草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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修正できること

2015年10月11日 10時58分14秒 | 
 おはようございます。やや雲行きがおかしいようです。午前中は少し雨が降る予想ですが、今のところは降っておりません。今日は渋谷Aの指導日です。
 世の中には、塾など行かなくていいという家庭もある、逆にずっと塾に通う家庭もある、受験はしないから塾には行かなくてもいいという判断はあるのだろう、と思います。
 かつて、わたしが、「塾に行かないという選択」について、否定的な意見を述べたところ、自分の子が塾に行かないで都立中に受かったという父親が、わたしの主張を「危険な考えだ」とコメントしたことがありました。自分の子が塾に行かないで受かったから塾は不要というのは、自分の特殊なケースを一般的に敷衍するものでメチャクチャな論理ですが、わたしにはその父親から出た「危険な考えだ」という言葉のほうに違和感を感じました。「危険」というのは、何か、災厄に巻き込まれる危険なのでしょうか。いやそうではあるまい。この父親は「危険な思想だ」と言っている。戦前の「危険な思想」と言えば、社会主義、共産主義であった。 主張、意見について安易に危険などという言葉を使うのは権力的な発想であろう。中国や北朝鮮を例にとるまでもなく国家権力というのは、危険思想という名の下に弾圧してきた。少なくとも一般の人たちが、軽々しく、思想について危険などという言葉を使うべきではない。
 さて本論に戻ろう。わたしの率直な意見です。
 世の中の大半の小学生は、結局は中学生もふくまれることにはなろうけれど、塾に行っていようが行っていまいが、いずれにしても基礎学力はボロボロな状態です。
 大手はひどいが、わたしから言わせれば、中小塾もひどい。 中にはまともな塾があるのかな、とは思うけど、今のところそんな塾に行き当たったことがない。
 まともな塾を見つけるのは至難かもしれない。それなら大手というのもわかるけど、大手に1年、2年と通って、結局なにもできていないという子ならこれまでいくらでも見てきた。
 塾に行っていないけれど、学校ではよくできるという子もよくいた。
 しかし、竹の会で、実力を測ると、たいていはボロボロであった。
 余りのある小数の割り算を正確に計算できない、少し複雑な四則混合演算もできない、逆算もできない、割合になるともっともベタな問いの形式にしか対応できない。
 先の父親の「塾は不要」という考えも、塾に行ってもこの始末なら肯けないわけではない。
 いったい学校で何を教えているのか、そういうところまでくる。
 といってもどんな子どもでも教えればどうにかなるということではない。
 世の中には教えてどうなる、という子ばかりではない。
 教えてどうなるというのは、一度の指示で修正できる子のことである。
 しかし、残念ながら、学校で比較的できるとされている子であっても、一度で修正できる子は少ない。
 わたしが「この子は伸びる」という判断をするのも、この一度で修正できる子を見たときである。
 何度も何度も同じことを注意されながら修正できないという子が飛躍的に伸びるなどということはない。
 修正できるというとき、その前提にあるのは、きちんと理解していること、そして修正するほどの意思力というのは、実行力をともない、ひいては向上心に裏打ちされているということであろう。
 
 話しは、昨今の塾事情に戻るけれど、大手、弱小塾に通っている大半の子どもにまともに教育を受けている子はほとんどいないというのがわたしの意見である。
 巷の塾の弊害の原因は、カリキュラム通りに、形式的に進めるところからくると思われる。
 当人が、まだ、たとえば、余りのある小数の割り算をみっちり習熟していないのに、やり方さえわかれば、先へと進める。通年テキストを目次にしたがって進める。
 子どもが「わかった」という段階のとらえ方である。やりかたというか、操作手順さえ一度でもわかれば、先へ進める、それでいいのか、ということである。
 小学生の段階での塾というのは、形式的なカリキュラムで力をつけられるような性質のものではない。
 わたしは塾とは、ある意味道場であると思っている。ひとつの技を完全に習得するまでとにかく鍛える、反復練習させる、毎日のようにやる、これしかないのである。
 計算を一過性のもの、割合を一過性のもとして、瞬間で終わらせる、後は個人の問題として片づける、それが今の巷の塾の姿勢であろう。
 ちがうでしょ。 子どもはとにかく基本のところはいやというほど練習させるしかないのである。
 竹の会で鍛えられた子たちが、たとえわたしがそれほどできると評価しない子であっても、他塾に行くと、たちまち「できる子」に分類されるというのは、他所の塾がやるべきことをやってないということの証しであろう。 竹の会では、1年も指導すれば、早稲田進学会の模試でみな成績優良者となる。これはいったい何を意味しているのか。

 
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