今日の朝日である。「思春期も脳進化、IQ20ポイント上昇も 英大学研究」と題した記事が載った。記者は月舘彩子とある。朝日には、このように記者名を書く場合と書かない記事がある。原発などの重要記事などで名前を書かない匿名記事がたまにあるが論外である。
さて私がこの記事に注目したのは、もちろん私の仕事にとても参考になる情報と思えたからである。
IQに関する理解は、これまでIQは一生であまり変化しないと考えられていたというのが、共通の認識であったと思う。しかし、ロンドン大学の研究では、12~16歳のときに受けたIQテストの結果と4年後に受けた結果の比較から、4年間で20ポイントも上昇した人がいた一方、同じぐらい下がった人もいたというのである。
私は一生のうちに一度だけ知能テストを受けたことがある。小6のときであった。結果は教えてもらえなかったが、母が家庭訪問のときに「かなり高い」と担任にそれとなく言われたそうである。実は私の小学時代の通知表というのは、2と3ばかりで、6年間唯一の5が図画工作であったというひどいものであった。絵だけはなぜかよく人に誉められた記憶がある。そういうわけで両親は私のことをできる人間などとは思ってもいなかったのだと思う。
東京で塾を始めて実にさまざまな能力の子たちを教えてきた。もう26年にもなる。そういう中で私はいつも指導できる限界みたいなものに直面してきたと思う。DNAで規定された限界である。子どもたちというのは、もって生まれた知能でどうしょうもできない限界というものがあるということを知らしめられる。
だが、不思議な経験も数は少ないが経験してきた。小学時代にIQが足りないと思っていた子が、小学高学年ないし中学で想定外の伸び、理解力を示し始めたことがあった。小学低学年でも「できない」が、何かいいものを感じさせる子というのはいる。そういう子は長いスパンのうちに伸びていることがよくあった。ただそういう子の特徴というのは、努力家であったとことが共通していた。私などは中学になっていきなりできるようになった口である。中1や中2のころ「まるでわからなかった文章題」などが、中3になって「わかる」ようになったというのは、やはりIQが高くなった、成長したのか開発されたのかはわからないが、そういう気がしている。
私の指導体験例は、もともとあるIQが埋もれていて、類い希な努力の結果、姿を表すというようなことではないかと今では思っている。
ロンドン大学のプライス教授は「幼いうちに子どもの能力を決めつけてはいけない」と言う。その通りとしても、IQの低い子どもには実は2通りあり、もともと低い子と実はIQが高いのに低いと見られても仕方ない状態にある子である。後者の子は、長いスパンをかけた指導と本人の類い希なる努力により開花させることができるのではないか。私はそう考えている。教授は「大人になっても脳の構造変化が続いている可能性がある」と言う。もちろん努力の継続は前提であると思う。
小学生の中に「光る」何かを感じ取り、そこから埋もれたIQを掘り起こすことが、指導の技術と思う。が、重要なことがある。指導の成否は、子どもの努力に依存するということである。IQの低い子というのは、努力を嫌う。目の前の課題から「逃げる」。目の前の障害から「回避する」ために、様々な口実を言う。子どもが「ゲーム機を買ってくれたら勉強する」などと言ってきたら、回避行動と思ったほうがいい。子どもというのは、「逃げる」口実をつくるのは天才である。親が決して自分を見放さないことを見切っているところがある。それでそういう親の甘いところを突いてくる。IQが低いと思われていた子どもが「勉強する」「努力する」子であったなら、実は「思われていただけでIQの高い可能性が強い」。
もちろんIQは高くても勉強しない、怠け癖のついた子も多い。こちらはこちらで親の悩みの種である。が、いくらIQが高くても、努力しない子、勉強しない子は結局人生の先は見えている。
こうして見てくると、「努力する」「勉強する」ということがより重要なことであるとわかる。もし子どもが努力家、勉強家であるのなら、IQは高い。それがもともと高いか、まだ埋もれて低く見えるかは別として、高い蓋然性が強いと断言できる。
さて私がこの記事に注目したのは、もちろん私の仕事にとても参考になる情報と思えたからである。
IQに関する理解は、これまでIQは一生であまり変化しないと考えられていたというのが、共通の認識であったと思う。しかし、ロンドン大学の研究では、12~16歳のときに受けたIQテストの結果と4年後に受けた結果の比較から、4年間で20ポイントも上昇した人がいた一方、同じぐらい下がった人もいたというのである。
私は一生のうちに一度だけ知能テストを受けたことがある。小6のときであった。結果は教えてもらえなかったが、母が家庭訪問のときに「かなり高い」と担任にそれとなく言われたそうである。実は私の小学時代の通知表というのは、2と3ばかりで、6年間唯一の5が図画工作であったというひどいものであった。絵だけはなぜかよく人に誉められた記憶がある。そういうわけで両親は私のことをできる人間などとは思ってもいなかったのだと思う。
東京で塾を始めて実にさまざまな能力の子たちを教えてきた。もう26年にもなる。そういう中で私はいつも指導できる限界みたいなものに直面してきたと思う。DNAで規定された限界である。子どもたちというのは、もって生まれた知能でどうしょうもできない限界というものがあるということを知らしめられる。
だが、不思議な経験も数は少ないが経験してきた。小学時代にIQが足りないと思っていた子が、小学高学年ないし中学で想定外の伸び、理解力を示し始めたことがあった。小学低学年でも「できない」が、何かいいものを感じさせる子というのはいる。そういう子は長いスパンのうちに伸びていることがよくあった。ただそういう子の特徴というのは、努力家であったとことが共通していた。私などは中学になっていきなりできるようになった口である。中1や中2のころ「まるでわからなかった文章題」などが、中3になって「わかる」ようになったというのは、やはりIQが高くなった、成長したのか開発されたのかはわからないが、そういう気がしている。
私の指導体験例は、もともとあるIQが埋もれていて、類い希な努力の結果、姿を表すというようなことではないかと今では思っている。
ロンドン大学のプライス教授は「幼いうちに子どもの能力を決めつけてはいけない」と言う。その通りとしても、IQの低い子どもには実は2通りあり、もともと低い子と実はIQが高いのに低いと見られても仕方ない状態にある子である。後者の子は、長いスパンをかけた指導と本人の類い希なる努力により開花させることができるのではないか。私はそう考えている。教授は「大人になっても脳の構造変化が続いている可能性がある」と言う。もちろん努力の継続は前提であると思う。
小学生の中に「光る」何かを感じ取り、そこから埋もれたIQを掘り起こすことが、指導の技術と思う。が、重要なことがある。指導の成否は、子どもの努力に依存するということである。IQの低い子というのは、努力を嫌う。目の前の課題から「逃げる」。目の前の障害から「回避する」ために、様々な口実を言う。子どもが「ゲーム機を買ってくれたら勉強する」などと言ってきたら、回避行動と思ったほうがいい。子どもというのは、「逃げる」口実をつくるのは天才である。親が決して自分を見放さないことを見切っているところがある。それでそういう親の甘いところを突いてくる。IQが低いと思われていた子どもが「勉強する」「努力する」子であったなら、実は「思われていただけでIQの高い可能性が強い」。
もちろんIQは高くても勉強しない、怠け癖のついた子も多い。こちらはこちらで親の悩みの種である。が、いくらIQが高くても、努力しない子、勉強しない子は結局人生の先は見えている。
こうして見てくると、「努力する」「勉強する」ということがより重要なことであるとわかる。もし子どもが努力家、勉強家であるのなら、IQは高い。それがもともと高いか、まだ埋もれて低く見えるかは別として、高い蓋然性が強いと断言できる。