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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

古い写真から蘇る思い出の山旅・その57(1)

2024年08月15日 13時24分55秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等、夏山登山をしていたが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。長男、次男が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、10数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していて、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込み、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その後、「デジブック」が終了したことで、ブログから写真が消えてしまい、改めて、順次、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)しようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


「夏が来ーれば、思い出すーー♫」  
夏山を、存分に楽しんでおられる老若男女が、多い候ではなかろうかと思う。
すでに、足、腰、痛!、痛!で、山歩き等を断念している老夫婦、そんな夏山に思いを馳せながら、もっぱら、古い写真を引っ張り出しては、懐かしがっている風である。
かれこれ23年前、2001年8月5日~6日に、妻、次男と3人で、「白馬三山と白馬鑓温泉」を訪れたことがあった。
「白馬岳」には、学生の頃、お盆に帰省した折、突然、村落の青年団の有志から、「白馬登山」に誘われ、なんの準備も予備知識も無いまま、ただくっついて登ったことが有ったが、台風の影響だったのか、暴風雨に襲われ、ひたすら大雪渓を上り詰め白馬頂上小屋で1泊しただけで、登頂は断念、再び大雪渓を下ったことが有った。
後年になって、長男、次男が、小学生、中学生になった頃には、大雪渓から登り、白馬大池、栂池を巡るコースを歩き、最初の白馬岳の残念は、取り戻した気がしていたが、白馬、杓子、白馬鑓の白馬三山を辿って、白馬鑓温泉一浴する山歩きを、どうしても一度はしてみたい望みをずっと持っていて、思い立って敢行したものだった。
真夜中に自宅を出発、山小屋1泊、時間的、経済的、精神的余裕の無い、慌ただしい山歩きでは有ったが、2日間共天候にも恵まれ、お目当てだった高山植物にも沢山会え、念願の白馬鑓温泉一浴も叶い、トラブルも有ったが、大満足の山旅だったと思っている。今になっては、あの時、思い切って行ってて本当に良かったとつくづく思う。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケット型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、撮った写真は、その都度プリントしてアルバムに貼っていたものだが、数年前に、スキャナーで取り込み、「デジブック」等にしたり、ブログに書き込んだことがあり、その写真、外付けHDに保管してある。久し振りに引っ張り出し、改めて、ブログ・カテゴリー「山歩記」に、書き留め置くことにした。


深田久弥著 「日本百名山」
「白馬岳(しろうまだけ)」
(一部転載)

日本アルプスへの初見参が白馬岳(しろうまだけ)であった人は少なくないだろう。高峰へ初めての人を案内するのに、好適な山である。大雪渓があり、豊富なお花畠があり、眺望がすこぶるよい。私の知人で、この頂上から生まれて初めて日本海を見たという人もある。
登りに変化があってしかも易しく、道も小屋も整っている。コースもいろいろあって、正面の大雪渓から登り、帰りは北行して白馬大池を訪う(おとなう)もよろしく、南行してわが国最高の露天風呂白馬鑓温泉(しろうまやりおんせん)に浴するのもおもしろかろう。健脚の人は、さらに後立山連峰へ足を伸ばすもよし、途中から黒部谷へ下るのも興味がある。いずれにせよ、白馬岳は、槍ヶ岳とともに北アルプスで最も賑わう山である。
白馬岳は、西側の越中や越後側では、大蓮華山(おおれんげさん)と呼ばれた。北に位置しているから雪が多い。その白雪輝く山容が、日本海側から見ると、蓮華の開花に似ていたからだという。信州側から仰いでも実に堂々とした貫禄を持っている。しかし私はこの山を東西の横から眺めるよりも、南北の縦から望んだ姿が好きである。縦から見た白馬岳は、横から見たのと、別人の観がある。東側が鋭く切れ落ち、キッと頭を持ちあげたさまは、怒れる獅子(しし)といった感じをいつも私は受ける。颯爽(さっそう)たる姿である。
この立派な山に、以前は信州側にはこれという名が無く、単に西山(にしやま)と呼ばれていた。それがいつ頃からか代馬岳(しろうまだけ)と名づけられ、それが現在の白馬岳(しろうまだけ)と変わった。代馬より白馬の方が字面(じづら)がよいから、この変化は当然かもしれないが、それによってハクバという発音が生じ、今では大半の人がハクバ山と誤って呼ぶようになっている。この誤称は防ぎ難い。すでに膝元(ひざもと)からして白馬村(はくばむら)と唱えるようになった。
代馬岳という名の起こりは、山の一角に残雪の消えた跡が馬の形になって現れるからであった。田植にかかる前の苗代搔(なわしろかき)をする頃この馬の形が見え始めるので、苗代馬の意味で代馬と呼んだという。
(中略)
わが国の高山にはたいていその頂上に古くから祠が祀ってあるが、白馬岳にはそれが無い。この美しい山を讃えた詩歌の類も、古い記録には見当たらない。明治二十七年(1984年)ウエストンが頂上に立つまで、おそらく薬草採りや漁師にだけ任された原始的な山だったのでだろう。ウエストンは蓮華鉱山の方から登り、大雪渓を下っている。
(中略)
私の最初の登頂は、大正十二年(1923年)の七月で、乗物は、まだ大町までしかなかった。そこから1日歩いて四ツ谷に泊まり、翌朝山にかかった。頂上に達してその日のうちに大池まで往復してきたのだから、当時の元気のよかったことが察しられる。
その後、私は四季を通じて白馬に登った。積雪期には栂池の方から登り、頂上で腹匍(はらばい)になって東面岩壁の氷雪の殿堂を覗いた。新緑の候にはまだ残雪多量の大雪渓を登りながら、両側の尾根のダケカンバのようやく芽ぐんできた美しい色彩を眺めた。紅葉を見に行った秋には、小雨に降られて、ただ一人頂上で濛々たる霧に巻かれるに任せた。
近頃は白馬山麓へスキーに行く人が多くなった。もちろん山へ登ろうなどという気は起こさず、もっぱらリフトに頼って滑降を楽しむだけの人が大部分だが、しかし、登山に無縁の彼等スキー大衆といえども、白馬、杓子、鑓のいわゆる白馬三山が白銀に輝いているのを仰いでは、その気高い美しさに打たれずにはおれないだろう。


山行コース・歩程等

1日目 猿倉→白馬尻→(大雪渓)→葱平→(お花畑)→白馬山荘→白馬岳山頂→白馬山荘(泊)
   (標準歩行所要時間=約7時間)
2日目 白馬山荘→丸山→杓子岳→白馬鑓ヶ岳→大出原→白馬鑓温泉→猿倉
   (標準歩行所要時間=約8時間)

(朝日新聞社 「週刊「日本百名山」から拝借)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その57
「白馬三山と白馬鑓温泉」(再)
(1)
「猿倉から、大雪渓、葱平(ねぶかっぴら)」

自営業を続けていた頃のこと、毎度のことながら、前日までに仕事のケリをつけ、真夜中に自宅を出発、中央自動車道、国道147号線、18号線をひた走り、登山口猿倉の駐車場に到着したのは、午前5時30分頃だったようだ。
夏山シーズン真っ盛りの候でも有り、150台駐車可能とされていた駐車場も、その時間帯でほぼ満車状態、係員の誘導でなんとか駐車出来た気がする。

5時45分頃、猿倉荘前を出発したようだ。

 

白馬尻小屋

7時45分頃、大雪渓下部に到着、
軽アイゼンを装着し、いよいよ大雪渓へ・・・、

怖い落石に注意しながら 一歩、一歩・・・。

9時40分頃、ようやく、大雪渓を登り切り、
軽アイゼンを外し、やれやれ・・・・、

大雪渓を登り詰めてやれやれ、
葱平付近で休憩しようと座りこんだ時、
右足の登山靴の靴底のつま先部分から半分程が、
突然、パカーンと 口を開けてしまった。
登山は、まだこれからという時と場所、
すっかり泡を食ってしまったが、
応急手当、予備で持参していた靴紐でがんじがらめに縛り付け、
なんとか大丈夫そう?、続行出来ると判断、
宿泊した山小屋で、さらに丈夫そうな紐をいただき補強したが、
翌日下山するまで、靴底を気にしながらの
ヒヤヒヤ山歩きとなってしまったのだった。
10時45分頃、葱平に到着、大休憩、
下からガスが吹き上げてきて、大雪渓が見えなくなり・・・、

(つづく)

 

 


古い写真から蘇る思い出の山旅・その56

2024年08月13日 17時44分56秒 | 山歩記

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがある。「アクセス数」を気にしてでのことではなく、すっかり忘れてしまっているような、随分前に書き込んだ古い記事にアクセスが有ったりするのを、楽しみにチェックしている風なのだ。
そんな記事に目に止まった瞬間、「エッ、こんな記事にアクセス?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりしているのだ。
「gooブログ」=「記憶力がまるで無くなっている爺さんの自分のための記憶補助ツール」と決め込んでいる爺さんには、「アクセス解析」もまた、便利で有難いツール、大いに活用しているという次第。
先日、6年前に、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留めていた記事、「瑞牆山」にアクセスが有ったことに気が付いた。
「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクすることにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その56
「瑞牆山(みずがきやま)」(再)


「夏が来ーれば、思い出すーー♫」  
夏山シーズン、
炎暑の下界?をよそに、夏山を存分に楽しんでおられる老若男女が多い季節であろうか。
すでに、足、腰、痛!、痛!で、山歩き等を断念している老夫婦、
そんな夏山に思いを馳せながら、もっぱら、古い写真を引っ張り出しては、
懐かしがっている風である。
今から21年前、2003年9月6日に、妻と二人で、山梨県の「瑞牆山」を訪れたことがあった。
「瑞牆山」もまた、深田久弥による「日本百名山」の一座であり、それまでも、一度訪ねたことがあったが、妻にとっては、初めての山だった。
まだまだ自営業を続けていた頃だったが、夏も終わりに近づき、思い立って、仕事にケリを付け、忙中閑を作って、出掛けた気がする。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケット型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、撮った写真は、その都度プリントし、アルバムに貼っていたものだが、数年前に、そんな写真をスキャナーで取り込んで、ブログに書き込んだリ、デジブックにしたことがある。
拙劣写真ばかりだが、外付けHDに保管してあり、久し振りに引っ張り出しみた。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながらも、あの時あの場所を思い出しているところだ。


深田久弥著 「日本百名山」
「瑞牆山(みずがきやま)」
(一部転載)

昔の人は山の名をつけるのに、今の山岳団体が会誌の名前を考えるように凝(こ)らなかった。抽象から遠く、ごく現実的な名をつけた。山の形や色や地勢から推して、槍(やり)だの赤岳(あかだけ)だの大崩(おおくずれ)だの。それからまた卑近な見廻りの道具の名を取って、笊(ざる)だの鞍(くら)だの屏風(びょうぶ)だの、とつけた。
だから今、美しい文学的な山の名があれば、それはたいてい後世の宛字(あてじ)と見ていい。例えば上越の七ッ小屋山も、以前その頂にシシ小屋があり、シシがシチと聞き誤られ、そのシチが七つとなったのだろう、と私は考えている。シシ小屋よりも七ッ小屋の方が芸術的である。
瑞牆山(みずがきやま)も、昔の人はこんな凝った名前をつけない。大たい民衆はこんなむずかしい字さえ知らなかっただろう。私は気をつけて甲州の古地図や記録を見ているが、いまだに瑞牆という文字に出くわさない。もっとも私はあの丹念で執念深い書物の紙魚(しみ)ではないから、見逃しはあるだろう。
瑞牆山を麓の村では以前瘤岩(こぶいわ)と呼んでいたそうである。私は次のように考えてみた。三つの山稜が集まる所を三繋ぎ(みつなぎ)と呼ぶことがある。瑞牆山は、金峰山から小川山に至る山稜の途中から西に派出した尾根上の突起である。山稜が三つに分かれるところが、三繋ぎと呼ばれ、そのミツナギが聞き誤られ、ミズガキという風流な名前になって今の峰に冠せられたのではなかろうかと。もちろんこれは私の勝手な憶測である。
旧記によると、金峰を玉塁(たまがき)とした古図があるそうで、小尾、比志の里人は金峰山の麓を指して瑞塁(みずがき)と呼んだという。瑞牆の名はそこから来たのかもしれない。
由来はどうであれ、瑞牆という名は私は大へん好きである。そしてこの名はこの山にふさわしいと思う。瘤岩と呼ばれたほど、大きな岩がゴツゴツ立っている山である。その大岩の群れを、神の宮居の玉垣すなわち瑞牆と見立てられないことはない。
(中略)
普通瑞牆山に登るには、韮崎から、増富ラジウム砿泉までバスの乗り、そこから本谷川に沿って登ること約五キロ、牧歌的な高原金山(かなやま)に達する。ここまで来て瑞牆山を初めて見ることが出来る。この山は岩峰の集合体とでも言うべきか。岩峰群を持った山は他にもあるが、瑞牆山のユニークな点は、その岩峰が樹林帯と混合しているところである。まるで針葉樹の大森林から、ニョキニョキ生えているような趣である。
(中略)
さまざまの形をして突っ立っている見事な岩峰が、眼の前に現れてくると、それがもう頂上に近いしるしである。岩の間を攀じ登ると、頂上もまら滑らかな大きい岩で、その上にトカゲをきめこんで、直下の岩峰群をのぞきこみながら、仲間とペチャクチャしゃべりあった小一時間はたのしかった。


山行コース・歩程等

瑞牆山荘前駐車場→富士見平→天鳥川源頭→瑞牆山山頂→(往路を戻る)→天鳥川源頭→富士見平→瑞牆山荘前駐車場
(標準歩行所要時間=約5時間)

(朝日新聞社 週刊「日本百名山」から拝借)


夜明け前に自宅を出発し、中央自動車道を西進、須玉ICから国道141号線を北上、
増富ラジウム鉱泉、金山峠方面へ向かい
7時頃には、瑞牆山荘前の駐車場に到着したようだ。
整備された広い駐車場(無料)が有り、その時間帯、まだまだ駐車スペース、余裕有りだった。

 

7時30分頃、瑞牆山荘前を出発。
白樺等も混じる樹林帯の中の登山道、徐々に急登となる。

瑞牆山荘前を出発してからおよそ45分、
8時15分頃、富士見平・富士見平小屋に到着。小休憩。

 

富士見平からしばらくは樹林帯の中の緩やかな登りだが、
急下降が始まるあたりで、眼前に、瑞牆山が立ちはだかるように望めるようになる。
果たして、あの頂に登れるものなのかな?・・・等と、一瞬思ってしまいそうな険しさだ。

8時50分頃、天鳥川源頭に到着、渡る。

 

桃太郎岩

天鳥川源頭から瑞牆山山頂までの標高差は、約480m、
荒れた岩場、ハシゴ場、ロープ場、急登の連続、
喘ぎ、喘ぎ、ゆっくりと、慎重に・・・、

 

下からずっと見上げていた大ヤスリ岩の右下を通過する辺りで、展望が良くなる。

なんとか急勾配を登り詰めると、僅かな平坦が有り、釜瀬川からの登山道を合わせて右へ、
岩の間をハシゴ、ロープで攀じ登ると、
そこが、巨岩が折り重なった 瑞牆山山頂(標高2,230m)、
10時30分頃、到着したようだ。

 

やや雲が多かったものの、360度大展望、


五丈岩をいただく金峰山、富士山、小川山、浅間山等は、遠望出来たが、
南アルプスの峰々、八ケ岳連峰は、残念ながら雲の中、

グループや夫婦連れ、大勢のハイカーと至福の時を共有、
朝食が早かったので、早めの昼食をとり、
11時頃には、下山開始、往路を戻った。

13時30分頃、瑞穂山荘前駐車場に帰還、
里宮平、黒森、経由で、帰途についた。
途中、車を止め、振り返り撮った、瑞牆山。

当時はまだ、「また来る時にも、笑っておくれ」、「シャクナゲの咲く時期にまた訪ねたいな」的な気分だったと思うが、今となっては、「瑞牆山」もまた、遠い思い出の山となってしまった。

 


古い写真から蘇る思い出の山旅・その55

2024年08月11日 16時36分51秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等、夏山登山をしていたが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。長男、次男が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、10数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していて、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込み、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その後、「デジブック」が終了したことで、ブログから写真が消えてしまい、改めて、順次、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)しようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その55
「至仏山」(再)

今日8月11日は、国民の祝日「山の日」
「夏が来ーれば、思い出すー♫」  
今年も、今まさに、夏山シーズン、
炎暑の外界?をよそに、存分に楽しんでおられる老若男女が、多い季節であるが、
すでに、足、腰、痛!、痛!で、山歩き等を断念している老夫婦、
そんな夏山に思いを馳せながら、もっぱら、古い写真を引っ張り出しては、
懐かしがっている風である。
今から18年前のお盆明け、2006年8月17日に、妻と二人で、「至仏山」を訪れたことがあった。それまで、何度か尾瀬を訪ねてはいたものの、「至仏山」には登ったことが無くて、毎度、下から横から山容を眺めるだけで、どうしても一度は訪ねてみたい山の一つだったが、その日、思い立って、強引に、日帰り、トンボ返りした気がしている。
当日の天気予報は、台風10号が、九州から進路を西に変えたことで、群馬県、新潟県は、「次第に晴」で、天気予報を信じて、真夜中に自宅を出発し、関越自動車道をひた走ったが、途中で、猛烈な風雨に襲われ、運転も危険なレベル、「中止しようか?」、迷いながらも北上、高崎付近で、雨はすっかり上がり、東の空が明るくなり始め、「おー!、ラッキー!」。気を良くして戸倉へ向かった。
閑散とした戸倉スキー場の駐車場に車を停めて、朝食、仮眠。
バスで鳩待峠に向かう予定だったが、地元の方から、その日は鳩待峠までマイカーで入れることを聞き付け、時間節約優先、鳩待峠へ車で向かった。
鳩待峠駐車場には、午前6時頃到着。
悪天候、早い時間到着ということも有ってか、ガラーン・・、閑散。


深田久弥著 「日本百名山」
「至仏山(しぶつさん)」
(一部転載)

尾瀬沼を引き立てるものが燧(ひうち)岳とすれば、尾瀬ヶ原のそれは至仏山であろう。まだ尾瀬が近年のように繁盛しない戦前のある六月、原の一端にある桧枝岐(ひのえまた)小屋に泊まって、そこから見た至仏山が忘れられない。広漠とした湿原の彼方に遠く白樺の混じった木立が並んで、その上に、悠揚迫らずといった感じで至仏山が立っていた。そしてその山肌の残雪が小屋の前に散在した池塘に明るい影を落としていた。
夕方、近くで摘んできた行者ニンニクを腹いっぱい食べて、戸外の据え風呂に浸り、素っ裸のまま、長い黄昏を蒼茫と暮れて行く山の姿をいつまでも眺めていた。大らかな感動であった。
燧と至仏は尾瀬ヶ原を挟んで相対しているが、前者の威のある直線的な山容に引きかえ、後者は柔らかな曲線を描いて、何とも親しみ易い。もっとも反対側の利根から仰ぐと、頂上の稜線近くはゴツゴツした岩で鎧(よろ)われている。しかし全体としての円(まろ)やかな温和な容(かたち)は、北の平ケ岳から望んでも、南の武尊(ほたか)岳から望んでも、変わることがない。
(中略)
私が初めて至仏山の頂上を踏んだのは、大正十五年(1926年)の秋であった。上越線の開通以前である。藤原から利根川を遡って、狩小屋沢から登った。当時はその沢には道が無く、飛沫を浴びて滝を攀じたり、岩をはいあがったりしながら、登って行った。沢を詰めると、頭上に至仏の全容が現れた。満山の紅葉で、その間に点々と浮島のように岩石が立っている。優美な紅葉の色調と、それを引き緊めるような峻厳な岩と、双方のコントラストが実にみごとな眺めを形作っていた。
燧の火山岩に対して、至仏は古生層に属しているそうで、森林限界が低く、そのため灌木帯が広くて、豊富な高山植物を保有している。植木屋が市で売るためにシンパク(ビャクシン)を採りによくやってくるという話もその時聞いた。
頂上が近くなって、沢を離れて左の尾根に取りついたところ、その深い灌木帯に入りこみ、藪と戦いながらようやくそれを切り抜け、今度は岩石を攀じ登って、ついに頂上に達した。狩小屋沢の野営地を出てから六時間かかった。
噂に聞く尾瀬ヶ原を見下ろしたのも、その時が初めてであった。原一面まるで燃えるような代赭(たいしゃ)色で、それがずっと向こうの端、ピラミッドの燧の裾まで延びている。美しい尾瀬の第一印象を至仏の頂上で得たことは、私の至福であった。
空は完全に晴れ、秋の陽のサンサンと降る中に、私たちは一時間半も山頂にいて、周囲の山を数えながら倦きることがなかった。下りは滑りっこい貉沢を採って、待望の湿原に踏み込み、あの広い尾瀬ヶ原を夕方の陽を浴びながらトボトボと横切っていた。その時の一週間に亙る(わたる)山旅で、他の登山者には一人も会わぬという、まだ尾瀬の静かな時であった。


山行コース・歩程等

鳩待峠→1867mピーク→水場→笠ケ岳への分岐→オヤマ沢田代→小至仏山山頂→至仏山山頂→小至仏山山頂→オヤマ沢田代→笠ケ岳への分岐→水場→1867mピーク→鳩待峠 
(標準歩行所要時間 約4時間30分)

(昭文社「山と渓谷地図」から拝借)

  人っ気無し、閑散とした鳩待峠     至仏山登山口 
                     6時30分頃出発したようだ。           

 

 

 

帽子やザックや、指にまで、平気で止まるトンボ

オヤマ沢・オヤマ沢田代・笠ヶ岳への分岐

 

ガスが途切れる気配無し・・・だったが、
雨具を装着するまでには至らず、ラッキー・・・・、

ワタスゲ

 

 

山頂に近づくにつれ ツルツルの蛇紋岩が多くなり 
雨露に濡れると非常に滑りやすい。

 

 

9時30分頃、至仏山山頂(標高 2,228m)に到着。
山の鼻から登ってきたハイカーが多く、山頂は賑やか。
残念ながら ガスは一向に途切れそうになく 
お目当ての 尾瀬ケ原、燧岳等の大展望は叶わず。

しばし休憩後、往路を戻る。 
途中、一瞬、ガスが途切れ、尾瀬ケ原、燧岳が現れたが、
やはり、大展望は叶わなかった。

12時30分頃には、鳩待峠に帰還。
すっかり夏空が広がっており、
早朝とは打って変わって、駐車場もほぼ満車状態、
休憩所で軽く昼食をとった後、
早々と帰途についたのだった。

慌ただしく、残念な 「至仏山山歩き」で、当時は、まだ多少は、「また来る時にも、笑っておくれー♫」的な気分だったと思うが、「至仏山」も、今となっては、二度と訪れること叶わない、遠い思い出の山となってしまっている。


尾瀬を訪れる度に眺めていた「至仏山」

1984年8月5日、尾瀬ケ原から眺めた「至仏山」

1997年10月6日、燧岳(柴安嵒)山頂から眺めた「尾瀬ヶ原と至仏山」

2009年8月18日、鳩待通りから眺めた「至仏山」

2009年8月19日、尾瀬ケ原から眺めた「至仏山」

2012年10月5日、尾瀬ケ原から眺めた「至仏山」

033

「夏の思い出」 (YouTubeから共有)





古い写真から蘇る思い出の山旅・その54(3)

2024年07月25日 16時36分39秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その54
「老いらく二人山歩き・乗鞍岳」(再)
(3)


肩の小屋→お花畑→畳平バスターミナル


1時間程、「肩の小屋」で、休憩後、
時間的には、たっぷり余裕有りだったが、
畳平バスターミナルに戻り付くまで、心配。
I氏の体調を気にしながら、ゆっくり、のんびり、
下ることにした。
足元の高山植物を楽しみながら・・・・。

乗鞍岳山頂・剣ケ峰方面を、振り返り見る、

大雪渓で、スキー?、スノーボード?を楽しむ人達

不消ケ池

 

    イワギキョウ             アオノツガザクラ

 

        コケモモ              ハイマツ    

 

    ショウジョウバカマ          ヨツバシオガマ

 

ミヤマダイコンソウ

 

チングルマ

 

ミヤマキンポウゲ?

 

ミヤマクロスゲ?

コバイケイソウ

観光客で賑わう「お花畑」に到着、
I氏の、「大丈夫!」を聞き、
1周することにした。

 ハクサンイチゲの群落

 

クロユリ

 

13時頃には、畳平バスターミナルに戻り付いた気がするが、
7月下旬、高山植物見頃の土曜日とあって、ハイカー、観光客であふれており、
乗鞍高原観光センター行きバス乗り場にも、すでに長蛇の列が出来ていた。
こりゃ大変と思いきや、4~5台?が増発され、すんなり乗車出来、
14時過ぎには、「乗鞍高原観光センター前」に戻り着いたと思う。
前日泊した「乗鞍高原鈴蘭小屋」に立ち寄り、一浴させていただき、
下界の猛暑の中、途中、数カ所で休憩しながら、
中央自動車道大渋滞にも引っ掛かり、
帰宅したのは、20時過ぎだったような気する。
お互いに健康不安を抱えた老いらく二人の「乗鞍岳山歩き」、
終始、「大丈夫かな?」だったが、怪我も無く、体調も悪くならず
結果、オーライ、
今となっては、いい思い出の山歩きになっている。

(おわり)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その54(2)

2024年07月24日 18時48分25秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その54
「老いらく二人山歩き・乗鞍岳」(再)
(2)


肩の小屋→蚕玉岳山頂(標高2,979m)→頂上小屋→乗鞍岳山頂・剣ケ峰(標高3,026.3m)→(往路を戻る)→蚕玉岳山頂→肩の小屋


「肩の小屋」を通過するあたりまでは、
ガスに覆われていて、お目当ての山岳展望は叶わず、
足元の高山植物を眺めるくらいだったが・・・

イワツメグサ

 

次第にガスが薄れ始め・・・、
気分は高揚・・・、

朝日岳と蚕玉岳の鞍部への登り詰める頃には、
あっという間に、青空が広がり出し、
ラッキー!、

尾根上に立つと、権現池や乗鞍高原方面の眺望が出来るようになり、爽快!

 

 

 

 

「頂上小屋」

 

最後の急登

I氏の体調によっては、途中で引き返すことも念頭におきながら、
ゆっくり、のんびり登ったが、心配は無用だった。
大幅な遅れも無く、ほぼ予定通り
9時30分頃 「乗鞍岳山頂・剣ケ峰(標高3,026.3m)」に到着、
念願叶った、I氏の喜び様が、忘れられない。
感激、感動、素晴らしい景観を堪能していたいところだったが、
週末の好天とあって、家族連れ、夫婦連れ、山ガールグループ、等々が、
 次々と登り着き、狭い山頂、ゆっくり、座る場所もない位だったことと、
登りより下りの方が心配?
ゆっくり、のんびり、時間を掛けて下ることにし、
証拠写真?を撮り、そそくさと下山を開始した気がする。

 

眼下に「肩の小屋」

 

「肩の小屋」には、10時45分頃、戻り着いたが、
前日泊した「乗鞍高原鈴蘭小屋」のご主人が、ひょっこり出迎えてくれた。
「肩の小屋」は、「乗鞍高原鈴蘭小屋」直営の山小屋だったのだ。
すでに、「乗鞍高原鈴蘭小屋」「肩の小屋」とも、息子さんに任せておられるとのことで
現オーナーは、息子さんであり、
時々、車で登ってきて、手伝いをしているという話だった。
その息子さんまで呼び付けて、挨拶されてしまい、恐縮してしまったものだ。
昼食時間には、少々早かったが、食堂で、うどんを注文、
昼食タイムとした。
なんとも家庭的な雰囲気で、出迎えていただき、送り出していただいたこと、
今となっては、貴重な思い出となっている。

「肩の小屋」内から、乗鞍岳山頂方面を望む
さらば、乗鞍!、名残りを惜しみつつ、

(つづく)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その54(1)

2024年07月23日 17時36分31秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等、夏山登山をしていたが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。長男、次男が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、10数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していて、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込み、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その後、「デジブック」が終了したことで、ブログから写真が消えてしまい、改めて、順次、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)しようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


今から12年前の2012月7月の下旬に、旧い友人であり、先輩であるI氏と、誘い、誘われ合い、二人で、「乗鞍岳」を訪れたことが有った。
I氏は、当時、すでに後期高齢者で、完全に仕事を辞めていたが、遅ればせながら、山歩きに興味感心を持ち出して、近隣の低山を中心に、何座かを歩き、意気揚々としていた頃だったが、
「元気な内に、1度でいいから、3,000m級の山に登頂してみたい]が口癖になっていた。
盛んに、「どこか、登れそうな山無いかな?、連れてってよ!」とせがまれてもいたのだが、そう言われても、こっちだって、体力的にも、経験的にも、技量的にも自信の無い高齢者、毎度困っていたものだった。当時は、まだ、夏になると声を掛け合い、「暑気払い飲み会」をしていたものだが、酒の勢い?で、「乗鞍岳だったら、なんとか大丈夫かも・・・」という話になったような気がする。
ただ、老いらく二人の山歩きである。無理は禁物、行き帰りの長距離運転のことも考慮し、乗鞍高原で1泊して、時間的に余裕たっぷり、ゆっくり、のんびりの山歩きを計画し、実行に移したのだった。
「乗鞍岳」は、長男、次男が小学生の頃に1度、家族で訪れたことがあり、危険性も無く、初級者向きと分かっていたが、2000m級、3000m級、初めての後期高齢者、しかも病気持ちのI氏同伴とあって、終始、緊張の連続だった気がするが、幸いにも、2日間共天候にも恵まれ お目当てだった高山植物にも沢山会えて、結果オーライ、大満足の山旅だったと思っている。
「夏が来ーれば、思い出すー♫」  
今年も、今まさに、夏真っ盛り、
「夏山、ヤッホー!」を、存分に楽しんでおられる老若男女が、多い季節であるが、
すでに、足、腰、痛!、痛!で、山歩き等を断念している爺さんは、そんな夏山に思いを馳せながら、もっぱら、古い写真を引っ張り出しては、懐かしがっている風である。


深田久弥著 「日本百名山」
「乗鞍岳(のりくらだけ)」
(一部転載)

どこの山もそれぞれ信者を持っていて、その信者たちはそれぞれ独自の雰囲気があるように思われる。例えば近代登山精鋭分子の道場である北アルプス、その中で穂高と乗鞍を挙げてみると、両信者の間にはどこかニュアンスの差異がある。
それを少し誇張して言うと、穂高信者は闘争的で、現実的で、ドライなのに引きかえ、乗鞍信者は平和的で、浪漫的で、ウエットである。もちろんここで言う乗鞍信者とは、信仰登山のそれではなく、まして遊覧バスで運ばれてくる大衆ではない。お金はあまり無いが暇は十分あるという学生時代に乗鞍に住んだことのある人たちを指す。全く、乗鞍は登るというより、住むと言った方が似つかわしい山である。
(中略)
位ケ原まで登って、初めて真正面に、遮るもののない乗鞍岳それ自身に接する。ここからの眺めを、私は日本で最もすぐれた山岳風景の一つに数えている。まずその姿がいい。雄大で、しかも単調ではない。ゆったりと三つの頭を並べたその左端が主峰である。その主峰の右肩の巨大な岩が、間延びを引きしめるアクセサリーになっている。「それから前景の豊かな拡がりがいい。胸を透くように伸びてコセコセしたところがない。
乗鞍は、北アルプスに入れられているが、遠くから眺めると、北アルプスの連嶺とは独立した形で、御岳と並んで立っている。そして御岳の重厚に対して、乗鞍には颯爽とした感じがある。
   うるはしみ見し乗鞍は遠くして
   目といえどながくほこらむ
これは、長塚節(ながつかたかし)の歌だが、乗鞍の姿を一ぺん見た人は、その山を忘れることが出来ないだろう。
(中略)
近代の乗鞍信者は信州の大野川から登るが、昔の登拝者は多くは飛騨側からであった。この山を詠んだ多くの詩歌の類が飛騨側にあるところを見ても、昔は乗鞍は飛騨の山であった。そして幾筋かの登山路もその側から開かれていた。
戦後、頂上まで登山バスの通じたことは一つの驚異であった。街を歩く格好で三千メートルの雲の上を散歩出来ようとは、誰が予想しただろう。しかし、自動車道路がついたために、その道路から外れた所はかえって寂れて、本当に山好きな者に静かな場所を残してくれることになった。
現在、夏の頂上はちょっとした繁華街のおもむきを呈しているそうだが、私はまだ知らない。しかし乗鞍の全体は、バス道路くらいで通俗化するようなチッポケなマッスではない。これほど豊かさと厚みを持った山も稀である。
ただ、頂上を極めるだけで飽き足らない人、その湖沼や森林や高原に暇をかけてさまようことに楽しさを見出す人、・・・、私の言う乗鞍信者が多くはロマンチストであるのもそこから来ている。
(中略)
私が最初に主峰に立ったのは、戦前の初冬快晴の日で、そこから眺めた日本アルプスは言わずもがな眼前に大きく御岳、遠くに美しい白山、そしてその二つの間には、限りもない果てまで山並みが続いていた。
(後略)


山行コース・歩程等

畳平バスターミナル→肩の小屋→乗鞍岳山頂・剣ケ峰→(往路を戻る)→肩の小屋→畳平バスターミナル
(標準歩行所要時間=約2時間30分)

(昭文社「山と渓谷地図」から拝借)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その54
「老いらく二人山歩き・乗鞍岳」(再)
(1)
畳平バスターミナル→肩の小屋


前日泊の乗鞍高原鈴蘭小屋

掛け流し湯                  露天風呂

当日は、乗鞍高原観光センター前 午前6時10分発の路線バス(始発)に乗車したようだ。

メモ
乗鞍高原観光センターには、無料駐車場、約300台分有り、
バス乗車券発売開始時刻は、午前5時50分、
乗鞍高原観光センター前~畳平往復、バス料金=2,400円、片道所要時間=約50分、
途中、14ケ所のバス停に停車、
マイカー規制(マイカー乗り入れ禁止)=エコ-ライン、三本滝~乗鞍スカイライン、平湯峠、

途中、バス車内から撮った写真

7時頃、畳平バスターミナルに到着。
時折、ガスが掛かり、風も強く、気温は、10℃前後、
標高2,702mは、下界とは別世界、防寒に雨具を着用、
午前7時30分頃、畳平バスターミナルを出発したようだ。

 

鶴ケ池の南側を回り込んで進み、右に折れ、なだらかな登山道を上がって行く、

乗鞍高原方面、エコーラインも、ガスに霞んで見え隠れ・・、

お目当ての山岳眺望は叶わずだったが、
砂礫斜面には、コマクサの群落が有り・・・、
コマクサの群落初見のI氏は感動・・・、
足が止まり・・・、

 

 

コイワカガミの群落にも、足が止まり・・・、

 

I氏の体調に気を配りながら、ゆっくり、のんびり、雲上散歩・・・・・、

8時15分頃、肩の小屋、
濃いガスの覆われていて、展望も無し、

 

天気予報は、「晴」、
I氏、初めての高山登山、こんな天候のままでは、感動も半減?してしまう、
気になって仕方無かったが、天候回復を期待しながら、山頂へ向かったのだった。

(つづく)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その53

2024年07月22日 07時59分55秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その53
「上高地から西穂高岳・遠い記憶」(再)


もう60年前にもなる学生時代、1964年(昭和39年)7月に、同じ学生寮で親しかった、長野県松本市出身のU君と、「上高地」から「西穂高岳」に登ったことが有り、その写真が貼ってある、古いアルバムが有る。
当時、登山は、主に若者達のレジャーであり、とりわけ、登山のメッカ、北アルプスは、憧れの的だったように思うが、奨学金と家庭教師のアルバイトで、寮生活を送っていた貧乏学生には、そんなレジャーを楽しむ余裕等有るはず無く、旅行も登山も無縁で、悶々としていたような気がする。
それが、U君に誘われたのか、U君を誘ったのか、記憶は定かで無いが、意気投合し、なんとか金銭の工面をして、思い切って、「西穂高登山」をしたのだった。
登山靴、リュック等の装備・・、どのように準備したのかも記憶に無く(多分、借り物)、登山の経験もほとんど無く、知識も乏しく、多少経験有りのU君におんぶにだっこだったような気がする。当然、カメラ等持っているはずがなかったが、カメラを携帯している写真が有り、もしかしたら、従兄弟か誰かから借りていったのかも知れない。
図々しくも、確か、松本城の近くだったと思うU君の実家にもお邪魔し、ご馳走になったり大変お世話になった気がする。
今となっては、U君と登った「西穂高岳」は、数少ない青春の思い出の一つになっているのである。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら、セピア色化している、古い 白黒写真をスキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留め置くことにした。


山行コース・歩程等

上高地→田代橋(西穂高岳登山口)→西穂山荘→丸山→独標→西穂高岳山頂→
(往路を戻る)→独標→丸山→西穂山荘→田代橋(西穂高岳登山口)→上高地
(標準歩行所要時間=約11時間)

(昭文社「山と渓谷地図」から拝借)

記録メモ等、全く残っておらず、記憶もほとんど喪失しており、その正誤も明らかで無いが、確か、松本から電車(松本電鉄)で「新島々」へ、「新島々」からはバスで「上高地」入りしたのだと思う。

上高地バスターミナル
懐かしい、当時の登山者のスタイルも・・・・。

初めて訪れた上高地、
河童橋、梓川・・・・・、
全てに、感動したような気がする。
その日は、U君出身の地元高校登山部が夏季常設?していたのだと
思われる大テントの中に、頼み込んでもぐり込み、
1泊させてもらったのだった。

 

 

西穂高岳がどんなに厳しい山なのかの知識もあまり無かったような気がする。
翌日早朝、意気揚々と出発。

焼岳・西穂高岳 登山口?、

上高地からの急登を登り切り、バテバテ?、
南方に、焼岳、

尾根上の爽快感、
ヤッホー!気分?

独標(標高2,701m)

独標から続く厳しい岩稜を振り返り見る 

眼下に、上高地

 

北方には、槍ケ岳の勇姿

西穂高岳から奥穂へ続く厳しい稜線、
奥穂、前穂の吊り尾根
写真2枚を繋ぎ合わせて有る、

西穂高岳山頂(標高 2,908.6m)

上高地出発から帰還まで、10時間以上?、
疲労困憊したはずであるが、若かったから出来た登山、
後年になって、よくもまあ、上高地から西穂高岳ピストンしたものよ・・・・と、
我ながら、呆れ返ったものだった。
これら、数枚の古い白黒写真は、やはり、廃棄処分出来ない宝物?・・である。


因みに
時代が変わって、2011年(平成23年)9月には 妻と二人で、「新穂高」から「ロープウエイ利用」で、「西穂山荘」に1泊、ゆっくり、のんびり、再び、「西穂高岳」を訪れ、学生時代に親友U君と登った山の思い出を辿り、感動を新たにしたのだった。


振り返り記事・「妻と二人で登った西穂高」
👇️
古い写真から蘇る思い出の山旅・その26(1)
古い写真から蘇る思い出の山旅・その26(2)
古い写真から蘇る思い出の山旅・その26(3)


 

 

 


古い写真から蘇る思い出の山旅・その52(2)

2024年07月20日 11時10分26秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その52
「家族で初めて訪れた乗鞍岳と上高地ハイキング」(再)
(2)


山行コース・歩程等

健康保険保養所上高地山の家→河童橋→明神池→穂高神社奥宮→嘉門次小屋→明神橋→小梨平→河童橋→上高地バスターミナル
(標準歩行所要時間=約2時間15分)


正確な記録メモが残っておらず、記憶も曖昧だが、
早朝に目覚め、
快晴、爽快な山の空気に歓喜、
朝食までの時間、梓川周辺を散歩したような気がする。
2日目は、宿泊した健康保険保養所上高地山の家から、
梓川河畔の遊歩道を明神池まで周回するコースをハイキングすることにしていて、
絶好のコンディションを喜んだような気がする。
いざ、出発!、

梓川の右岸、
後方には、焼岳の姿が、

河童橋

後方に、岳沢、前穂、奥穂・・・、

明神池で、小休憩、

嘉門次小屋に立ち寄り、
なにか、土産物?(記念品?)を買ったような気がするが、
何、買ったか、記憶が無い、

 

明神橋を渡り、明神、小梨平を辿り・・・・、
梓川左岸の遊歩道を、下り・・・・、

正確な記録メモが残っておらず、記憶も曖昧になっているが、
確か、「上高地バスターミナル」には、そろそろ、観光客でごった返し始める時間帯、
9時~10時頃には、戻り着いたような気がする。
人混みを嫌って、そそくさと、バスだったか、タクシーだったかで、沢渡に戻り、
途中、数ケ所観光しながら、のんびり、ドライブし、家路に着いたような気がする。
「上高地」には、学生時代、松本市出身の友人U君に誘われて、「西穂高岳」に登ったことが有ったが、その頃は、貧乏学生、電車、バスを乗り継いで、上高地入りするしか無く、当時、上高地に夏季常設?していた、その友人U君の出身高校の登山部のテントに、頼み込んで潜り込み1泊させてもらい、翌日、西穂高岳へピストンしたものだが、初めて訪れた「上高地」に興奮した記憶が有る。
その時以来の、数十年振りの「上高地」であり、ほとんど初めて訪れるようなもので、ほんの僅かな滞在だったが、最高に感動したような気がしている。
後年になって、「中高年の山歩きブーム」到来で、前穂・奥穂に、2回、槍へ、1回登る機会が有り、登山口、下山口として、再び「上高地」を訪れることが出来、結局、トータル、4回、「上高地」を訪れたことになる。今となっては、「上高地」もまた、二度と訪れることの出来ない、遠い思い出の地になってしまった。

(おわり)

 

コメント (4)

古い写真から蘇る思い出の山旅・その52(1)

2024年07月18日 18時35分07秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等、夏山登山をしていたが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。長男、次男が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、10数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していて、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込み、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その後、「デジブック」が終了したことで、ブログから写真が消えてしまい、改めて、順次、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)しようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


かれこれ38年前、1986年8月に、当時、中学1年だった長男と、小学3年だった次男を連れて、家族4人で、「乗鞍岳」「上高地」を訪ねたことが有った。もちろん、乗鞍岳も上高地も、家族で訪れるのは初めてだったが、とにかく、時間的余裕、経済的余裕、精神的余裕の無かった頃で、自宅を真夜中に出発し、高速道路を飛ばし、畳平まで上がり、乗鞍岳をピストンした後、上高地で1泊、翌日は、明神池までハイキングし、その日の内に、高速道路を飛ばし、家に戻るという、強行軍山行だった。後年になって、なんと無茶なことをしていたものよと自嘲もしたが、当時は、それが精一杯だったのだと思っている。
まだ、バカチョンカメラ(ポケット型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、フィルム代、プリント代を気にしながら撮った写真は、ほんの数枚だが、プリントして、アルバムに貼って有り、以前スキャナーで取り込んだものが、外付けみHDに残っており、改めて引っ張り出し、思い出を辿ってみることにした。でした。


深田久弥著 「日本百名山」
「乗鞍岳(のりくらだけ)」
(一部転載)

どこの山もそれぞれ信者を持っていて、その信者たちはそれぞれ独自の雰囲気があるように思われる。例えば近代登山精鋭分子の道場である北アルプス、その中で穂高と乗鞍を挙げてみると、両信者の間にはどこかニュアンスの差異がある。
それを少し誇張して言うと、穂高信者は闘争的で、現実的で、ドライなのに引きかえ、乗鞍信者は平和的で、浪漫的で、ウエットである。もちろんここで言う乗鞍信者とは、信仰登山のそれではなく、まして遊覧バスで運ばれてくる大衆ではない。お金はあまり無いが暇は十分あるという学生時代に乗鞍に住んだことのある人たちを指す。全く、乗鞍は登るというより、住むと言った方が似つかわしい山である。
(中略)
位ケ原まで登って、初めて真正面に、遮るもののない乗鞍岳それ自身に接する。ここからの眺めを、私は日本で最もすぐれた山岳風景の一つに数えている。まずその姿がいい。雄大で、しかも単調ではない。ゆったりと三つの頭を並べたその左端が主峰である。その主峰の右肩の巨大な岩が、間延びを引きしめるアクセサリーになっている。「それから前景の豊かな拡がりがいい。胸を透くように伸びてコセコセしたところがない。
乗鞍は、北アルプスに入れられているが、遠くから眺めると、北アルプスの連嶺とは独立した形で、御岳と並んで立っている。そして御岳の重厚に対して、乗鞍には颯爽とした感じがある。
   うるはしみ見し乗鞍は遠くして
   目といえどながくほこらむ
これは、長塚節(ながつかたかし)の歌だが、乗鞍の姿を一ぺん見た人は、その山を忘れることが出来ないだろう。
(中略)
近代の乗鞍信者は信州の大野川から登るが、昔の登拝者は多くは飛騨側からであった。この山を詠んだ多くの詩歌の類が飛騨側にあるところを見ても、昔は乗鞍は飛騨の山であった。そして幾筋かの登山路もその側から開かれていた。
戦後、頂上まで登山バスの通じたことは一つの驚異であった。街を歩く格好で三千メートルの雲の上を散歩出来ようとは、誰が予想しただろう。しかし、自動車道路がついたために、その道路から外れた所はかえって寂れて、本当に山好きな者に静かな場所を残してくれることになった。
現在、夏の頂上はちょっとした繁華街のおもむきを呈しているそうだが、私はまだ知らない。しかし乗鞍の全体は、バス道路くらいで通俗化するようなチッポケなマッスではない。これほど豊かさと厚みを持った山も稀である。
ただ、頂上を極めるだけで飽き足らない人、そのの湖沼や森林や高原に暇をかけてさまようことに楽しさを見出す人、・・・、私の言う乗鞍信者が多くはロマンチストであるのもそこから来ている。
(中略)
私が最初に主峰に立ったのは、戦前の初冬快晴の日で、そこから眺めた日本アルプスは言わずもがな眼前に大きく御岳、遠くに美しい白山、そしてその二つの間には、限りもない果てまで山並みが続いていた。
(後略)


山行コース・歩程等

畳平→肩の小屋→頂上小屋→乗鞍岳山頂(剣ケ峰)→肩の小屋→畳平
(標準歩行所要時間=約2時間30分)

(昭文社「山と渓谷地図」から拝借)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その52
「家族で初めて訪れた乗鞍岳と上高地ハイキング」(再)
(1)

当時はまだ、畳平まで、マイカーでも行けた時代で、畳平の駐車場に車を置き、乗鞍岳山頂(剣ケ峰)をピストンする山旅が出来たのだった。
エコーライン途中で、車を停め、ちょこっと休憩、
天気は、最高、気分も最高・・・、
だったが・・・・、

正確な記録メモは無く、畳平の駐車場に到着した時刻が何時頃だったのか、はっきりしないが、
到着時、すでに満車寸前状態で、順番に案内され、かろうじて駐車出来たような気がする。
駐車場に入れない後続車の長い列を見て、タイミングの良さを喜んだ記憶が有る。
畳平の標高は、2,707m、爽快!、
いざ、山頂に向けて出発!、



途中、高山植物がいっぱい有ったはずだが・・・・、
花の写真、1枚も無し。
当時はまだ、高山植物であろうがなんであろうが、
花に興味関心も無く、まるで無知だったことが分かる。
休憩しては、パチリ!、

寝不足、疲れ、暑さで、バテバテ・・・・、
肩ノ小屋を振り返り、また 休憩・・・、

また、休憩・・・、

頂上小屋、
とにかく 休憩・・・、

13時頃、乗鞍岳山頂(剣ヶ峰、標高3,026.3m)に着いたようだ。

14時過ぎには、畳平に戻ったようだが、
上高地に宿泊予約して有り、ゆっくり、楽しむ余裕も無く、
すぐさま出発、エコーラインを下って戻り、沢渡へ移動、
沢渡の有料駐車場に車を停めたが、
その時間帯、上高地へのバス便が少なかったのだろう、
待機時間節約?のため、4人だと、それほど料金に差がなかった、
タクシーを利用して、上高地に入ったような気がする。 
経済的余裕の無い頃のこと、あらかじめ宿泊予約していたのは、
「健康保険保養所上高地山の家」だった。
やはり、正確な記録メモは残っていないが、
山宿チェックインとしては、ギリギリ、セーフ、16過ぎに、到着したような気がする。

 

ノビている次男

長男は、宿題?、手紙?

ぎゅうぎゅう詰めの山小屋とは違い、
ゆっくり寛ぎ、眠りについたような気がする。

(つづく)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その51

2024年05月29日 10時41分08秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その51
「臼杵山(うすきやま)・市道山(いちみちやま)・陣馬山(じんばさん)」(再)

かれこれ27年前の1997年2月22日のこと、ようやく春の日射しがこぼれる候だったが、当時一時的に所属していた山の会の仲間と、東京都西部の戸倉三山の2座(臼杵山・市道山)、陣馬山等を縦走したことが有った。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃だったが、撮った写真は、プリントして、アルバムに貼ってある。
ピンボケ、拙劣写真ばかりだが、「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」にも、書き留めたことが有り、外付けHDに残っている。コピペ、リメイクして、改めて「古い写真から蘇る思い出の山旅」に書き留め置くことにする。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


山行コース・歩程等

荷田子バス停→荷田子峠→(グミ尾根)→臼杵山菜黄御前→臼杵神社→臼杵山山頂→
市道山山頂→イッポチ山→(吊尾根)→醍醐峠→和田峠→陣馬山山頂→(栃尾根)→
栃尾集落→落合集落・陣馬山登山口バス停、
(標準歩行所要時間=約6時間30分)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

JR五日市線五日市駅に、午前8時集合、
バスの便が少なく、待ち時間が無駄になるため、タクシーに分乗し、
出発地、「荷田子バス停」まで向かったようだ。
8時30分頃、「荷田子バス停」を出発、いきなり、樹林帯の急登に喘ぎ・・、
9時頃、尾根上、「荷田子峠」に到着、
10時頃、「臼杵神社」に到着
北方、展望良し、大岳、御前山等が、目の前に・・・・、
アップダウンを繰り返しながら
10時30分頃、「臼杵山山頂(標高842.1m)」を通過、
11時50分頃、「市道山山頂(標高795.1m)」に到着、
天気晴朗なれども冷たい強風で、手が悴む程だったが、南斜面は、ポカポカ陽だまり、
昼食タイムとなった。

生藤山への分岐・「醍醐峠」からは、急な下りとなり、
14時30分頃、「和田峠」を通過。
駐車場には、数台の車が駐車していたが、路面の一部は凍結しており・・、
和田峠からは上り返し、
14時50分頃、「陣馬山山頂(標高857m)」に到着したようだ。
冷たい強風が吹き荒れており、休憩も10分程度で、出発。
澄み切った青空の下、富士山、大山、扇山・・・、奥多摩秩父上州の山々、
八王子市街等、360度、展望出来たようだ。
陣馬山山頂からは、栃尾根をひたすら下り、「栃谷集落」を経て、
16時頃、「落合集落・陣馬山登山口バス停」に、到着。
最後には、膝が笑い出したが、なんとか持ちこたえ・・・。
バスの便が少なく、ここでまた30分待ち時間、
JR中央線藤野駅に着いたのは、暗くなった17時頃だったようだ。
一般向き山歩きコースとされていたが、歩行時間的には、やや健脚組向きコース?とも思われ、
よくも、歩けたものだと、我ながら驚いたものだった。
「臼杵山・市道山・陣馬山」もまた、今となっては、二度と歩くことの叶わない、遠い思い出の山旅となっている。