草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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今年もまた11月という微妙な月を迎えました

2014年10月29日 09時12分33秒 | 
 おはようございます。今日も早朝は青空です。今日は6時には目が覚めて今まで今日返却する予定のレジュメの添削をしておりました。ようやく終わりました。
 去年の11月は京都まで紅葉を見に行ってきましたが、今年は無理なのかなと未練を残して11月のカレンダーをじっと見ています。
 季節はいよいよ朝夕の冷え込みが厳しく今日はランチュウのためにヒーターを入れました。水遣りを怠ったゼラニウムは60%ほど枯れてしまいましたが、残りはなんとか緑を取り戻しました。いつも塾の子どもたちに笑われる、レモンの木のとげによってつくひっかき傷ですが、レモンの木に元気がなく葉が縮まってしまい、とげの勢いもありません。
 子どもの頃、郷里の別府は山と海に囲まれた急坂の平地ですが、その山々が紅くなる光景は日常のありふれた風景でした。わたしが小学校の頃は今のように石油スープもありませんでした。幼い頃はいつも祖母が炭に火を点けるのを横から覗いていました。七輪に新聞紙を丸めて入れ、その上に炭を乗せる。そしてマッチで火を点ける。めらめらと燃え上がる新聞紙の火がしばらくすると炭の一部を赤く怒らせる。種火の炭に上からまた炭を乗せていく。真っ赤になった炭は手をかざすと芯まで温まる。これを火鉢に移す。火鉢徳にはいつもお湯が沸いていた。正月の餅はいつもこの火鉢の火で焼いた。それから何年かすると時代は練炭火鉢に変わっていったけど、世間ではこの練炭火鉢による一酸化炭素中毒で死ぬ人がよく報じられた。
 あの頃にユニクロのヒートテックがあったらすごかった。子どもの頃の冬は寒かった。寒い時代でした。市内のいたるところに温泉(銭湯)があって、わたしの実家のまわりも3、4軒はあった。いや5、6軒はあった。青山温泉、九日天温泉、真光銭、白湯、上田の湯温泉、・・・。わたしはいろんなところに通ったけれど、その頃は月に50円とか、100円を払っていれば何度でも入れた。1回入るだけなら10円。市内を外れると、温泉はどこも無料だった。わたしの母は明礬温泉によく通った。白く濁ったとろりとした湯質が特徴で、遠く四国辺りから皮膚病の治療で逗留している人もいた。子どもには熱くて、よく水を入れて叱られた。熱いのをがまんして入ると皮膚は真っ赤になった。
 別府には家に風呂はあっても使うことはなくみな温泉に通った。家から数分いけばどこにでも温泉があった。浪人してた頃は夜になると毎晩近くの温泉に通った。冬の夜は寒くてせっかく温泉で温まっても家に帰る間に体は冷たくなった。ただ温泉だから湯冷めはそれほどひどくはなかったけれど。田舎の夜空にはまだ星がきらきらと輝いていた。満天星が輝き天の川だって見れた。月は大きく夜空を照らした。
 別府湾のまっすぐ東は東京だったのだなと後年気がついた。いつの日か赤い糸で結ばれた人に出会うのかなと遠い夜空の星を見ていたあの頃の自分が懐かしい。洗面器にタオルと石けん箱をカタカタいわせて通った夜の道、夜の空、まだ大学にも合格していなかった自分が、志を秘めてただただ見つめていた星空だった。
 11月という微妙な月はわたしには複雑な思いをそのままに映し出す。

 
 
 
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