっかり施されており 慎重に 一歩一歩進めば 大丈夫ですが。

鎖場を登り切ったところが 兜岩なんでしょうか。

今度は 急下降です。

振り返ると 岩殿山山頂と 歩いてきた稜線が眺められます。

天神山(標高 590m)、
鉄塔が立っており 浅利天神の祠があります。

天神山から尾根道を アップダウンを繰り返すること 約30分、稚児落としの大岩壁が見えてきます。

垂直にして100m以上というU字状に湾曲した巨大断崖絶壁、その岩壁上の縁を登っていきます。
掴るものが無く 危険です。
一歩間違えば 奈落の底・・・。
とても 下を覗き込む等 無理、無理・・。

「岩殿山ふれあいの館」等で説明されている 「落城の道」、「稚児落とし」について概略は・・・、

1982年3月、織田軍の甲州征伐により 武田勝頼は新府城を焼き払って敗走、それまで 武田氏の重臣だった 岩殿城主 小山田信茂を頼って 岩殿山に向かっていたが 既に 岩殿城は北条勢に攻撃されていて 小山田信茂は 織田方の命令で 甲斐善光寺に出頭する事態に陥っていた。小山田氏の残された婦女子は 整備してあった「落城の道」を通り 脱出を図ったが 筑坂、兜岩から 当時は 「呼ばわりの谷」と呼ばれていた大岩壁に来た時 夫人が背にしていた子供が泣き出し泣き止まず 敵に発見されてしまった。夫人は やむを得ず 子供を岩壁上から投げ落として 雁が腹摺山方面に逃げ延びた。
その場所を 「稚児落とし」と 呼ぶようになった。
岩殿山城主 小山田信茂は 織田方に寝返り 武田勝頼は 天目山の戦いで自害し 武田氏は滅亡、
小山田信茂も 主君武田勝頼へに不忠を咎められて 織田方、甲州征伐総大将 織田信忠によって 甲斐善光寺で処刑された。

他にも諸説有り 真偽は定かではないようですが。

足がすくみ 大岩壁の写真は 撮れません。
おそる、おそる 上っつらだけ・・・、カシャ、

稜線上から 浅利集落方面へ 急下降路になります。

浅利集落側の岩殿山登山口です。

バスの便は 1時間に1本程度、結局 テクテク、テクテク 車道歩きが 45分。

JR大月駅には 跨線橋を渡っていきます。

跨線橋上から 岩殿山(右)と 稜線が 眺望出来ます。

午後3時30分頃 JR大月駅に到着、電車で うつらうつらしながら 帰途につきました。

(おわり)

 

 

 

 

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