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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

古い写真から蘇る思い出の山旅・その50

2024年05月19日 10時39分14秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その50
「三ッ峠山(みつとうげやま)」(再)

かれこれ28年前の1996年5月、確か大型連休の後半だったと思うが、好天に促され、妻と二人で、山梨県の「三ッ峠山」を訪ねたことがあった。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃だったが、撮った写真は、プリントして、アルバムに貼ってある。
ピンボケ、拙劣写真ばかりだが、「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」にも、書き留めたことが有り、外付けHDに残っている。コピペ、リメイクして、改めて「古い写真から蘇る思い出の山旅」に書き留め置くことにする。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


山行コース・歩程等

三ッ峠登山口→(清八林道)→三ッ峠山荘前→開運山(標高1,785.2m)→
御巣高山(標高1,775m)→木無山→(府戸尾根)→霜山→
天上山ロープウエイ駅→(ロープウエイ)→河口湖畔→(タクシー)→三ッ峠登山口
(標準歩行所要時間=約4時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

「三ッ峠山」は、
「開運山」(標高1,785.2m)、「御巣高山」(標高1,775m)、「木無山」の総称で、絶好の富士山撮影ポイントになっている。


早朝に自宅を車で出発、
7時頃には、三ツ峠登山口に到着したようだ。 
道路脇の駐車スペース、すでに数台駐車していたが、なんとか駐車出来、
7時30分頃、登山口を出発している。

甲斐駒、北岳、南ア方面

三ッ峠山山頂から、霜山、天上山方面へは、快適な尾根歩き・・・、

なんだか、色がおかしくなっているが、
ヒトリシズカ・・・、

サクラと富士山

ヤマツツジ?・・・かな、

眼下に河口湖・・・、

13時頃、ロープウエイで、河口湖畔に下山、
タクシーで、三ッ峠山登山口に戻った。
時間的には、余裕が有り、
「天下茶屋」で、昼食タイム、たっぷり休憩をとったが、
中央自動車上りの大渋滞を気にして、
早めに帰途についたようだ。

三ッ峠山には、その後も、数回訪れており、もっとも馴染み深い山のひとつと言えるが、今となっては、遠い思い出の山になりつつ有る。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その49

2024年05月11日 04時51分38秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その49
「大山(おおやま)」(再)

かれこれ27年前の1997年(平成9年)6月に、妻と二人で、神奈川県の「大山(おおやま)」を訪ねたことがあった。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃だったが、撮った写真は、プリントして、アルバムに貼ってある。
ピンボケ、拙劣写真ばかりだが、「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」にも、書き留め置いたことが有り、改めて、コピペ、リメイクすることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


大山(おおやま)

「大山(おおやま)」は、神奈川県の西部、丹沢山地の東南部に位置し、古くは「雨降山・阿夫利山(あふりやま)」とも呼ばれた雨乞い信仰の山で、江戸時代には、庶民の登拝が流行したといわれている。中腹には、大山ケーブルカーの山頂駅に隣接して「大山阿夫利神社下社」が、山頂にはその本社が立っており、標高1,251.7mの山頂からの展望を楽しめる。登山コースは、ケーブルカーを利用しての周回コースがメインで、多くの登山者はこのコースを歩くが、ケーブルカーを利用しない場合は、紅葉で知られる「大山寺」のある「女坂」、ケーブルカーの北側に続く「男坂」を歩く。段差の大きい急峻な石段の連続が有ったりで、標高差の割には、意外と厳しい山でもある。

(参考・参照・引用)
👇️
大山観光電鉄㈱ホームページ・「大山の魅力」


山行コース・歩程等

大山ケーブル駅バス停・市営第2駐車場→大山ケーブル追分駅→(女坂)→大山不動尊(大山寺本堂)→無明橋→大山ケーブル下社駅・阿夫利神社下社→(カゴヤ道)→富士見台→大山山頂・阿夫利神社→(雷ノ峰尾根)→見晴台→二重滝→(男道)→大山ケーブル追分駅→大山ケーブル駅バス停・市営第2駐車場
(標準歩行所要時間=約4時間15分)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)


台風一過の快晴の土曜日、
当時はまだ、切りの無い自営業を続けていた頃だったが、たまたま、空きの1日、
思い立って、それまで、1回も訪れたことが無かった「大山」を訪れることにしたのだった。
車で、自宅を早朝に出発、7時頃には、「大山ケ-ブル駅バス停・市営第2駐車場」に到着したようだ。
ケーブルカー営業が、9時からだったようで、門前町の土産店や茶店、豆腐料理店も始業前、
季節柄もあってか、閑散として、人影もまばらだった気がする。

「大山ケーブル追分駅」横から、「女坂」を登り、「大山不動尊」へ、
いきなり急な石の階段の連続で、一汗かいてしまった気がする。

 

「 大山不動尊(大山寺本堂)」

8時頃、「阿夫利神社下社・大山ケーブル下社駅」に到着、
気温はぐんぐん上昇、真夏の暑さになり、汗だく、
やれ、やれ、

「阿夫利神社下社」を、「1丁目」とし、山頂を、「28丁目」とする旨の、
石柱が立っており・・・、
いざ、出発・・、

 

9時30分頃、20丁目・「富士見台」
西方が開け、富士山がバッチリ、

 

10時15分頃、28丁目、「大山山頂・阿夫利神社」(標高1,251.7m)に到着、
相模湾、江の島、方面、展望、
暑い!、暑い!、木陰で休憩、

大山山頂からは、傾斜急激、直線的に尾根道を下り、「見晴台」へ・・・。
丸太で整備された段々道の連続で、次第に膝が笑いだし・・・。

11時40分頃、「見晴台」に到着、
ベンチが有り、多くのハイカーが休憩中、
ここで、昼食タイムとした。
振り返り見る、大山山頂

「二重滝」

「男坂」、膝、ガクガク・・・、

 大山と言えば、「豆腐料理」が、名物、
門前町には、土産店、豆腐料理店が並び、
それをお目当てにした観光客も多く、賑わっていたが、

昼食後で有り、汗だくでは、入店する気にもなれず、素通りし・・、

14時頃、「大山ケーブル駅バス停・市営第2駐車場」に、帰着したようだ。
台風一過の真夏の暑さで、全身汗だくとなり、バテバテの山歩きだった気がする。
秋か、早春、快適な季節にまた訪れたい等と思ったものだったが、結局は、それが最初で最後の「大山」となってしまい、今となっては、「大山」もまた、遠い思い出の山となってしまっている。


(蛇足)
落語の一席・「大山詣り」
あらすじ

江戸時代、5月頃から6月頃、今でいう行楽のシーズン、庶民はこぞって、「大山詣り」に出掛けるのが、流行ったのだそうだ。

毎年恒例、長屋の連中で「大山詣り」に出掛けることになったが、乱暴者の熊五郎は、メンバーから外されてしまう。どうしても行きたい熊五郎は、先達(今でいうツアーコンダクター)に頼み込んで、もし途中で喧嘩等したら、坊主頭になることを条件にして、一行に加わった。しかし結局は、道中で、酔いつぶれ、仲間を殴ってしまい、坊主頭にされてしまう。熊五郎は、怒りにまかせ、一足先に長屋に帰って、「船が事故に遭い、自分以外は死んだ」と嘘をつき、かみさん連中に、「頭を丸めて亭主を弔え」と、坊主頭にしてしまう。帰ってきた他の連中は激怒するが、先達が、ひとこと、「お山は晴天、うちに帰りゃ、みんなお怪我が(お毛が)無くて、おめでたい」。(オチ)
おあとがよろしいようで・・・・。


 

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古い写真から蘇る思い出の山旅・その48

2024年05月04日 11時24分04秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その48
「谷川岳(たにがわだけ)」(再)

かれこれ25年前の1999年(平成11年)6月に、当時一時所属していた山の会の仲間と、群馬県の「谷川岳」を訪れたことが有った。「谷川岳」には、1993年(平成5年)の秋にも、妻と二人で、ロープウエイを利用、天神平から天神尾根、山頂をピストン、紅葉風景を堪能する日帰り山歩きをしたことがあって、2回目の「谷川岳」だった。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、ピンボケ、拙劣写真ばかりだが、プリントし、アルバムの貼ってある。
「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」にも、書き留め置いたものだが、コピペ、リメイクすることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


深田久弥著 「日本百名山」
   「谷川岳(たにがわだけ)」
(一部抜粋転載)

これほど有名になった山もあるまい。しかもそれが「魔の山」という刻印によってである。いま手許に正確な調査はないが、今日までに谷川岳で遭難死亡した人は二百十人に及ぶという。そしてなおそのあとを絶たない。この不幸な数字は世界のどこの山にも類がない。私の年少のある山好きの友人は、母から登山の許しを受けたが、谷川岳は除外、という条件づきだったそうである。
それほど怖れられているにもかかわらず、山開きの日は数百人がおしかけて、行列登山をしているさまが新聞の写真で報じられる。東京から近く、二千メートルに近い高度を持ち、しかも標高のわりに岩根こごしい高山的風貌をそなえているからでもあろうが、やはり人気の大きな理由は、谷川岳という評判にあるのだろう。これほどしばしば人の耳を打つ山の名は少ない。絶えず何か事件を起こしている。
こんなに谷川岳が有名になったのも昭和六年(1931年)、上越線が開通して以来のことである。それまでは、一部の山好きの人の間にしかこの山は知られていなかった。大正九年(1920年)七月、日本山岳会の藤島敏男と森喬の二氏が土樽から登られた時はひどいヤブ山で、その茂みの中に辛うじて通じている切明け(きりあけ)を辿って頂上に立ったという。
もちろんそれ以前にも土地の人は登っていたので、藤島さんたちがオキの耳の上に着いた時、岩峰に小祠があり、中に青銅の古鏡が三面祀ってあった。祠には、富士権現(富士浅間大明神)を勧請してあったので、この峰は谷川富士と呼ばれていた。
しかるに、五万分の一の地図に山名が誤記されたので、名称の混乱がおこった。現在の谷川岳は古来「耳二つ」と呼ばれたいた。そしてさらに、その「耳二つ」の北峰オキノ耳を谷川富士、南峰トマノ耳を薬師岳と称していた。そして谷川岳という名は、今の谷川の奥にある俎嵓(まないたぐら)に付せられていたのだという。小暮理太郎氏や武田久吉氏など古くから上越の山に親しんだ先輩は、しきりに正しい呼びかたを叫んだが、マスコミ的大勢は如何ともすることができず、今は「耳二つ」を谷川岳と呼ぶことは決定的になってしまった。
(中略)
私が最初に谷川岳に登ったのは、昭和八年(1933年)の秋で、小林秀雄君と二人で、谷川温泉に一泊して、翌日天神峠を経て頂上に立ったが、当時は、登山者一人にも出会わなかった。帰途は西黒沢を下り、湯桧曾まで歩いた。まだ土合は信号所で、正式の駅ではなかった。
終戦直後、すべての物に不便な時、私は家内と四歳の長男をつれて西黒尾根から登った。十一月末の無風快晴の日であったが、上の方は新雪が深かったため頂上まで達せず引き返した。それ以後久しく私は谷川岳へ行かない。数百の人が列をなして登り、パトロールが徘徊していると聞いただけで、気が挫けてしまうのである。


山行コース・歩程等

マチガ沢出合(巌剛新道登山口)→(巌剛新道)→ラクダのコル→ザンゲの岩→肩ノ広場→(トマノ耳巻き道)→オキノ耳→トマノ耳→肩ノ広場→(天神尾根)→熊穴沢ノ頭→(いわお新道)→二俣→達磨石→牛首→谷川温泉 
(標準歩行所要時間=約8時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)


当日午前6時30分頃、女性4人、男性4人、前泊した水上のホテルを、タクシー2台に分乗して出発、出発地点、マチガ沢出合(巌剛新道登山口)(標高838m)には、6時50分頃到着したようだ。
爽快な早朝、雲ひとつ無い青空、目指す谷川岳山頂を眺めながら、ミーティング、
期待と緊張が同居していたが、仲間は山のベテランばかり、心強さを感じていたような気がする。

マチガ沢出合(巌剛新道登山口)から望む、目指す谷川岳山頂、

好天に気を良くして、表情明るく、7時頃、出発したようだ。

マチガ沢の雪渓、

巌剛新道は、マチガ沢右岸沿いの樹林帯の急登だ。
雪が解けたばかりの山肌には、イワカガミ、サンカヨウ、ハクサンコザクラ、ショウジョウバカマ等が、次々姿を見せてくれ・・、
高山植物に詳しい仲間の女性から、花名を教えられながら・・・、

               イワカガミ?

 

急登で、一汗、二汗、かき、巌剛新道を登り詰めると、西黒尾根上に飛び出る。
ラクダのコル(ガレ沢のコル)、涼風が汗を吹き飛ばしてくれ・・・、爽快!

天神平、天神尾根を一望、

岩稜尾根の岩陰には、次々と高山植物が・・・・、、
ハクサンイチゲ、ホソバヒナウスユキソウ、クモイカリソウ、コイワカガミ、ハクサンコザクラ、タカネスミレ、ルイヨウボタン?、

 

       ホソバヒナウスユキソウ?           ハウサンコザクラ?、

 

岩稜急登の連続で息が上がり、喘ぎ、喘ぎ・・・、
余裕の有る仲間の、三座同定や花名同定の会話を聞く余裕も無く・・。
落ち着いて、写真等撮る余裕無く・・・、
ひたすら、一歩、一歩・・・・・・、

登ってきた西黒尾根を振り返り見る、
かなり高度を上げてきたが、まだまだ序の口?

行く手は、急登の連続・・、

岩肌に、アズマシャクナゲの鮮やかなピンクと、
新潟県方面の残雪の山々・・、

高度を上げるにつれて、展望が良くなってくる。
指呼の間にも見える谷川岳山頂も、まだまだ・・、

一歩、一歩・・・、
雪原が見えてきた・・・、

11時30分頃、肩ノ広場に到着、小休憩、

 

肩ノ小屋からオジカザワ方面を望む

12時頃、トマノ耳(標高1,963m)に到着     オキノ耳(標高1,977m)

 

アズマシャクナゲ

「シラネアオイ」の群落有り、仲間の女性達から歓声が上がり、
初めて、「シラネアオイ」を知ったのだった。

狭い山頂付近は、大勢のハイカーで、座る場所も無く、
肩ノ広場に戻ってから、昼食タイムとなったようだ。

13時頃、肩ノ広場を出発し、天神尾根を下り、
熊穴沢の頭からは、いわお新道を辿った。
いわお新道は、樹林帯の中、ほとんど一直線で急下降するコースで、
途中、やや藪こぎ状態箇所も有った気がする。
専ら下りは、足に大きな負担が掛かり、疲労も激しくなり、限界寸前だったが、
次第に、ブナの原生林帯となり、
15時30分頃には、二俣に到着。

6月初旬、梅雨の合間の異常な暑さで、途中で、持参した飲料水が空になってしまったが、
二俣で、待望の水補給が出来、元気を取り戻した気がする。

二俣からは、沢沿い、谷川の川床、高巻き道、渡渉を繰り返す悪路を、
花名を教わったり、ダベリながら、のんびり下り・・・、

       タムシバ?              ラショウモンカズラ?

 

タニウツギ?

終点の谷川温泉には、17時頃、到着したようだ。
谷川温泉の町営日帰り温泉施設で一浴、
タクシー2台に分乗して、JR水上駅に戻り、解散した山歩きだった。

当時はまだ、「また来る時にも、笑っておくれー♫」的な気分だったと思うが、「谷川岳」も、今となっては、二度と訪れること叶わない、遠い思い出の山となってしまっている。

 

 

 

 

 

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古い写真から蘇る思い出の山旅・その47

2024年04月21日 14時42分33秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その47
「大持山(おおもちやま)」(再)

かれこれ26年前、1998年4月29日、大型連休の前半だったと思われるが、好天に促されて、ドライブを兼ね、妻と二人で、埼玉県の「大持山」を、訪ねたことが有った。
その頃はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、撮った写真は、プリントし、アルバムに貼ってあり、「OCNブログ人」で、ブログを始めたばかりの頃に、一度、スキャナーで取り込み、ブログ・カテゴリー「山歩記」に、書き込んだことがあった。
昨日食べた夕食さえも、一瞬思い出せない老脳、山歩きの記憶等も、どんどん曖昧になりつつあるが、写真や当時のメモ等を見ると、あの日、あの場所の情景まで炙り出されてくるから不思議である。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら、順次、コピペ、リメイクすることにしている。


歩行ルート・歩程等

大鳩園キャンプ場駐車場→白岩渓流園キャンプ場→白岩→鳥首峠登山口 →鳥首峠(標高953m)→
横倉山山頂(標高1,197m)→大持山山頂(標高1,294.1m)→妻坂峠→
山中(標高542m)→大鳩園キャンプ場駐車場

(標準歩行所要時間=約6時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

自宅を早朝に出発し、大場戸(おおばと)の大鳩園キャンプ場駐車場(有料)に到着したのは、7時頃だったようだ。
到着時間が早かったこともあり、すんなり駐車出来たが、直ぐにも満車になりそうな駐車場だったような気がする。
7時30分頃、大鳩園キャンプ場駐車場を出発、しばらく車道を進むが、
白岩集落の奥に、砕石場が有り、ダンプカーと行き合った。

8時頃、鳥首峠登山口から登山道へ、
途中のやや薄暗い杉林や草地には、シャガ、ニリンソウ等が群生しており、
キケマン、チゴユリ、ムラサキケマン、マムシグサ、タチツボスミレ等も、見られた。

 

  

10時頃、鳥首峠、
あちらこちらに、カタクリが咲いており・・、

鳥首峠からは、小さなアップダウンのある尾根歩きとなる。
目指す、大持山方面を望む、

12時頃、大持山山頂(標高1,294.1m)着。
まずまずの展望、数人のハイカーも休憩中。
子持山山頂まで往復約1時間30分とされているが、
パスして下山することにした。

展望の良い、鳥首峠・妻坂峠への分岐まで戻り、昼食タイムとした。
子持山、武川山、武甲山、奥武蔵の山々を眺望しながら・・、

蕨山を望む

14時頃、妻坂峠着、小休憩、
秩父と入間、武蔵野とを結ぶ由緒有る峠、
眺望良く、甲武信岳が眺められる。
親子の団体が賑やかに、秩父方面へ下って行った。

妻坂峠からは、江戸時代、商人や巡礼者も踏んだ道とされている、よく整備された、
つづら折りの林道を下る。
14時30分頃、山中、
山中集落とされているが、民家は見当たらす、ホウチャクソウの群生地が有り・・。

15時頃、大鳩園キャンプ場駐車場に帰還、
帰途、渋滞が予想されたが、予定通り、17時頃には、家に着いたようだ。
それまで、秩父方面の山歩きには縁が無く、両神山、四阿屋山くらいしかしていなかったと思うが、あの日、思い立って「大持山」を訪ね、秩父の山をぐんと近くに感じたような気がしたものだ。今になっては、「大持山」もまた、遠い思い出の山となってしまったが・・・。

コメント (1)

古い写真から蘇る思い出の山旅・その46(再)

2024年04月15日 15時58分18秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その46
「両神山(りょうかみさん)」(再)

かれこれ27年前の1997年5月に、当時一時所属していた山の会の仲間と、初めて、埼玉県の「両神山」を訪れたことが有った。「両神山」は、深田久弥の「日本百名山」の一座でもあり、若い頃から、一度は訪れてみたいもの思っていたものだったが、山の会の山行日が、大型連休中だったこともあり、思い切って参加したものだった。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、しかも、山歩きをすることのみが目的で、風景や花の写真をやたら撮ろうという頭が、まるで無かったのだろう。プリントしてアルバムの貼って有ったのは、山頂での証拠写真?、1枚しか無い。
その1枚の写真を、「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込み、ブログ・カテゴリー「山歩記」に、書き留め置いていたが、それをコピペ、リメイク、改めて、「古い写真から蘇る思い出の山旅」に、書き留め置くことにする。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


深田久弥著 「日本百名山」
   「両神山(りょうかみさん)」
(一部抜粋転載)

上野から高崎まで、関東平野を縦貫する汽車の窓から、この平野を囲む山を見ることができる。赤城、榛名、妙義の上州三山や浅間山は、誰の眼にもすぐわかる。注意深い人はさらに多くの山を見出すことができよう。
私がいつも気をつけて見る山に、両神山(りょうかみさん)がある。それは秩父の前山のうしろに岩乗(がんじょう)な岩の砦のさまで立っている。大よその山は、三角形であったり屋根形であったりしても、左右に稜線を引いて山の体裁を作っているものだが、両神山は異風である。それはギザギザした頂稜の一線を引いているが、左右はブッ切れている。あたかも巨大な四角い岩のブロックが空中で突き立っているような、一種怪異なさまを呈している。古くから名山として尊崇されているのも、この威圧的な山容からであろう。それはどんな山岳重畳(ちょうじょう)の中にあっても、一と目ですぐそれとわかる強烈な個性を具(そな)えている。
両神山は、イザナギ、イザナミの両神を祀ってあるところから、その名が来たと伝えられている。わが国の各地にある、二上山(ふたがみやま)も、もとは二神山であって、二峰相並んで雌雄神のさまに立っている。ところが両神山はどう見ても二峰聳立(しょうりつ)の形ではない。それならばどうして両神山と呼ばれるに至ったのだろう。
この山には八日見山(ようかみやま)の別称があり、また竜神山(りゅうがみやま)とも呼ばれていた。小暮理太郎氏は山名の考証に執拗なくらい熱心な人であったが、氏も初めは、八日見山、あるいは、竜神山は、両神山の転訛だろうと思っていた。ところがその後いろいろ古文献を詮索の結果、この山の一番元の名は、八日見山であって、それが竜神となり、両神となったのであろうと述べている。イザナギ、イザナミを祀ったのは、両神山と呼ばれるようになってからであって、それ以前には、二神には、何の関係もなかった。
(中略)
両神山がその特異な山容で人の眼を惹くことは前述の通りで、私も久しくこの山を遠くから眺めながらも、アプローチの不便さを念慮して敬遠していた。ところが近頃とみに発達したバス路線のおかげで、東京を朝発って、翌日の正午にはその頂上に立ち、多年の宿願を果たすことが出来た。
(中略)
山頂に近く両神神社の本社があって、その前に二頭控えているのは普通の狛犬(こまいぬ)でなしに、グレイハウンドに似たオオカミであることが、私の注意をうながした。というのはやはり小暮理太郎氏の考証に、このオオカミが出てくるからである。オオカミすなわち「お犬さま」は、両神神社の眷属(けんぞく)であって、秩父の三峰神社(みつみねじんじゃ)同様、ここでもお犬さまの霊験あらたかなお守るを出している。
頂上には祠(ほこら)があり、その裏の一坪ばかりの岩の平地に三角点があった。幸いに絶好の秋晴れに恵まれ、そこから四周の大観をほしいままにすることができた。頂上は岩の痩尾根(やせおね)で、両側は急峻な傾斜で一気に落ちている。帰途はその痩尾根を辿り、筍のようにニョキニョキ立っている岩峰を幾つも越えて八町峠へ出た。峠から振り返ると両神山は岩屏風を立てたように立ちはだかっていて、昔から名山に数えられただけの貫禄を示していた。


山行コース・歩程等

白井差 → 昇竜ノ滝(不動ノ滝) → 大又(大俣) → (枯スス沢) → 鏡場 →
御手洗場 → 一位ガタワ → 鏡平 → 両神神社 →御岳神社 → (富士見坂) →
(クサリ場) → 両神山山頂(標高1,723.5m) → 白樺平 → 大笹 → 
(梵天尾根) → ヒゴノタワ → ミヨシの岩 → 大峠 → (黒松沢) → 
(すげさか尾根) → 大栃 → 白井差

(標準歩行所要時間=約5時間30分)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

当日、午前9時15分、西武秩父駅改札口に集合し、
タクシーに分乗、約50分、
10時15分頃、登山口のひとつ、「白井差」に到着したようだ。
記憶定かで無いが、広い駐車場等が無く、
マイカー、20~30台が路上駐車していて
すれ違い出来ないような状態だった気がする。

10時30分頃、「白井差」を出発。
いきなり急登の連続で喘いだとメモが有る。
「鏡場」のあたりには、ニリンソウの群生地が有ったようだが、
全く、写真は撮っていなかったようだ。
多分、教えてもらっても、花の写真と撮ろうともしなかったのか、
そんな余裕が無かったのか、だろう。

12時頃、「鏡平」に到着し、昼食タイム、

13時頃、「両神山山頂」(標高1,723.5m)に到着。
狭い山頂、大変な混雑、証拠写真撮りもままならない状態だった気がする。

山頂でゆっくりすること叶わずで、直ぐ、「梵天尾根」方向に出発、
急下降、急登、の連続、
岩稜に、アカヤシオ、
展望も良好だったが、余裕が無かったのか、全く写真を撮っていない。

14時40分頃、「大峠」(標高1,375m)通過。

15時30分頃、「白井差」に帰還、
予約していたタクシーに分乗し、西武秩父駅へ戻り、
17時に解散、
乗り換え、乗り換えで、
帰着したのは、20時頃、
早朝6時に自宅を出てから、14時間、
長い1日が終わったのだった。

当時はまだ、「季節を変えて、また訪れてみたい」的な気分だったはずだが、結局、それが、最初で最後の「両神山」山行となってしまった。今となっては、「両神山」もまた、遠い思い出の山の一つになってしまっているのだ。

 


古い写真から蘇る思い出の山旅・その45(再)

2024年03月12日 07時16分50秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その45
「日向山(ひなたやま)」(再)

かれこれ24年前2000年7月に、妻と二人で、山梨県の「日向山(ひなたやま)」を訪ねたことが有った。
あの頃はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった時代だったが、どんな拙い写真でもプリントしては、アルバムに貼っていたものだ。
「OCNブログ人」で、ブログを始めたばかりの頃、そんな写真を、スキャナーで取り込み、ブログ・カテゴリー「山歩記」に、書き込んだことがあったが、順次、コピペ、リメイクすることにした。
昨日食べた夕食も、一瞬思い出せない老脳、山歩きの記憶も、どんどん曖昧になりつつあるが、残っている写真や当時のメモ等を見ると、あの日、あの場所の情景まで炙り出されてくるから不思議である。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


歩行ルート・歩程等

矢立石(駐車スペース)→日向山山頂→雁ケ原→錦滝→(尾白川林道)→矢立石(駐車スペース)
(標準歩行所要時間=約2時間40分)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

早朝に自宅を出発し、登山口「矢立石(やだていし)」の駐車スペースには、
午前8時30分頃、到着したようだ。
5~6台しか駐車出来ないスペースで、満車状態、
なんとか、無理やり駐車したような気がする。
9時頃、「矢立石」を出発、
その先、「車止め」付近にも、10台程駐車可能なスペースが有り、
「なーんだ、ここまでくれば良かったんだ」と思ったような気がする。

矢立石

しばらくは、樹林帯の急登、
カラマツ林に変わり、その後、すこし下る。
鞍部には、雨量観測所が有る。
登り返すと直ぐ、日向山山頂(標高1,659.6m)。
三角点が有る。
雑木と笹に囲まれて、全く展望無しの山頂。

山頂から進むこと10分、
樹林帯から、突然、空に飛び出すようにして、大展望が広がる。
その瞬間は、感動的でもあった。
10時20分頃、花崗岩の白い砂礫の「雁ケ原(ガンガワラ)」に到着。
居合わせた20名程のハイカーと共に、眺望を堪能。
1時間程、休憩し、ちょっと早い昼食タイムとした。

北方、真正面には、「八ケ岳」、

南方に、沸き立つ雲と「甲斐駒ヶ岳」

「雁ケ原」からは、砂礫を急下降。
転倒、滑落、要注意。

砂礫の急下降が終わると、樹林帯の急下降が始まり、
鉄製の長いハシゴを下ると、滝の音が聞こえてくる。
「綿滝」だ。あずまやが有り、小休憩。

 

「錦滝」からは、ところどころに崖崩れ箇所も有り、荒れた「尾白川林道」を下り、
13時頃には、「矢立石」の駐車スペースに戻り着いたようだ。
当日は、気温30度を越す真夏日で、
しかも、台風の雨の後で、湿度も非常に高い日だったようで 
汗ダク、暑さに参ったような気がする。
標高1,700m弱の山ではあるが、南アルプスの最北前衛峰の日向山。
八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳の展望台にもなっており、
白砂奇岩の雁ヶ原、爽やかなカラマツ林、砂礫の急下降、ハシゴ場、滝見等、
変化に富んでいて楽しめる山だった。
「初級者向きコース」とされており、道標にも、「ハイキングコース」等と
記されていたが、やはり、ある程度の山装備や心構えが必要な山ではないかと
思ったものだった。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その44(再)

2024年03月07日 10時36分06秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その44
「権現山(ごんげんやま)」(再)

かれこれ25年前、1999年3月に、当時、一時所属していた山の会の仲間と、山梨県の「権現山」を歩いたことが有った。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケット型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、プリントした写真がアルバムに貼って有る。
「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込み、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んであったが、コピペ、リメイクすることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


歩行コース・歩程等

「用竹バス停」→(今野集落)→(墓村集落)→二本杉→ニックラ山→入山→ 
雨降山→大ムレ権現→権現山→和見峠→(和見集落)→「和見入口バス停」

(標準歩行時間=約7時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

午前8時、JR中央線上野原駅に集合し、
8時28分発、飯尾行き、路線バスに乗車したようだ。
乗車時間、約30分、「用竹バス停」に到着。
9時頃、「用竹バス停」を出発している。
春は名のみの山間の集落、「今野集落」、「墓村集落」を通過、
「二本杉」(標高908.9m)、「ニックラ山」(標高960m)、
「入山」(標高1,028m)
ゆるゆると標高を上げて行き、
11時45分頃、「雨降山(あふりやま)」(標高1,177m)に到着、
大きなアンテナ鉄塔の有る広場で、昼食となった。
奥多摩等の山々の展望良好と紹介されていたが、周辺の樹木の成長で全く展望無し。
雨降山から、「大ムレ権現」を経て、
13時頃、「山梨百名山」の一座、「権現山」山頂(標高1,312m)に 到着、

「和見峠」からは、車道歩きで、「和見集落」を通過、
16時頃、「和見入口バス停」に到着、
16時31分発の路線バスで、約15分、
JR上野原駅に帰還し、解散したようだ。

「権現山」も、JR中央線沿線の山ではあり、山名は、以前から知っていて、気になっていた山だったが、「扇山」、「百蔵山」等の北に隠れるように聳えている山で、なんとなく取っ付きにくい山に感じていたものだった。いざ訪れてみると、東西に長く根張りした立派な山であって、静かな味わい深い山だった。「初級者向き」「一般向き」とされているコースを辿ったが、やや距離が長く、「中級者向き」とも言える。変化の乏しい山、地味な山?という印象で、どちらかというと、「静かな山歩き派」向きの山だった気がする。
山頂での証拠写真?、1枚のみで、花の写真や風景写真等が、ほとんど残っていないのは、当時はまだ、「山歩き」をすることのみが目的で、やたら写真を撮ろうという頭が、まるで無かったからだった気がする。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その43(再)

2024年02月25日 18時28分51秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その43
「十二ヶ岳(じゅうにがたけ)・節刀ヶ岳(せっちょうがたけ)」(再)

かれこれ26年前、1998年4月に、当時、一時所属していた山の会の仲間と、山梨県の「十二ヶ岳・節刀ヶ岳」を訪ねたことが有った。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、ほんの数枚だが、プリントした写真がアルバムに貼って有る。
「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込み、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んであったが、コピペ、リメイクすることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


歩行コース・歩程等

文化洞トンネル前駐車場→ミネ山→毛無山→一ケ岳→十二ケ岳→金山→節刀ケ岳→
金山→鬼ケ岳→鍵掛峠→根場
(標準歩行時間=約5時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

午前9時30分頃、文化洞トンネル前駐車場を出発したようだ。
雨具こそ不要だったが、雨雲が低く垂れ込め、どんよりした天気だった気がする。
毛無山山頂までは、ミネ山(標高1,241m)経由で、標高差600mの急登。

途中、ヒトリシズカの群生、イカリソウ、アケボノスミレ、エイザンスミレ、マイヅルソウの群生、シロバナエンレイソウ、コイワザクラの群生、コバイケイソウの群生等が見られたようだが、当時はまだ、花の写真を撮ろうという意識がまるで無かったようで、花の写真は、1枚も残っていない。

10時50分頃、毛無山山頂(標高1,500m)に到着、
展望抜群のはずだが、霞んでおり・・・、
眼下には、河口湖、

富士山も、見え隠れ、

三ケ岳と八ケ岳の間には、ロープ、鎖場、吊り橋が有り、                         十ケ岳から十一ケ岳の間のキレットは、かなり難所。要注意だった。

12時45分頃、十二ヶ岳山頂(標高1,683m)に到着。(山梨百名山)

十二ヶ岳山頂で昼食、休憩後、金山、節刀ヶ岳へ向かったが、
まずは、鞍部への急下降、
毛無山から金山までの間には、ロープ、鎖場、吊り橋数ヶ所、
アップダウン激しい岩場の連続等が有り、要注意。
慎重に、時間をかけて辿ったと思う。

14時15分頃、金山(標高1,686m)に到着、
ザックをデポし、節刀ヶ岳をピストン。

14時30分頃、節刀ヶ岳山頂(標高1,736m)に到着、(山梨百名山)

節刀ケ岳から望む十二ケ岳

金山山頂に戻り、小休憩後、鬼ヶ岳へ向かう。

15時20分頃、鬼ケ岳山頂(標高1,738m)に到着、(山梨百名山)
山頂には、の角のように見える岩が有る。

鬼ケ岳から望む節刀ケ岳、

16時20分頃、鍵掛峠を通過、
鍵掛峠からは、よく整備されたジグザグ登山道を、快調に下山。
17時30分頃、根場(ねんば)に到着したようだ。
富士山周辺の山々は、当時、仕事で出掛けた折等でも、頻繁に眺めていたものだが、
山歩き初心者とて、なかなか自分で歩いて見ようという気が起きなかったような気がする。
山の会の誘いで訪れて、目から鱗・・・、
その後、他の富士山周辺の山のいくつかにも訪れるようになった気がしている。

 

 


古い写真から蘇る思い出の山旅・その42(再)

2024年02月17日 15時04分31秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その42
「笠取山」(再)

かれこれ20年前、2004年5月22日、妻と二人で、「笠取山」を訪ねたことが有った。「笠取山」は、奥多摩最奥部に有り、奥秩父縦走路の中間に位置している山である。
一帯は、多摩川の源流にあたり、登山者だけでなく、多摩川水源ウオッチング目的でも人気の有る山として知られており、当時、一度は訪れたいと思っていた山だった。
記憶曖昧だが、「シャクナゲが見頃」等という情報を見て、思い立って訪れたような気がする。
「OCNブログ人」でブログを始めたばかりの頃に、一度、ブログ・カテゴリー「山歩記」に、書き込んでいたが、コピペ、リメイクすることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


歩行ルート・歩程等

作場平橋駐車場→藪沢峠分岐→(一休坂)→一休十文字→笠取小屋→分水嶺碑→ 笠取山山頂→
水干ノ頭→水干尾根分岐→水干→笠取小屋→藪沢峠→一休坂分岐→作場平橋駐車場

(標準歩行時間=約5時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

自宅を早朝に出発、青梅街道をひた走り、山梨県の丹波山村へ。
青梅街道から右に入り、新犬切峠、林道一ノ瀬線へ。
道路脇に、鹿が2頭が出てきて、ドキリとしたが、写真は撮れず・・・、
作場平橋駐車場(標高1,312m)には、7時頃、到着したようだ。
30台程、駐車可能な駐車場、早い時間に到着したため、
駐車中は、まだ3~4台。ガラガラ。
気温12℃~13℃、ヒンヤリ、清々しく、
せせらぎの音、ウグイスの鳴き声。

 

 作場平登山口


一休十文字

エンレイソウ

9時頃、笠取小屋に到着、
広場にベンチ有り、トイレ有り、数人のハイカーが休憩中、

大菩薩嶺等は展望出来たが、残念ながら、富士山は、雲の中

9時30分頃、雁峠への分岐着

分水嶺碑、
多摩川(東京都側)、笛吹川(富士川)(山梨県側)、荒川(埼玉県側)、三川の文水嶺、

いったん、防火帯を下り、笠取山山頂に向かう、

笠取山の肩、大展望、

10時15分頃、笠取山山頂(標高1,953m)

笠取山の肩からの山頂部は痩せた岩尾根では、アズマシャクナゲの群落が続く。

ヤマツツジ

中島川口への分岐

 
11時頃、水干(みずひ)・水千沢の源頭・多摩川源流(標高1,865m)
「多摩川最初の一滴」

ヤブ沢峠

13時頃、作場平橋駐車場に帰還、
朝ガラガラだった駐車場、満車状態になっており、やはり人気の山だった。


時間的、体力的には、余裕が有ったが、
ゆっくり、ドライブを楽しみながら帰途についたのだった。

当時はまだ、「季節を変えて、また訪れてみたい」的な気分だったはずだが、結局、それが、最初で最後の「笠取山」となってしまい、今となっては、「笠取山」もまた、遠い思い出の山の一つになってしまっている。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その41(再)

2024年02月11日 17時00分09秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その41
「雪の高尾山・景信山」(再)

かれこれ27年前、1997年1月12日、まだ正月気分が漂っている中、降雪直後の「高尾山・景信山」を、妻と二人で訪ねたことが有った。高尾山、城山、景信山、陣馬山等には、それ以前も、それ以後も、何度となく訪れているが、夫婦で積雪の中を歩いたのは、その1回だけだったような気がする。
記憶曖昧だが、どうも、その日の早朝、思い立って山梨県の山に登ろうと、雪山の準備をして車で出掛けたものの、目的の山への林道が通行止めになっており断念、引き返してきて、「せっかくだから、高尾山を歩いてみようか」ということになったようだ。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、ほんの数枚だが、プリントした写真がアルバムに貼って有る。
「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込み、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んであったが、コピペ、リメイクすることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


歩行ルート・歩程等

京王高尾山口駅前駐車場 → (1号路) → 薬王院本堂 → 奥ノ院不動堂 → 
高尾山山頂 → 一丁平 → 城山 → 小仏峠 → 景信山山頂 → 小仏バス停 →
小名路バス停 → 京王高尾山口駅前駐車場
(標準歩行所要時間=約4時間30分)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

午前10時30分頃、京王高尾山口駅前駐車場を出発したようだ。
数日前に降った雪が凍結し、足元が危ない中、
初詣参拝者でごった返す1号路を辿った。
とりあえず、人混みを抜けること優先で、薬王院を抜けて、
10時45分頃、高尾山山頂(標高599m)に到着。
山頂も、人でごった返しており、長居は無用、モミジ台へ、

 

2

なんと、陣馬山から積雪の中、マウンテンバイクで縦走してきたという若者達有り、

3

12時30分頃、一丁平へ、
日当たりの良いベンチで昼食

13時30分頃、城山山頂(標高670.3m)、
日当たりの良い広場のベンチは、ハイカーでぎっしり、
14時頃 小仏峠、
3軒の茶店のおばちゃん?が、
ハイカー一人一人に声を掛けていたような気がする。
14時30分頃 景信山山頂(標高727.1m)に到着、
日当たりの良い南面には、ほとんど積雪無く、多くのハイカーが休憩中、

5_3 
景信山から小仏に下る、直下には積雪20cmの箇所が有ったが、
軽アイゼン装着する程でもなかったようだ。
15時頃、小仏バス停に到着。
発車直前の路線バスに飛び乗り、途中、小名路バス停で下車、
京王高尾山口駅前駐車場に到着したのは、16時15分頃だったようだ。