草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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子どもたちは答えだけをきかされて育った

2014年10月28日 20時44分09秒 | 
 表題の言葉は、森本哲郎「生き方の研究」の一節である。
 わたしはこれまで無我夢中で勉強してきた小6の子たちがどうも適性問題に対してなんとも不器用な処し方をしているのが気になっていた。こうしなければならない、考えなければならない、と自分を縛ってしまうと、その考えもなにかぎこちない融通のきかないものになってしまう。いやだれしも陥る、それである。
 しばらく何もしない、何も考えない、いろいろとやらないのがいい。
 あの「昆虫記」を書いたファーブルは、貧乏な家に育った。森本の表現によると、「この子には何かを教えてくれるおとなたちもいなければ、絵本すらない。むろん、まの子供たちにあてがわれているさまざまなおもちゃ、テレビ番組や、ゲームや、マンガなど何一つない」のである。
 森本はもちろんファーブルが学べたのはファーブルの、つまり教わる側の資質の天才をあげるけれど、少なくとも今のように、「問う前に答えがある」社会で暮らす子供たちは、仮に天才を備えていたとしても、潰される運命にある。
 学問言う言葉に、森本は「問うことを学ぶ」とあてはめたけれど、「学ぶことは、問うこと」でいいのではないか。そして「問う」には、あてがよれたものが何もないということが必須なのである。
 現代の子供たちが不幸であるのは、なにもかもが予めあてがわれていることである。ゲームをあてがわれて、幼児期のもっとも「問う」ことをまなばなければならない時期に何も問う必要のない育ち方をしてきた子、テレビをあてがわれるのも同じことである。
 マンガをあてがわれて、問うことをしらないままに育った子。
 なにがいけないか。なにもかもがあてがわれていることが精神を啄むことである。
 なにもない。そこから心は育まれる。
 親が子に何もかも「答え」を与えてしまったのでは、子供はいつ心を育むのか。「問う」ことを始めたときに能力が開けていくのに、親たちは「問う」ことを封じることばかり子供たち強いている。
 子供は着せ替え人形ではない。親の趣味で服を着せ、親の趣味で親の趣味を押しつける、それは子供にあてがうことにほかならず、答えを示して、問いを封じる、つまりは心を封じることにほかならない。
 答えが無数に満ちあふれた社会で子供たちはただその答えの中から「選ぶ」ことだけしかできないまでに未熟なままに大人へとなっていく。
 何もない。そこから心は解放される。自らの問いが学問へと導いていく。
 幼児期に与えてはいけない。あてがってはいけない。
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